159. 花嫁の誘惑
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ガチャリ。
水を汲み上げようとした時、玄関が開く音が聞こえて、両手に縄を握ったままナギは後ろを振り返った。
鶏達は相変わらずうるさかったが森の鳥達はまだ寝静まっていて、夜明け前の世界はしんとしていた。普段なら使用人達は眠っている時間で、館の玄関がこんなに早く開いた記憶はほとんどない。
ばしゃぁんっ!
ナギは縄から手を離していた。
上がりかけていた桶が引っ繰り返り、井戸の底で激しい水音を立てる。
薄暗い玄関ポーチに、女が二人立っていた。
「まあ。」
そう言って、黒い服の女を後ろに従えたアメルダが微笑んだ。
咄嗟にナギは、二階の窓を見上げた。
ハンネスは。一緒じゃなかったのか。
ハンネスとアメルダの婚儀からまだ二日だった。
こんな早朝に部屋を抜け出そうとする妻を見て、ハンネスは不思議に思ったりしなかったんだろうか。それとも余程深く寝てるのか。
少年が見上げた先には、誰の姿もなかった。
シャリ……。
衣擦れの音がする。
ナギが視線を地上に降ろすと、花嫁は玄関ポーチの階段を降りてこちらへやって来ようとしていた。表情のない黒い服の女がその後ろに付き従っている。
少年は全身を強張らせた。
やはりアメルダとこの女中はどこか普通じゃない。
まだ朝は肌寒く、アメルダは赤紫色の毛織を羽織っていた。羽織の下は夜着ではなく薄紫のドレスで、ゆるやかな三つ編みにしているだけだが、髪も左耳の下で形よくまとまっている。
新郎に全く気付かれずにベッドを出て、服を着替え、髪を結い、部屋の外まで出られるものだろうか。
ナギの疑問を察したのかどうか、少年と目が合うと、花嫁は何か意味ありげに小さく笑った。
青銅の瞳が井戸の前で立ち尽くす奴隷の少年の足先から頭までを、さっと撫でるように一瞥する。そして花嫁は、唇の両端を一際大きく上げて微笑んだ。
「似合っているわ。」
その微笑みを恐ろしいと感じて、ナギは微かにたじろいだ。だが表情には出さなかった。
本当なら頭の一つでも下げるべきかもしれない。必要以外は口を開くことを許されない奴隷だが、礼の言葉なら告げても咎められない気がしたし、今はむしろ、それを待たれているようにすら感じる。
それでもナギは、ただ無言でアメルダを見つめ返した。
ミルに何をした。
その言葉が、喉元まで出かかっていた。
ナギの反応が期待と違ったのだろう。
若い花嫁は少しだけ鼻白む様子を見せた。だがすぐに気を取り直したようで、奴隷の少年の目の前に立った時にはアメルダの顔には再び微笑が浮かんでいた。
香水の匂いがして、それが水の匂いや家畜の臭いに混じり、早朝の空気を乱した。
「私には好きに口を利いてよくてよ。」
四年以上、自由に発言することを禁じられてきた少年は、想像もしなかった花嫁の言葉に目を瞠った。
アメルダの狙いが分からない。
誘惑するように、花嫁は言葉を重ねた。
「ランタンは役立っているかしら。他に何か必要なものがあれば言って頂戴。」
「―――――――――――――――――――」
医者を。
一瞬、ナギはそう言いかけた。
「医者」をヴァルーダ語でなんと言うのか知っていれば、実際に言っていたかもしれない。
知らなくてよかったと思う。
ミルをあんな目に遭わせた張本人らしき人間に頼ろうとするのは、多分、正気の沙汰じゃない。
なおも無言でいる少年の前で、アメルダは首を巡らせると背後の黒い服の女に目配せした。
表情のない女中が前に進み出る。
婚儀の翌日、ゴルチエ家の人間が全員帰って行く中で、この女だけが帰郷の馬車に乗らなかった。まさかこの女中だけここに残るとは、その時までナギは思いもしなかった。
黒い服の女はナギに、手にしていた小さな布包みを差し出して来た。刺繍が入った白い布は、随分上質そうに見えた。
「領民に配った菓子よ。あなたも食べて頂戴。」
アメルダの言葉で包みの中味が分かる。
一昨日ハンネスとアメルダの婚儀が行われた村では、菓子や酒が振る舞われたのだと、ナギは麦畑で聞いていた。次期領主夫妻の婚儀は、貧しい田舎領地では見たことがない程に華やかであったらしく、昨日の麦畑は、一日中その話でもちきりだった。
少年は数秒、差し出された包みをただ見つめた。
そんな物はいらない。
そう言って突き返したかった。
冷気を纏う女中の瞳が、咎めるようにナギを見る。
動こうとしない手を、ナギは無理矢理動かした。
館の人間との間に、今は波風を立てては駄目だ。
両手で差し出された包みを、少年は右手で受け取った。だが言葉は発さない。
四年振りに与えられた「発言の自由」に適応できない振りをして、ナギは礼は口にしなかった。
アメルダはやはり面白くなさそうな表情をしたが、「まあいいわ」と呟いた。
それで用事が済んだのか、花嫁は右回りに踵を返した。
そして反転しながら、青銅の瞳はさりげなく家畜小屋の方を眺め渡した。
体の芯が冷たくなり、ナギは表情を凍り付かせた。内臓に冷水を浴びたかのようだった。
◇ ◇ ◇
やっぱりラスタの存在を知っている……?
井戸の前に二つの桶を残し、ナギは布包みだけを持って牛小屋への道を戻っていた。
花嫁と黒い服の女が玄関の向こうに去ってからも、ナギはしばらくの間そこに留まっていた。結局、二人の姿が二階の廊下に見えるまでそうしていた。
ナギがまだそこにいるのに気が付くと、自室の方へと歩きながら花嫁は微笑い、黒い服の女はただ無表情にこちらを見降ろした。
二人が館の一階に留まってこちらの様子を窺っていたりしないと分かり、ようやく少しだけ、ナギは安堵した。
もう森の鳥達も起きていて、空も白んでいる。
菓子はとても食べる気になれなかった。
最後にもう一度振り返って人の姿がないことを確認してから、少年は牛小屋の入り口を入った。
ぽんっ。
空中に、ふんだんにドレープが施されたズボン姿の少女が現れる。
今日のラスタの服は見る角度によって赤紫に見える部分や桃色に見える部分があって、複雑なグラデーションを織り成しながら煌めいていた。
ナギは少しだけたじろいだ。
竜人少女の頬は見たことがないくらいにぱんぱんに膨れていた。
「なんだあの女はっ。」
「……………ハンネスの――――――――――――」
「それは知っているっ!」
竜人の少女が尋ねようとしていることが分からず、ナギは困惑した。
井戸の前の様子を、ラスタはずっと見ていたのだろう。
自分は食べる気になれなかったが、領主が配った菓子は多分それなりに上質な筈で、ラスタには食べてほしいと思う。
竜人少女はそれ以上質問を重ねて来なかったので、空中の少女に、ナギはそっと包みを差し出した。
「一昨日結婚式で配られたお菓子らしい。――――――――――食べる?」
「いらぬっ!!」
ぷいっと少女が横を向く。
「―――――――――――――――――――」
他に食べる人間はいない。
食べ物を粗末にしてはいけないと、ナギは子供の頃から躾けられている。
畑で誰かにあげることも出来るかもしれないが、自分がアメルダから何かを貰ったことを、他人に知られない方がいい気がした。
仕方なく、ナギは自分で布の包みを開いた。
牛小屋は物を食べるのにふさわしい場所ではない。
家畜の臭いはきつい。
それでも布の中から、ほのかに甘い匂いが立ち昇った。
やはり上質そうな菓子だった。
ふわふわのスポンジの生地の上に甘そうな薄紫色のコーティングが乗っていて、その更に上に、なにかきらきらとした甘そうな粒が乗っている。
砂糖は高価だから、ヤナにいた時もこんな物はあまり食べたことがない。
でもこれを味わいたいと思わない。
干し草の納屋に移動することも出来たが、ナギはただ機械的にそれを口に入れようとした。
と、ラスタが目を見開いて怒った。
「ナギが食べるのはもっと駄目だ!!」
「でも。」
「ナギが食べるくらいだったらわたしが食べるっ!」
食欲がない訳じゃなかったのか。
ラスタに食べて貰えるのなら、それが一番いい。
少年は包みごと、少女に菓子を手渡した。
むうっと頬を膨らせたまま、竜人の少女は空中で数秒菓子を見つめた。
それから包み越しに両手に菓子を持ち、ぱくりと一口食べた。
不機嫌そうでも食べ方が上品なのが妙におかしい。
少女の目が丸くなる。
「―――――――――――――………おいしい?」
「――――――――――――――――――――――――――――――――うむ。」
たっぷり間を空いてから、渋々といった風にそれでもラスタが頷いて、ナギは思わず笑ってしまった。
ラスタはやっぱり素直だった。
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