156. 獣人達の帰る場所
「――――――――ラスタはいつか獣人の世界へ行くの?」
「大きくなったらな!」
元気に答えてから何かを感じ取ったのか、少女は慌てたように付け加えた。
「まだ先だぞ。」
慌てさせるような表情をしてしまったのか。
ラスタを心配させちゃ駄目だ。
自分を戒めると、少年は少しぎこちなく微笑んだ。
白髪の男からの監視が続いた冬。
ミルとラスタを早くここから逃がしたいのに身動きが取れない日々を、ナギは焦れながら過ごした。
その代わり、ナギは初めてラスタとたくさん遊んだ。
体を夜更かしに慣れさせようとすると、冬の夜は長かった。
クライヴの動きに神経を使いながらだったが、どんぐりの的入れゲームは毎晩白熱した。奴隷狩りに遭ってから、あんなに笑った日々はない。
異国の家畜小屋に少年はまだ繋がれていたが、その冬、二人はちょっとだけ幸せだった。
過酷な道の途中の小さな休憩場所だったような時間は、クライヴの監視が緩み、ラスタが四度目の成長を迎えると共に終わりを告げた。
二人で館への侵入を繰り返すようになったある夜。
「いつか獣人の世界に行く」と答えた竜人少女に、奴隷の少年は自分の望みを話した。
「―――――――――――――――――本気か。」
以前より高い位置にある青い光が丸くなった。
体を藁布団に沈めてはいたが、冬の冷気は凶悪だった。
少年の顔と体が強張っていたのは、寒さのせいもある。
青い光に、ナギは無言で頷いた。
「――――――――――――――――――――――――ナギがそう望むのなら。」
「――――――――――――………ありがとう………――――――――――――」
「ナギのことが大好きだからな!!」
自分の手すら見えない冬の闇の中だったのに、光を放つかのようなその時の少女の笑顔はナギの心に直接届いて、ナギには少女の姿が見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
すっかり春めきだした王都に、その日、異様な内容の書状を携えた使者が着いた。
建国以来の名家ゴルチエ家の当主、ゴウル=ゴルチエからだった。
「獣人によるトラム・ロウ河の氾濫は、陛下のご指示でしょうか。」
それが書状の内容だったが、全く覚えのない話にヴァルーダ王グスタフは驚愕した。
だがその日の内に、駄目押しするようにもう一人の使者が王都に着いた。
その氾濫が引き起こした水害で壊滅的な被害を受けた領地からの急使が、偶然にもゴルチエ家からの使者と同じ日に着いたのだ。
「もはや我が領地だけではどうにもなりませぬ。何卒ご助力を。」
被害の状況を報告すると、顔色を青ざめさせて、その使者は王都からの救援を請うた。
だがグスタフにしてみれば、救援の話をしている場合ではなかった。
軍務の要職者達が即座に招集され、駆け付けられる範囲にいた者達が次々と登城し、王城は俄かに不穏な空気に包まれた。
王都から見れば辺境の地だったが、被害のあったレイドン領は国境に近いという訳ではない。
他国の攻撃がそんな地に及んだとするのなら、ヴァルーダにとってそれは、数百年ぶりに経験する事態だった。
「西方諸国やもしれませぬ。」
「分かっておるわ!」
まだ可能性の一つを述べたに過ぎなかったのに思わぬ程に強く肯定されて、壮年の師団長は逆に焦った。
すぐに登城出来たのは副官クラスも含めて二十名程だったが、人数にぴったりの小さ目の会議室が選ばれたために、室内は狭苦しかった。
細長い会議卓と部屋の形はほぼ相似形で大きさは僅かにしか違わず、全員が席に着くと隣の席や椅子の後ろの壁との間に、余裕はほとんどなかった。
「まだ決めつけては。」
狭苦しい机を囲む別の師団長が助け舟を出す。
皆及び腰だ。
懸念する声はあった。
だが一年前の西方諸国との戦争に、グスタフは全く出し惜しみせずに獣人達を送り込んだ。
お蔭で僅か半年でヴァルーダの完勝と言える形で戦争を終結させることが出来はしたが、案の定、戦争が終わると従軍した獣人達は次々とヴァルーダを去った。
「恩返し」が済んだのだ。
獣人の恩返しの内容に、はっきりとした契約や決まりのようなものはない。
「恩返しを終えた」と判断するのは獣人側だ。
一見獣人側に都合がいいように思えるが、獣人達は大抵は、文句のつけようがない程の恩返しを行った。
僅か半年で戦争を終結させ、征服した国の統治機構を掌握し、獲得した大勢の奴隷を移送するところまでやってのけたのだから、実際彼らの働きには文句のつけようがなかった。
つまりヴァルーダは、戦闘向きの獣人の数をあの戦争で一気に減らしていたのだ。
再び戦となれば、去年のような訳にはいかない。
「今は<人狼>の数も少ないですし……」
そんな声が上がり、数人がちらちらと部屋の隅を見やった。
厳つい男達が囲む机から離れたその場所に、この世の者とは思えないような美しい女性が座っていた。
素っ気ない、しかも男物の服を着ていたが、その女性の周りだけ空気の色が違うかのようだった。
将軍の一人が何か言いたげな表情をしたのに気が付いて、ヴァルーダ王は慌ててその女性に声を掛けた。
「スーレイン。退っておれ。」
流れる水のようになめらかな髪を揺らして立ち上がり、男装の女は無言で室内に一礼すると、出口へと向かった。
集められた者達の失望の溜息を堪えるような空気に、グスタフは気が付かなかった。
膝まで届く金色の髪の女性が出て行くと、意見の具申を諦めた将軍は、話の当初から引っ掛かっていた疑問を口にした。
「まだ誰の差し金とも決められぬのでは――――――――――――それより陛下、ゴルチエ家の獣人はなぜレイドン領の近くにいたのです?」
ゴルチエ家の獣人がたまたま目撃していなければ、河の氾濫は自然災害と考えられて終わっていた筈である。
「娘が近くの領地に嫁入りしたのだ。道中の護衛に、獣人を一人付けたらしい。」
「あのような辺境にゴルチエ家の令嬢が?!」
事情を知らなかった者達は目を丸くしたが、グスタフは苛立たし気に一度頷いただけで、議論の先を促した。
叔父の一人とゴルチエ家の娘との間に起きたいざこざを、グスタフはこの日まですっかり忘れていた。当然その娘の婚儀が行われたことなど、今日まで意識もしていなかった。
◇
会議室を出てしばらく歩くと、スーレインは立ち止まって振り返った。
「お主まだおったのか。」
後ろを歩いて来る黒髪の男にそう声を掛ける。
スーレインと並んでも見劣りしない容貌を持つ男は、切れ長の目をちらりと会議室の方に向けてから応えた。
「そう急ぐこともないと思っていたが、面倒が起きそうであれば立ち去った方がいいかもしれぬな。」
長い黒髪が艶やかな青年は、一年前に王都に戦勝の報告を届けた<人狼>だった。
どこかの獣人がトラム・ロウを氾濫させたらしいと言う不穏な話を、もう聞き及んでいたのだ。
「そうした方がいい」と言うように、スーレインは仲間に頷いた。
「お主はどうする?」
<人狼>が尋ねる。スーレインは答えられなかった。
「大変だなお主は……。もう去ってしまったらどうだ?」
促されたが、スーレインはまだ無言だった。
グスタフの執着のため、スーレインにはなかなか「恩返し」の機会が与えられない。
廊下に添って並ぶ窓の向こうを、スーレインは見やった。
遠くの水害が嘘のように、春の空は穏やかに晴れていた。
ヴァルーダ一の大河の氾濫。
河港で働かされていると言ってたな………。
ふとあの丘で出会ったヤナ人の少年のことを思い出した。
今日より第三章スタートです。
またしばらくお付き合い頂けると幸いです。
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