143. 花嫁の短剣
心臓が激しく打った。
自分の運命を、彼らはどう定めたのだろう。自分の知らない言葉を話す人間達を、ミルは見つめ返した。
ナギ―――――――――――――――……!
今ミルは、両開きの扉の目の前に立っていた。
戸を開けて、廊下に逃れることまでは出来るだろう。
でも男性二人を含む三人の人間から追われて逃げ切るのは、足が自由に動いたとしても難しいと思う。
それでも最後の最後まで、諦めるつもりはなかった。
「奴隷が何かしくじりましたでしょうか。」
ブワイエ家の老臣は花嫁に向き直ると、再度恭しく尋ねた。尋ねながら老臣はだが、訊くだけ無駄だとは思っていた。
たとえナギを通訳に呼んでミルの話を聴いたとしても、奴隷の主張を容れて、次期当主夫人であり、ゴルチエ家の令嬢であるアメルダの話を否定することなどあり得ない。明らかに嘘だと分かっても、アメルダが望む「物語」が真実に優先する。事実は問題にならず、経緯の確認は徒労に近い。
頭を下げた老臣を、青銅の瞳が睨み付けた。
「あの娘、私の顔を叩いたわ。」
アメルダの言葉に、ブワイエ家の主従はさすがにぎょっとした表情をした。
今夜の席に出る支度を既に終えていたらしいアメルダの髪が、確かに崩れていた。ミルは本当にアメルダを叩いたのかもしれない。
刃物を持った人間に襲われて、抵抗するなという方が無理な話ではある。
だが、奴隷が主に手を上げる――――――――――――理由はどうあれ、それは許されざることではあった。
言葉に詰まった様子の二人を見て、花嫁の顔に一瞬だけ、微かに笑みが浮かんだ。
その一瞬の表情に気が付き、花嫁の得体の知れなさにミルは、ただ「命を脅かされたから」と言うのとは別の恐怖を覚えた。
二日後に新婦になる予定の女は、傲然として言い放った。
「始末して頂戴。報告はあとでいいわ。」
だがここで反論したのは、新郎になる予定の男だった。
「ミルを所有しているのは父だ。父の許可がいる。」
アメルダが顔を歪める。
このままでは押し切られると思ったハンネスは思い付いたことを慌てて口にしたのだが、それはハンネスにしては的確な反論だった。
順当なことを告げただけだが、順当なことをハンネスが、その養育係より早く口にするのはかなり珍しいことだ。
ハンネスには、奴隷の少女が色々な意味で惜しかった。
こんな場合だというのにハンネスは、ミルのあられもない姿を見て邪な思いを抱いてすらいた。
「ならさっさと許可を取って頂戴!」
声を荒げたアメルダに、クライヴがすかさず頭を下げた。
「かしこまりました。後はこちらにお任せ下さい。」
悔しげに、アメルダが口をつぐむ。
年老いた養育係は、心の中で主を褒めていた。
これでアメルダを「部外者」に出来た。
最終的にヘルネスがどんな決定を下すかは分からないが、少なくとも、アメルダの言い分が一方的に通る状況は避けられる。アメルダの要求を拒むことになったとしても、家長経由の方が角は立たないだろう。
花嫁も自分の思い通りにならないことを、どうやら察したようだった。
「ところでアメルダ様は、なぜそんな短剣を持ってこちらに。」
ここぞとばかりに、老僕は斬り込んだ。
「お前の知ったことではないわ。」
「おい、冗談じゃないぞ。そんな物騒なもん持ってうろつかれて―――――――」
「護身用よ。」
「なんだと?!」
何か言い争っている。
領主の息子とそのお付きは、花嫁の全面的な味方という訳ではないようだった。
扉の内側に留ったまま、自分の命運を握る会話の行く末を、ミルは懸命に見極めようとしていた。
と。
花嫁が踵を返した。
「――――――――――――!」
反対方向―――――――――――――ミルの方に向かって来ない。
アイロンが置かれたままの作業台をぐるりと廻り込み、花嫁は灰紫のショールを拾った。
引き上げようとする様子に見えた。
「おい……!」
納得いかない様子で領主の息子が追い縋っていたが、アメルダはさっさとショールを羽織ると歩き出した。
はっとして、ミルは後退った。
花嫁は階段に向かっているように見えたが、階段の登り口は扉のすぐ横なのだ。
数歩を歩き、数歩分だけ奴隷に近付いた花嫁はそこで足を止め、少女を睨み付けた。
――――――――――――――――そして。
ひゅんっ。
アメルダ以外の全員が目を見開いた。
カッという音がして、青い柄の剣が扉に突き立った。ミルの服をそこに繋ぎ止めるようにして。
ブチブチッ。
糸が切れる音と、鎖の音がした。
よけようとしたミルは鎖に足を取られて転び、主と刃物の間で引っ張られた服からは、最後の数個のボタンまでが弾け飛んでいた。
「何しやがる!!」
奴隷の所有権者が父のへルネスであると告げた直後だというのに。領主の息子は、愕然としていた。
ふんとでも言うように婚約者の男と奴隷の娘を一瞥すると、アメルダは階段に足を掛けた。捨て台詞を残しながら。
「奴隷にそんないい服は必要ないでしょ。」
「何?!」
それはハンネスにとってはまたしても予想外の言葉だった。
ブワイエ家の嫡男は茫然と、階段を上がって行く自分の花嫁を見送った。
ハンネスと共に花嫁を見送りながら、クライヴの服の下にはこの時、脂汗が滲んでいた。
アメルダが起こしたという事件を、軽く考え過ぎていたかもしれない―――――――――――――
後悔と焦燥が、老いた忠臣の心を覆おうとしていた。
ガチャン。
クライヴが開け放したままにしていた二階の扉が、閉じられる音がする。
ひどく混乱している様子のハンネスは、結局、アメルダを追うことをしなかった。
床に手を付いたまま、ミルも目を見開いて花嫁が上がって行った階段を見上げていた。
去って行った。
取り敢えず、今すぐ殺されることはないようだ。
だがあの花嫁は、一体なぜ自分を襲って来たのだろう。
起きたことが理解出来なかったのは、ミルだけではなかった。
「なんだあの女―――――――――――――――」
喘ぐようにそう言って、ハンネスは振り返った。
その視線の先に、スカートの裾を扉に繋ぎ止められたミルがいた。
ボタンが全て失われた服が肩に引っ掛かっているだけで、ミルはもう、下着姿も同然だった。
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