142. 花嫁と奴隷の少女(2)
ばんっ!
アメルダに捕まる前に、ミルは自分から振り返った。
今度は花嫁の手を狙った。
丸めた大きな布が、再び花嫁の手と短剣を打つ。
ミル自身の、考える力が彼女を救っていた。
日々の生活の中で、布や草と言った柔らかな物の塊は意外にも刃物に強いということに、ミルは気が付いていた。
がちゃん!
花嫁の手を離れて宙を飛んだ短剣が、隣の作業台の上に落ちる。
はっとした表情で、花嫁と奴隷の少女は刃物が落ちた先を同時に確認した。
アメルダが剣を拾うのが早いか、ミルが外へ逃れるのが早いか――――――――微妙な距離だった。
ナギ………!!
重い鎖が、足に絡む。
間髪入れずに踵を返すと、少女は必死で扉を目指した。
アイロン室には扉が二つあった。
一つはホールのある庭園とは反対側の、館の北側に出る扉だ。扉の外はブワイエ一家と客人の衣類専用の物干し場で屋外だが、目隠しの高い塀に囲われている。つまり行き止まりであり、しかも今そこには誰もいない。
ミルが目指したのは、もう一つの扉だった。
先程アメルダが降りて来た階段のすぐ脇にある扉で、その外は一階の廊下だ。
すぐ目の前に見える扉――――――――――――その僅かな距離が、遠い。
「この……!」
アメルダが毒づく声が聞こえる。アイロン室の作業台は縦にも横にも幅が広い。剣は台の奥側に落ちたから、身を乗り出さなければ手が届かないだろう。大きなドレスを纏うアメルダも、決して身軽ではない。
ナギ!!
小さなカップに浮かぶ、青紫の花の姿が、まざまざとミルの脳裏に甦った。
帰りたい。
ヤナに。
二人と。
すぐ背後に、アメルダの気配を感じた。
花嫁の手がミルに届こうとしたその時。
事態を変えたのは、予想外の男の声だった。
「おいっ?!!何してんだ?!!」
15歳の少女は、ぎりぎりで花嫁の手を逃れた。
アメルダの動きが止まっていた。階段を駆け降りて来る婚約者の男を、アメルダは腹立たしげに睨んだ。
奴隷の少女はしかし、そのまま扉まで駆けた。
現れた男に、助けて貰えるという確信が持てない。
花婿になる予定の男は亜麻布の下着が露わになった奴隷の娘と、その娘に剣を振りかざしている花嫁の姿を見て驚愕の表情を浮かべていた。
「何やってんだ?!うちの奴隷だぞ?!」
そう言ったきり、自分の妻となる筈の女の前に辿り着くと、領主の息子は絶句した。
剣を持つ手を下げ、花嫁は忌々しげに言葉を放った。
「――――――――――――躾がなってないんじゃなくて?」
「何?」
「奴隷の躾が悪いようね。始末して頂戴。」
「始末?!」
「あの娘、私に逆らったわ。」
その言葉に、ハンネスはただただ混乱した様子を見せた。
男の目がミルを向く。
領主の息子は激しく困惑していた。
アメルダの要求は、到底吞めるものではなかった。
奴隷は家の財産だ。
本当にアメルダに逆らったのだとしても、大人しいミルが理由もなく、「始末」される程の反抗をしたとは思えない。そもそもハンネスすら何年も足を踏み入れたことがないこの部屋に、なぜアメルダは刃物を持ってやって来たのか。
正当な理由があるのならばまだしも、明らかにおかしいと感じたが、すぐには頭の整理が付けられなかった。疑問点を順序立てて指摘は出来なかったが、ハンネスはとにかく反論した。
「奴隷がいくらすると思ってんだ!!」
「奴隷の娘の一人ぐらいで、大袈裟よ。」
王族同然の暮らしぶりと言われる家から来た女の言葉に、男はもう一度絶句した。
「ハンネス様!!」
しわがれた声がして、また一人、階段を男が駆け降りて来た。
白髪の男は青ざめた表情で、短剣を持つ花嫁と主の間に割って入った。
「何ごとでございましょう。」
クライヴが恭しく尋ねる。尋ねながらクライヴは、アメルダの血生臭い噂を思い返していた。
老臣の登場は、アメルダを更に苛立たせた。
「躾の悪い奴隷を、始末してって言ってるのよ!」
「ミルをでございますか。」
彼らの会話の内容は、ミルにはほとんど分からなかった。
ボタンの大半を失った服の前を手で抑えて立ち尽くしていた奴隷の少女に、全員の視線が向いた。




