表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第五章開始】竜人少女と奴隷の少年  作者: 大久 永里子
第二章 少年と竜人
145/239

145. 引き裂くもの


 欲情を煮固めたようなどろりとした瞳が自分に向けられているのに気が付いて、ぞっとしてミルは、手に持ったままでいたシーツで体の前を覆った。


 少女はそのまま急いで立ち上がろうとしたが、それは出来なかった。


「あ……!」


 小さく悲鳴を上げる。

 ミルはもう一度転び、シーツも手から落とした。


 体じゅうに、少女は突然の痛みを感じた。


 激しい痛みではなかったがその瞬間まで感じていなかったから、心の準備がなかった。床や鎖に打ち付けられたミルの体は、幾つもの怪我を負っていたのだ。



 初めて館に潜入したあの夜に起きた出来事を、ナギはミルに告げていない。

 「ハンネスやジェイコブに近付かないように」と少女に告げたいのは山々だったが、行動の自由のないミルにそう言ったところで、恐怖を与える以外の役に立たないからだ。


 だが館の男達から時折向けられる視線に、ミルが完全に鈍感でいられた訳ではなかった。何度も感じた不穏な気配を、少女も少年に告げずにいただけだ。



 意識と体勢を、ミルはすぐに立て直した。

 さっと半身を起こしてハンネスに背を向け、服の前を掻き合わせる。


 だが。



 ビイィッ。



 「……!」

 はっとする。


 扉に留められたスカートの裾が、音を立てて裂けていた。


 アメルダの剣は揺らぎも見せずに戸板に食い込んでいて、ミルが服を引き寄せた分だけ、布地の方が裂けたのだった。



 一瞬、泣きそうになる。


 二人の男の前でこんな姿を晒している悔しさも大きい。

 でもそれだけではなかった。



 ヴァルーダ人の勝手で着せ替えられることに、屈辱的な思いはある。

 あの事故で自分の手足は不自由になり、体には、消えない傷痕が刻まれている。



 それでもまともな服はやっぱり嬉しかったし、ナギの前で綺麗でいたいという思いが、やっぱり、少しだけあったのだ。



 裂けてしまった服は、もう修復出来ない。



  立たないと。



 波立つ感情を押し殺し、少女は自分を叱り付けた。


 領主の息子とそのお付きは花嫁を退けてくれたようには見えたが、二人の男から向けられるに、善意や好意のようなものはなかった。彼らが自分をどうするつもりでいるのか、分からない。



 まだ終わっていない。


 服の裾はまだ短剣に繋ぎ留められている。


 まずこの剣から自由にならないと。


 青いの剣は、横に座るミルの肩より低い位置に斜めに突き立っていた。



  剣……?



 剣――――――――――――――――――それが今、ミルの目の前にある。



 少女は咄嗟に、白刃越しにハンネスを見やった。

 視線に気が付いた領主の息子が、我に返った表情を見せる。



 その瞬間。




 ぱんっ。




 また鎖の音と布地が裂ける音がする。

 剣と反対方向に、ミルは倒れ込んでいた。

 


 何が起きたのか、即座には分からなかった。


 白髪の男に左頬を叩かれたのだとミルが理解した時には、老臣がもう剣のつかを握っていた。



「この野郎……」

 領主の息子が、怒りを込めた眼差しを向けて来る。


 ミルが感じたのは「痛み」というより「衝撃」で、この時、少女の体はパニックを起こしていた。起きなければ。そう思うのに体が動かない。



 ギチ、ギチッ……



 白髪の使用人は何度かを揺らすようにして、扉から剣を引き抜いた。その男に見降ろされ目が合った時、ミルの顔からは血の気が引いた。


 年老いた男は冷淡な視線をミルに注いでいるだけだ。


 だがなぜか、アメルダに剣を振りかざされた時より今の方がミルは怖かった。


 あの夜、地下牢でも感じた。

 この老使用人の身のこなしや目付きは、どこか館のほかの人間達と違っている。



「今俺に剣を向けようとしたのか?!」



 少女の知らない言葉で、領主の息子が何かを怒鳴った。


 ミルの心臓は激しく打った。


 二人の男の害意が急激に強くなったのを感じる。


 唯一の逃げ道だった扉の前には、今はもう、クライヴが立っていた。


 口元を歪めて領主の息子が近付いて来る。

 ――――――――――――――だがそれを制止したのは、剣を持つ白髪の男だった。


「ハンネス様。ここは私がお預かりしますので、ハンネス様は一度ヘルネス様の部屋にお戻り下さい。」

「何?」


 アメルダの行為はもちろん大事件だが、クライヴにはもう一つ、気に掛かっていることがあった。


 晴天に落ちた、あの異様な雷の件だ。


「ことによると、敷地内に落ちたやも知れません。」


 養育係の進言で、領主の息子もようやく雷のことを思い返した。

 確かにそう思える程、あの閃光と衝撃は近かった。父は今頃被害の確認をしているかもしれない。


 またサドラスに後れを取るようなことがあってはならない。クライヴが案じていることに、ハンネスも気が付いた。




 花嫁の後を追うようにハンネスがあたふたと階段をのぼって行き、ミルは白髪の男と共にその部屋に残された。


 15歳の少女は床に座ったまま、両手でボタンを失った服の前を抑えていた。


 右手に剣を持ち、出口を塞ぐように立つ年老いた男が冷たい視線を少女に注ぐ。

人間を平気で殺しそうな目に見えて、少女は恐怖に凍り付いた。


 だがクライヴも、この時決して平静だった訳ではない。アメルダが起こした異常な事件のことを、クライヴも飲み込みきれていなかった。


 白髪の男は、突き立っていた剣の痕を見やった。

 両開きの扉の右側。その更に右下に近い低い場所が無残にひび割れている。


 アメルダの短剣はミルの服を貫いて、扉にがっちりと食い込んでいた。引き抜くのにクライヴでも苦労した程だ。

 それだけ見れば、まるで手練れの仕業のように見える。


 だがこれは偶然だったのかもしれない、とも思う。


 単に失敗しただけかもしれないが剣を投げた時、アメルダはミルを狙ったようには見えなかった。むしろミルに当てないように、少女から離れた低い位置を狙ったように見えた。

 ミルの服に刺さったのは、ボタンが取れた少女の服が横に広がっていたせいではないか。

 奴隷をすぐには始末出来ないと知り、アメルダは腹いせをしただけのようにも見えた。



 それよりも奴隷の目の前に刃物を置いて行ったアメルダの軽率に、クライヴは腹が立った。


 危険に気が付かずハンネスがぼんやりとしていたことを思い出し、ひやりとする。



  止むを得まい―――――――――――――――――――――――



 ブワイエ家で実際に戦場に出た経験を持つ者は、今となってはクライヴとヘルネスと、あとは先代の頃から仕えている年寄りが一人いるだけだ。


 ヴァルーダの広大な国土は、まともに統治できる面積の上限に達しているのだろう。


 昨年にわずか半年で終結した西方諸国との戦争を除いて、他国を侵略するような戦争は、ヴァルーダはもう何年も起こしていない。

 この館では使用人の男の半分は武芸を修めていて警備を兼ねていたし、いざとなれば彼らは戦地にも出る筈だが、日々の鍛錬をまともに続けている者がどれだけいるかは怪しいものだ。


 戦争奴隷の供給がないため、ヴァルーダの全土で奴隷も不足しつつある。小さな領地ではずっと以前から、奴隷の確保に苦労していた。




 クライヴは奴隷の少女に視線を戻した。



  この娘…………。



 ヘルネスはもちろんミルの「始末」を望まないだろうが、ハンネスとアメルダに逆らった奴隷を、このままにもしておけない。

 異常な事態だが、ハンネスとアメルダの結婚は今更覆りはしないだろう。




 老使用人の冷淡な視線に見据えられ、ミルは息を飲んだ。








◇ ◇ ◇


 太陽はもう、完全に落ちていた。

 二つのランタンの明かりが届かない範囲は全く見えなかったが、空は星が降るようだ。



 黒い服の女に先導されるようにして牛小屋に帰り着いたナギは、女の前で扉の閂を回した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ