146. 牛小屋の緊張
ぎいぃぃぃぃ………
扉の激しい軋み音は、不審な女を誰何するかのようだった。
暗闇に蠢く牛達を、オレンジ色の灯が照らし出す。
女の瞳がさっと牛小屋の中を見回したのを、ナギは見逃さなかった。
やっぱりラスタのことを何か知っている――――――――――――?
だがラスタは今、ここにはいない。
「ろうそくは台所で補充出来るようにしておきます。好きなだけ使ってよいとのアメルダ様の仰せです。」
そう話す女の瞳が、まださり気なく周囲を窺っている。
何も表情に出さないようにして、ナギは無言で頷いた。でも全身が緊張しているのを感じる。
ナギが帰って来る時、ラスタはいつも扉が開く前からナギの様子を見ているらしい。だからたとえこの場にいたとしても簡単に姿を目撃されたりはしなかっただろうが、少女の不在が分かっているので、少年は少しだけ落ち着けた。
女中はしかし、それ以上牛小屋の中を探るような素振りは見せなかった。あっさりと引き下がるかのように、黒い服の女は踵を返した。
「着替えの服と肌着も用意してあります。次の沐浴の時にはそれを着るように。」
女はそれだけ言い残し、開けられたままの扉を出て行った。
人二人が通れる分だけ開いていた板戸の向こうで、足音が遠ざかって行く。少年はしばらくの間聞き耳を立てていたが、やがて彼は自分の「部屋」の下まで歩いてランタンを「部屋」に置いた。
梯子は登らない。
ナギはもう一度扉の前まで戻り、それからそっと外を覗いた。
真っ暗な世界に星明りと煌々と火が灯る館と、女が持つオレンジ色の灯が見える。
黒い服の女は、鶏小屋の前を過ぎようとしていた。
この扉を引けば、また静寂を引き裂く激しい音がする。女が木戸の向こうに去るまで、ナギは小屋の入り口を閉める気になれなかった。
キィ……。
闇の中であの木戸が開き、閉められる微かな音がする。ランタンが放つオレンジ色が館の方へと遠ざかって行った。
ギッ……ギギッ……
ようやく、ナギは扉を閉めた。だがナギはそれからも、少しの間扉に耳を付けて外の気配を探った。
数秒そうしていたが、女が戻って来るような足音は聞こえなかった。
だが安心感はない。
何が起きているんだ…………。
灯が灯された小屋の中を少年は見つめた。
今日一日で一気に二頭の仲間を減らした牛達が、どこか落ち着かなげにしている。
ラスタ…………ミル……………。
あの雷のことを思い出した。異様な雷と、遠くに見えたやはり異様な灰色の雲。
あれはやっぱり、自然現象ではなかったのではないか。
まさか獣人が……?
二人は無事だろうか。
今すぐ確かめたかったが、ナギには方法がなかった。
◇
それから長い時間が経った。
この場合、堂々と火が使えるようになったことをよかったと思うべきなのか。
体は夜更かしにだいぶ慣れてはきていたが、もし真っ暗で何もすることがなかったら、さすがに眠気に襲われずにいた自信がない。
オレンジの灯の中で、ナギは自分の「布団」を使って、ひたすら縄を編んでいた。
道具はないので完全に手作業だったが、他に出来ることがなかったので、縄は、随分長くなった。
何かを縛ったり運んだり、様々なことに使うから、野営しながらの旅にしっかりとした縄は必需品だ。
ナギの布団となっている藁は牛達の敷布団としても使われているので、必要であればナギでも補充することが出来た。なにせ牛達の敷き藁を毎日交換しているのはナギだったから。
普段ならもっと綺麗に編めるのに、今日のナギの仕事は、だが雑だった。
今ナギは、不安で仕方がない。
あの女中と花嫁は、ラスタのことを知っているように思えてならない。
でもだとしたら、なぜ自分に服と灯りだけ与えて放置するのだろう。
時間が経つ程に不安が強くなっていく。
「アメルダ様があなたの仕事ぶりをご覧になってのことです。」
服を与える理由をあの女中はナギにそう説明したが、それを素直に信じられる筈もない。
一年前に数日滞在しただけのあの花嫁が、いつどこで自分の「仕事ぶり」を見ていたと言うのか。ナギがいた場所に、あの花嫁がいたことなどほとんどなかった。
突然の思い付きで「制服の予備を渡された」とも思えない。
ナギに与えられた服は、ゴルチエ家の護衛兵達が着ていた物とは違っていたのだ。首許や袖の金の装飾は、護衛が着ている物よりずっとシンプルだった。
おそらくこの服はナギのためにわざわざ用意された上、館に持ち込まれていた。
一年前にアメルダが滞在した時のこと。
四カ月前に、あの女中が来た時のこと。
今日アメルダが到着してからのこと。
必死に思い返してみたが、花嫁とあの女中の行動の理由が分からない。
これ以上待てない。
少年の不安が頂点に達した時。
ぽんっ。
「何があったんだ?!」
牛小屋の中の明るさが増した気がする。
光に包まれているかのような少女が空中に、目を見開くようにして立っていた。
「ラスタ!!」
無事だった。
安堵と疲労が、同時にナギを襲った。
長時間の強烈な不安と緊張から、少年はようやく少しだけ解放された。




