154. 婚礼前夜の花嫁
次の瞬間、想像もしなかったことが起きた。
赤紫のドレスを纏った花嫁が、窓越しににっこりと微笑んだのだ。
ずっと不機嫌そうにしていた花嫁の笑顔をナギが見たのは、その時が初めてだった。
少年はそこに立ち尽くした。
正体の知れない花嫁から向けられた笑顔に、衝撃に近い驚きと恐れを感じた。
二人の目が合ったのは、ほんの数秒だった。
微笑みを浮かべたまま前へと向き直ると、花嫁は黒い服の女に先導されて階段の方へと去って行き、やがて姿が見えなくなった。
時間は随分遅いが、朝食へ向かう所だったのかもしれない。全面に花模様の刺繍が施された花嫁のドレスは華やかだったが夜会服ほどには体を締め付けておらず、ゆったりとしていて、普段着のようだった。
自分達に今、何が起きているんだろう。
誰もいなくなった二階の窓を見上げたまま、ナギはしばらくそこから動けなかった。半分が冷たく半分が熱いような不快な汗が、少年の肌にじんわりと纏わり付いた。
◇
見るからに上質で真新しい服を着た少年が現れると、麦畑も驚きの声に包まれた。
花嫁の一行は館に到着するまでに領内の幾つもの村を通過していたので、昨日畑当番ではなかった村人達にも、だから紺と金の服は知れ渡っていた。
「それ若奥様の家の服だろう?!」
麦畑の村人達にナギは質問攻めにされたが、自分にこの服が与えられ、ミルがあんな目に遭わされた理由はナギにも分からない。
「アメルダが自分の働きぶりを評価して」などと言うあの女中の空々しい説明を、信じたりしていなかった。
ナギは村人達からの質問にほとんど答えられず、気もそぞろだった。
昨日ミルに一体何があったのか。
今もしミルの容態が急変したとしても、自分がそれを知らされることはないのかもしれない。
全員がいつも通りに畑仕事に戻ってからも、ナギはそんなことばかりを考えていた。
「前から思っていたけど、やっぱりいい男よねえ。」
その日畑の女性達はナギを見やってはそんな話で盛り上がっていたが、小声で交わし合われたその会話に、少年は気付きもしなかった。
◇
もうひと騒動が起きたのは、昼食の後だった。
昼食にはいつもと同じ煮物と野菜が出されたが、やはり「アメルダの指示」でナギの盆には二皿が追加されていた。
加えられた皿の片方には、ナギが見たことのない料理が盛りつけられていた。
木苺ほどの大きさの赤い丸い物がシロップ漬けにされた何かの果物だと分かったのは、口に入れてからだ。
細かく刻んだ野菜をゼラチンで包んだものや、ソースが掛けられた魚のムースや、その皿に盛られた四種類の小品料理は、口に入れてみるまで何で出来ているのか、少年にはほとんど分からなかった。
そして最後の一皿には、白いパンが載せられていた。
喉をこじ開けるような思いで、昼食もナギは無理矢理食べた。
食べなければ体が持たない。
その食事の最中も、なんとかしてミルの容態を訊き出すことは出来ないかとナギは懸命に考え続けていた。
ラスタがいてくれれば。
竜人少女を頼ってしまう自分を叱る。
ラスタが自力で食糧を確保してくれているのは、自分がラスタの食事を用意出来ないせいだ。
「自室」を離れている間は、ナギもミルも使用人用の手洗いを使うことが許されていたので、食事を終えた後、ナギはなるべくゆっくりと用を済ませた。
だが時間を稼ぐ手段はそれで尽きた。
もう麦畑に戻るしかないという時。
「一緒に来い。」
凶悪な表情でナギを呼び止めたのは、ジェイコブだった。
「ミルに会えるのか」、とナギは思った。
通訳が必要になったのかもしれない。そんな想像をした。
だが奴隷の少年が連れて行かれたのは、ホールだった。
小太りの男が扉を開けると、庭園を臨む大きな窓が並ぶホールには、既にブワイエ家の使用人が大勢集まっていた。
扉を入って右寄りに幾つもの円卓が置かれていて、使用人達はその周りの席に着いていた。
料理長に連れられてナギが入ったのはここで宴がある時に給仕の使用人達が出入りする扉で、ホールの南壁のほぼ中央に位置していた。
優美な庭園と窓に近いホールの西側が空けられているのは、ダンスと音楽の奏者のためだ。尤も、ホールに立ち入ることのなかったナギがそんな設営事情を教えられたことはない。
扉の真向かい、北側には、赤い絨毯の敷かれた大きな階段があった。
ブワイエ一家の私室のある二階から直接ホールに降りることが出来る階段で、この階段の存在は、ナギも以前から知っている。
何が始まるんだ。ミルは―――――――――――?
驚くナギになんの説明も与えず、「立っていろ」とだけ言い残し、ジェイコブはさっさと円卓の空いていた席に腰を降ろした。座ることが許されなかった少年はそのまま扉の前に残ったが、使用人達の視線はちらちらとナギを向いていた。
ナギの後ろの扉はそれからも何度も開いて、使用人達が続々とやって来た。
ラスタが数えてくれたので、この館の使用人の数が四十一人であることはもう分かっている。ナギが思っていたよりも、その数は多かった。そのほぼ全員がホールに集まろうとしているように見える。
状況を把握しようとナギはその場の人数を数え出したが、すぐにあの老婆とクライヴの姿がないことに気が付いた。
あの女中はミルを看ているのかもしれない。容態が悪化したんじゃ。
全てがあまりに理不尽だった。
この国とこの国の人間達に対する激しい憎悪がこの時、少年の胸の中で逆巻いた。
程なくしてナギは、使用人達がここに集められた理由を察した。
北側の階段を、ブワイエ一家と花嫁がヘルネス夫妻を先頭として降りて来た。
騒めいていた使用人達が口をつぐんで立ち上がる。
次期当主夫人と使用人達との、正式な顔合わせが行われるのだ。
領主夫妻の後ろにハンネスとアメルダがおり、挙式予定のその二人に付き添うようにクライヴと黒い服の女が従っている。ヘルネスの母、サドラス、二人の娘達がその更に後ろを続いていた。
ホールの使用人達を見降ろすように、一家は階段の途中で立ち止まった。
こんな場面に参加を求められたことがないナギは、違和感を抱きながらその様子を眺めていた。
果たして使用人達を見渡した領主の男は、扉の前に立つナギの姿に気が付くと目を瞠った。
数瞬ナギを凝視したヘルネスは、驚愕した表情で息子の花嫁を振り返った。やはり目を見開いて、ほぼ同時にハンネスとクライヴもアメルダを見やっていた。
自分にこの服が与えられることを、ブワイエ一家すら知らなかったのだ。
彼らの反応は、ナギにそう物語っていた。
「おい……どういうことだ?」
表現し難い沈黙の後に、手を取っていた自らの花嫁に唸るようにそう尋ねたのは、ハンネスだった。
段上で動揺を見せていなかったのは、アメルダと黒い服の女だけだった。
「働きのいい奴隷に報いるのは当然のことよ。彼はうちの馬もよく世話してくれたわ。」
明日挙式する相手に平然としてそう応えると、青銅の瞳の花嫁は、少年を向いて微笑んだ。
その瞬間、ブワイエ父子とクライヴが、刺すような視線でナギを見た。
ずっと仏頂面をしていた花嫁が少年奴隷に見せた笑顔は、使用人達にも奇妙で巨大な緊張をもたらした。
ぞっとして、ナギは微かに後退った。
アメルダの今の微笑みが、自分の立場を酷く悪化させたのを感じた。
◇ ◇ ◇
ぽんっ。
宙から少女が降って来る。
小さな少女をいつも通りに抱き止めはしたものの、その後はナギは、声を発することすら出来なかった。
その時間まで自分が今日をどう過ごしていたのか、ナギはよく思い出せない。
竜人の少女を腕に抱いたまま、扉に背中を預けるようにして少年はその場にずるずると崩れ落ちた。
「ナギ?!どうしたんだ?!」
片手にラスタを抱いたナギは、もう片方の手で顔を覆ってうなだれていた。
少年を案じる竜人少女の声が、牛小屋に響いた。
読んで下さっている方、今日たまたま読んで下さった方、本当にありがとうございます!!
第2章は次回かその次の回で完結の予定です。
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