144. 扉の向こう
領主の息子は数秒、奴隷の少女を凝視した。
随分女っぽくなったな。そう言えばこの娘は今何歳なんだ。
ハンネスが時と場合も弁えずに一瞬ぼんやりとした横で、クライヴが真っ先に動いた。
◇
ほんの数分前、ハンネスとクライヴはヘルネスの部屋の前にいた。
今夜の席についての最終の打ち合わせのためで、領主夫妻の部屋には主役の花婿だけでなく、給仕の責任者や、雇った音楽家達の代表者も集まることになっていた。
「ハンネス様……。」
「あ?」
目的の部屋の前までやって来た時、その先の廊下の角を赤紫のドレスが曲がって行ったのに、クライヴが気が付いた。
主従に見えたのはドレスの裾だけだったが、ドレスの主が女中でないのは明らかだ。
ヘルネス夫人は目の前の部屋の中、ハンネスの妹達の部屋は反対方向、となると、角を曲がって行ったのは、ほぼ間違いなくアメルダだった。
宴までまだ間がある。
明後日には夫婦となる相手ともう少し打ち解け合った方がいい、と常識的に考えはしたものの、ハンネスは気乗りしなかった。
顔合わせの時も今日も、アメルダは終始ハンネスを見下す態度を取り続けている。
夫婦としてやっていく未来が、全く想像できない程だ。
書庫でも見に行ったか?
さすがにこのままではまずいとは、ハンネスも分かっている。
しばしの葛藤の末、嫌々義務を果たすかのように、ハンネスは廊下の向こうへ消えたドレスの後を追った。
これを「いい機会」と捉えたのは、養育係も同じだった。
老臣は扉の前に残り、何も告げずに歩き出した主を、やはり何も言わずに送り出した。
北棟へと廊下を曲がると、すぐに書庫がある。
暇潰しの本でも探しに行ったのか、と思ったが、アメルダの行き先は書庫ではなかったようだった。
北棟の廊下は書庫の先にある扉で区切られている。ブワイエ一家の私的エリアと、それ以外を区切る扉だ。
ハンネスが角を曲がって北棟に出ると、ちょうどその扉が閉められたところだった。
アメルダは扉の先に行ったようだ。
「あ?」
どこへ行くんだ。
疑問に思いながらも、ハンネスはその後を追った。
だがハンネスがその扉を開けると、またしても扉を閉める音だけを残して、アメルダの姿は消えていた。
「おい、なんだ……?」
アメルダが潜った扉を見て、ハンネスは困惑した。花嫁本人の姿は見えなかったが、扉が閉まる瞬間は見えていた。
ほぼ廊下の突き当りに近いその扉の前まで花嫁を追って行くと、領主の息子は所在無げにそこに佇んだ。
そこはハンネスでさえ、何年も入ったことがない扉だった。
扉の向こうには階段がある。
不慣れな館で迷ったのだとしても、鍵付きの扉をわざわざ開けるのはおかしいだろう。
不審に思ったが、階段を上に行っても行き止まりで、下に降りてもアイロン室があるだけだ。
すぐに引き返して来るのでは。
そう思い、ハンネスはしばらくを扉の前で待った。
二日後には結婚する相手だと言うのに、積極的に顔を合わせたいと思えなかったせいもある。
だがアメルダはなかなか戻って来ず、更に追うべきなのかハンネスが迷ったその時。
がしゃあああんっ!!
凄まじい音がして、閃光が走った。
強烈な光と鼓膜が破れそうな音に、一瞬ハンネスはパニックを起こした。
衝撃によろよろと倒れ掛け、それから小さな円を描くように扉の前をぐるぐると歩いてから辺りを見回し、男はようやく、妻となる相手の様子を確認しなければまずいと思い至った。
その頃へルネスの部屋の前からは、クライヴが駆け出していた。
部屋の中も騒然としている様子だったが、老僕はそちらには声を掛けなかった。
なんだ今のは……?!
雷、と判断してクライヴは行動していたが、どう考えても異様だった。
外は穏やかに晴れている。
あの日の突風を思い出す。
ヘルネスの部屋の前の一ヵ所だけ周囲と違う窓が、嫌でも目に入った。
何か妙なことが起きている気がした。
間近に不吉な影が迫っているように思えて、激しい焦燥に駆られる。
とにかくハンネスとアメルダの無事を確認しなくては。
「ハンネス様!」
若夫婦となる二人を案じて行った先で、まさか刃物を振りかざす花嫁に会おうとは、クライヴも想像もしなかった。




