153. 絶叫
血管が破れそうに激しく心臓が打っていた。
誰にも引き止められることなく、ナギはミルの前へと辿り着いた。
「ミル………?」
掠れ声で呼び掛ける。
ミルはただ絶句して少年を見つめていた。
ミルも服と灯りを貰えたかもしれない。
一瞬前、ほんの微かにでもそんな期待を抱いてしまったことをナギは後悔していた。
ふと、何かの香りが鼻を突いた。
覚えのある臭いだ。
記憶を探り当てて、はっとする。
薬草―――――――――――――あの老婆がすり潰して、怪我人の傷口に塗る、薬草。
両頬の痣以外にも怪我をしている?
ミルはどうして昨日の服を着ていないんだ?
服が駄目になってしまったのかもしれないと想像して、ナギの表情は凍り付いた。
「おい…」「ちょっと」
竈の前に立ったままのジェイコブとタバサが僅かに声を上げたが、奴隷の勝手な行動を誰も制止しようとはしなかった。
野菜と小刀を持つミルの手が震えていた。
凍り付いていた時間が溶けたかのように、ミルの方へとナギの体が微かに動いた。
目の前のナギはまるで王子様のように素敵だった。
だがミルは、反射的に後ろに引いた。
ごとっ。
かしゃんっ!
少女が手にしていた物が床に転がる。
「ミル……?」
その反応をどう理解していいのか分からなかったナギが戸惑う表情を見せる。
ミル自身にも予想外のことだった。
だが体が、紺と金の服を受け付けなかった。
狂ったかのような速さで、心臓が少女の体の内側を叩いた。
胸が苦しい――――――――――――――――――
「……!」
ナギの反応は早かった。
故郷で弟や妹が高熱を出した時、こんな表情をしていた。焦点が合わないようなミルの潤んだ瞳は、その時の妹や弟の瞳とそっくりだった。
「ミルッ!!」
驚きと動揺が台所を包む。
椅子から崩れ落ちようとした少女の奴隷を、少年の奴隷が抱きかかえるようにして受け止めていた。
ぐったりとしている少女の体が熱い。
白い服が汚れたのではないかと疑う程に色褪せ、擦り切れた服の下から薬草の臭いがしている。それが広い範囲に渡っていて、怪我が全身に及んでいることを知らせていた。
ミルに何が。
「ミル!!」
叫びながら、ミルを抱き上げてナギは立ち上がった。
腕の中で少女の目が微かに開く。
タバサが竈の前を離れてやって来る。
「熱があります!手当てしてください!」
ナギがヴァルーダ語で何かを叫ぶのをミルは見ていた。「手当てしてください」という言葉は、ミルにも分かった。
体が上手く動かない。
ナギは自分には、「体調を整えること」しか望まなかったのに。
互いの頬が触れそうに近い少年の顔を見つめながら、少女は思った。
たったそれだけのことすら、ままならなかった。
急激に熱が上がり出しているのを感じる。
お母さん―――――――――――――――――――
懐かしい故郷と家族に、ミルは心の中で呼び掛けた。セナムの人達の姿も、脳裏をよぎった。
ごめんなさい――――――――――――――――――
もし自分が駄目だったとしても。
ナギだけは故郷に帰さなくちゃ。
少年が叫ぶようにタバサに何かを言っている。
「あの老女中を呼んでほしい」とナギは訴えていた。
戦争状態の日に起きたまずい事態に、タバサも動揺していた。
「うるさいわね!分かってるわよ!」
そう怒鳴りつけた後、タバサは少年の腕の中のミルを見やった。
「ねえあんた、本当に働けないの?」
タバサが躊躇うようにそう言うのを聞いた時、ナギの身体を激しい怒りが貫いた。
「ふざけるな!!」
台所の空気がさっと変わった。
「なんだって?!」とタバサが喚き、太った料理人が「おい!!」と怒鳴りながら奴隷の少年の方へと動く。
ミルははっと目を開いて少年を見上げた。
腕にミルを抱き、ナギは集まる全ての視線を睨み返すようにして立っていた。
ミルを置いて脱出する選択はナギにはなかった。
もしここでミルを失うのなら、この場にいる全員を殴り倒して館に火を放ってやると思う。火も包丁も台所にはある。ミルが野菜の皮を剥いていた小刀なら、今目の前に転がっていた。
「ナギ……!駄目……!」
少年の腕の中で、少女が体を起こした。
「ミル……?!」
ナギの右肩に、少女は自分の顎を載せるようにした。二人の体が上体を合わせて重なり合う。ミルは自分の体で、少年を守ろうとしていた。
ミル………!
泣きそうになった。
一体ミルに、何が起きたんだ。
少年が言葉を失っているとミルが少しだけ顔を上げ、二人の目が合った。少女の頬は、両側とも青黒く腫れていた。
ミルの右手が少年の頬に触れる。
熱に潤む瞳でミルは微笑んだ。
そして二人だけの秘密の言葉で、少女は少年を鎮めようとした。
「夏までに、ちゃんと治すから。」
「………!」
三人で一緒に、ヤナへ。
そうだ、自棄を起こしちゃいけない。
目の前にジェイコブが立っている。だがまだ拳を振り上げる様子はない。小太りの料理人も、珍しく表情に迷いを見せていた。
「ミル……何があったの?」
「―――――――――――――……花嫁が……」
その言葉に、ナギは息を飲んだ。
「ア……」
「アメルダが」、と言いかけて口をつぐむ。
ここにいる人間達は自分達の言葉を知らないが、「アメルダ」という名前は分かってしまう。
「………ナギ、あの人に気を付けて。」
「………。」
あの花嫁と女中は、何を目的に行動しているのだろう。
だが何かのために意図してミルを傷付けたのだとするなら、許すことが出来ない。
ミルの背を抱くナギの手に、力が籠った。
ミルは微かに苦し気な表情をした。少年の腕が、背中の傷に障っていた。だが少女は、何も言わなかった。
「―――――――――――――――――――」
ミルを抱き上げたまま、ナギは使用人達に背を向けた。
ミルが座っていた場所は台所の端なので、目の前は壁だった。
「立てる?」
小声で少女に尋ねる。頷いた少女を、ナギは壁の前にそっと立たせた。
戸惑う少女の両脇に自分の腕を付き、少年は壁と自分自身の体でミルを包んだ。
おそらく殴られるだろう。
でもこれ以上、ミルは傷付けさせない。
「ナギ……!」
少年の意図を理解したミルははっとしたが、身動きは出来なかった。
この距離で体を大きく動かすと、足の鎖がナギに当たってしまう。
この一年でまたぐっと背が伸びたナギの体は、少女の姿を完全に覆っていた。
この時台所にはジェイコブの他に、もう二人男がいた。
三人掛かりで殴られることもナギは覚悟していたが、意外にも、いつまでたってもそれは起きなかった。
昨日から今朝に掛けて何が起きているのか、使用人達も理解出来ずに戸惑っていたのだ。
◇
麦畑に向かって、ナギは歩いていた。
後ろ髪を引かれる思いがする。
今日は通訳としてミルに同行させて貰えなかった。
今すぐにでもミルの所へ行って、ミルの具合を確認したいのに。
ミルが台所から連れ出された後、ナギは信じられない程豪華な朝食を出された。
「若奥様がお前にも祝い膳を出せだとよ。」
複雑な表情でジェイコブが突き出してきた盆に並べられていたのは、故郷にいた時でさえナギが食べたことがないような、高級そうな料理だった。
ミルは?と思った。
ミルにも同じものが、ちゃんと与えられたのだろうか。
空腹なのに、心が受け付けなかった。
無理矢理詰め込むようにして、ナギはその朝食を食べた。
奴隷狩りに遭ってから初めて腹一杯に食べたが、ナギは吐きそうだった。
前庭で、少年は足を止めた。
得体の知れない女中と花嫁。
不安に駆られて少年は振り返り、館の二階を見上げた。
はっとする。
二階の廊下を、あの女中と花嫁が歩いている。
また真っ先に、あの女中と目が合った。相変わらず生気を感じさせない氷のような瞳だ。
背筋が寒くなる。
だが今日は、花嫁とも目が合った。
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