15. 運命の日
行かないと。
罪悪感に押し潰されそうだったが、ここで謝罪の言葉を口にするのは自分の罪の意識を軽くしたいだけと思えて、言えなかった。
ごめん。
それでも言わずにおれなかったその言葉を心の中だけで告げると、ナギは踵を返した。
だが納屋を出て行こうとするナギを、黒竜は宙を飛んで追って来た。
ぱたぱた、ぱた。
振り返り、両手を差し伸べる。
小さな竜はぱたぱたとその手の中に降りて来た。
どうすれば分かって貰えるだろう。
身勝手、と思いながら、今は他に道がなかった。
「連れて行けないんだ―――――――――。必ず迎えに来るから、ここで待ってて。」
手の中の竜に、真剣に語りかけた。
すると初めて竜が、少し不安そうな様子を見せた。
手の上で、小さな体が落ち着かなげに微かに揺れる。
竜がどの程度自分の言葉を理解しているのかは、分からなかった。
苦しい思いを押し殺し、少年は黒竜を干し草の山の上に戻した。
また戸口へ向かう。再び小さな竜が追って来た。もう一度両手を差し伸べる。
ぱたたたた………
が、竜は今度はナギの手の中に降りて来なかった。
やっぱり、この子は賢い。
赤ちゃん竜の飛び方はずっと、今にも落ちそうに覚束なかった。それでも足を鎖で縛られたナギが、飛び回る相手を掴まえたり振り切ったりするのは、難しい。
「――――――――――――――」
昔自分の後を追って来る弟や妹達を振り切らなければいけないことが時々あった。人間の子供と行動が似ている竜の赤ちゃんにも、そのやり方は通用しそうだと思う。
罪悪感が更に強くなったが、ナギは黙って両手を降ろし、その場にじっと立った。
ぱたたたた……がくんっ、ぱたぱたぱた……かくんっ
何度も落ちかけながら、小さな竜がナギの周りを飛ぶ。だが少年はなんの反応も見せずに、無言でそこに立ち続けた。
ぱたぱたぱた……かくんっ、ぱた、ぱた
黒竜はしばらく飛んでいたが反応がないことに飽きたのか、やがて好奇心旺盛な青い瞳は干し草の方に向いた。
少しだけナギから離れて、干し草の方へと竜が動く。
ごめん……!
がちゃんっ!!
納屋の外に滑り出て扉を閉めた時、鉄枷が予想以上に大きな音を立てた。
その音に、自分の体が切り裂かれる思いがする。
こっ、こっ、こっ、こっ……………
木の扉の内側からそんな音が響いてきた。おそらく黒竜が嘴で扉を叩いているのだろう。
今竜は、どんな表情を浮かべているだろう。
「しーっ、静かにして、ここで待ってて。」
強烈な自責の念の中で、ナギは必死に竜に願った。
ここを乗り越えられなければ、それで全てが終わってしまう。
納屋は牛小屋を出て右の、すぐ目と鼻の先にあった。
もうじき牛小屋にも鶏小屋にも、館の人間がやって来る。
彼らは普段納屋には入らないが、これだけ近いのだ。小さいとは言えこの音は、聞き咎められる可能性があった。
こっ、こっ。 こっ、こっ、こっ、こっ………
心を刻む音を聴きながら、扉の前でナギは待った。
両開きの納屋の扉を叩く音は、それからしばらくの間断続的に続いたが、やがて少しずつ間隔が開きだした。
そして遂に、その音は止んだ。
「―――――――――――――――――」
どこまでやれるだろう。
昼まで待たずに発覚してしまうかもしれなかった。
人間の赤ちゃんになったりしさえしなければ、雑穀が食べられ、水が飲める竜が夕方までに命の危機に陥ることはないのでは、とも思う。
ただ竜が見つかった時に、自分が無事でいられる可能性は低かった。
もう一度無事に、会えるだろうか。
無言で扉を見つめた。
ごめん。一秒でも早く戻って来るから。
胸が潰れそうな思いの中で踵を返すと、ナギは運命の一日に向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
朝食前のナギの最後の仕事は、馬小屋の掃除と餌やりだった。
牛小屋と鶏小屋は石塀で館と隔てられていたが、馬小屋だけは石塀の反対側の、館の側にある。
後ろ髪を引かれながら牛小屋の前と鶏小屋の前を通り、木戸を開け、石塀の向こう側へ出た。
馬小屋があるのは裏庭の方だ。
館と石塀の間に挟まれた道を通ってそちらへと向かう。館の壁は要塞のように、ナギの右に聳え立っていた。
裏庭では庭師が草木に水をやっていた。
奴隷の少年に挨拶をする人間はいない。
ナギは黙って馬小屋の戸を入り、裏庭にある井戸から水を運んで、小屋に三頭いる馬の世話をこなした。
馬だけは、へルネスと二人の息子達もある程度自分達で世話をしている。
戦場にも出る馬は身分の高い人間達にとって特別な存在で、「馬の世話を一通りこなせる」ことは、貴人の嗜みでもあるらしい。
そんな事情と頭数の違いもあって、普段なら馬の世話は牛小屋や鶏小屋程大変ではないのだが、今は精神的にも身体的にもきつかった。
馬房から馬を出しながら、ミルのことが頭をよぎった。
怪我が治ればあの部屋から出されてしまうのだろう、少女の行く先が気になったのだ。
牛小屋以外となると馬小屋となりそうなものだが、馬小屋は考えにくかった。
馬小屋にだけはブワイエ一家や、使用人達までもが頻繁に出入りしている。
小屋に置かれている革製や鉄製の馬具は、金目の物でもあった。
奴隷をここに置くとは思えなかった。
でも干し草の納屋は隙間風が酷いし、雑穀の納屋は扉を閉めると真っ暗で、寒さもきつい。
数十羽の鶏が跳び回りながら糞を落とす鶏小屋は、そもそも人が寝起き出来るような場所じゃなかった。雄鶏が夜明け前からけたたましく鳴くことも大問題だったが、それ以前の問題として、鶏小屋にはちゃんとした壁すらない。
―――――――――もし竜が見つかってしまったら、ミルをここに一人で
残すことになるかもしれない。そしたら、ミルが牛小屋に……?
自分が捕まってしまった後のミルのことを考えると、息が苦しくなった。
緊張の中で作業を終えた。
今のところ、なんの騒ぎも起きていない。
井戸で汚れた足と手を洗った。
胃が痛くなる程お腹が空いている。
これでようやく、朝食が貰える。
今日これから何が起こるとしても、空腹のまま対処するのはきついだろう。
しっかり食べておかないと。
本当は叫び出したい程怖かった。だが恐怖心を抑え込んで、少年は館へと向かった。
ナギは食事を、館の台所で受け取ることになっている。台所には裏庭に向いた勝手口があり、基本的に、ナギが出入りしていい館の入り口はここだけだった。
勝手口の扉を開けると、部屋の右奥の竈の前にいた男が振り返った。
料理長のジェイコブだ。
小太りで、頭髪が乏しいジェイコブは常に不機嫌で、些細なことですぐにキレる。髪色は明るい茶色だが、頭頂の髪はもうほとんどなかった。
もちろん挨拶などはない。
太った男はいつもと同じに、奴隷の少年をただじろりと睨んだ。
だがこの時、ナギの意識と視線はジェイコブには向かず、別の場所に貼り付いていた。
「……!」
どうして。
台所の片隅に、ミルが座らせられていた。
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