140. 血塗られた花嫁
命令の主を見やるとポケットに仕舞っていた筈の鍵を、女中は既に手に持っていた。
その場に凍り付いたように、ナギは動けなかった。
意図が理解出来ない。
これもあのアメルダとかいう花嫁の指示なのか。
この状況で奴隷の足枷を解くことを、この女中は危険と感じないのだろうか。
少年奴隷は動けず、命令に応じないままでいたが、女中が怒りを見せることはなかった。黒い服の女は自分からさっさと身を屈めると、奴隷の鎖に手を伸ばした。
思わずナギは、後ろに逃げ掛けた。
花嫁が無関係ということもあり得た。
ここまでのことが全てこの女中の一存という可能性だってある。
もしそうであるならば、危険なのはこの女中だ。
鎖を解かれることを、自分の方が躊躇う状況があるなんて。
女中の不審な行動に恐怖はあったが、辛うじて、ナギはその場に踏み留まった。
今動いたら、自分の足か鎖が女中の体に当たってしまう。
女中に怪我を負わせてここから逃げる選択が正しいのか、やっぱり判断し難かった。
見知らぬ部屋でただ立ち尽くす少年の足から、二つの鉄の輪が順番に外される。
息を詰め、ナギは五感を研ぎ澄ませた。
次に何が起きるのか予想出来ない。
無表情に、女中が黒い輪を手にして立ち上がる。
その行動は、大きな家の女中らしいと思う。
女の素性すら怪しく思え出していたが、奴隷の扱い方はちゃんと心得ていることが窺える。
女性が重い鎖を床に置き晒しにせずにわざわざ手に持つのは、それが武器にもなり得ると認識しているからだ。
人間味を感じさせない女の瞳は、無言でベッドへと向けられた。
そして本当に、ナギが想像もしていなかったことを女は命じた。
「その服に着替えるように。」
「えっ……?」
思わず声が出る。
ほとんど反射的に、ナギは女の視線の先を追った。
ベッドの上には白木の箱が置かれていた。
部屋に入った時に目に留まってはいたが、自分に関係があるとは思わず、意識していなかった。
ベッドの脇に、黒い革靴も置かれている。
「アメルダ様からです。」
「は?」
◇
ナギの着替えのために女中が出て行った後、部屋の中程でかなりの時間、ナギはただ呆然と立ち尽くしていた。
少年は激しく混乱していた。
いつまでもこうしていても仕方がない。
そう思い、ようやくナギはベッドの方へと歩み寄った。
ベッドの掛布団には階段の絨毯に似た深緑色のカバーが掛けられていた。カバーの縁にやはり階段の絨毯に似た、薄黄色の蔦模様がぐるりと刺繍されている。
浅めの木箱はベッドの足側寄りに置かれていた。
蓋のないその箱を見降ろすと、真新しい服が、箱の大きさぴったりに収められていた。
丸首の濃紺の服。
左胸の上を通過するように、金の縦線が一本、上から下まで真っ直ぐに入っている。
ナギは扉を見やった。
足音が遠ざかるような音を聞かなかったので、あの女中はまだ扉の向こうにいるのだろう。とっくに着替え終えていていいくらいの時間が経っていたが、急かしてくる様子はない。
ややしてナギは、窓の前へと移動した。
星が目立ち始めている。
室内側の景色が映ってしまい、外はやはりよく見えない。
本棟の二階の真ん中、北寄りの部屋をナギは探した。
向こうの部屋には灯りが灯っておらず、余計に見えにくい。だがそこが、ヘルネスの部屋だとラスタに聞かされている。
窓の格子に手を掛け、ナギはしばらくその部屋を見つめた。
それからナギの視線は、ホールへと動いた。
ヘルネスの部屋にもハンネスの部屋にも灯りが灯っていないのだから、彼らはやはりホールにいるのかもしれない。
煌々と輝く巨大な窓は見えたが、父子の姿も花嫁の姿も見付けることは出来なかった。
窓の前に立ったまま、少年はゆっくりと、ベッドの上の木箱に視線を戻した。
◇
「ちょっと何?」
「どういうこと?」
「おいっ!」
花嫁の家の女中に連れられて濃紺と金の服を纏った少年が姿を現した時、台所は騒めいた。小太りの料理長も「あぁっ?!!」と言ったきり、絶句する。
この時までブワイエ家の使用人達は、奴隷の少年が沐浴から戻って来ていないことに気付いてすらいなかった。
ランタンを手にしたゴルチエ家の女中が、やはりランタンを手にした少年を後ろに従えて部屋を横切って行く。
その様子を、ブワイエ家の使用人達は狼狽えながら見送った。
やや長くなると今度はやや短過ぎるくらいに切られることを繰り返しているナギの髪は今はやや長目で、手入れもされずに乱れたままだ。
それでも左胸と左足の脇に金の縦線が入った濃紺を纏い、黒い革の靴を履いた少年は顔立ちも体つきも均整が取れていて、さながら貴公子のようだった。
足の鎖が辛うじて少年が奴隷であることを示していたが、それがなければ、ナギは到底奴隷には見えなかった。
女中を呼び止めようとした者もいたが、黒い服の女は声を掛けた者を見やることすらしなかった。
ホールの給仕で手一杯だったブワイエ家の者達は、他家の女と奴隷を追い掛けることが出来なかった。
困惑と動揺の声が上がる中、黒い服の女と奴隷の少年は、無言で勝手口を出て行った。
◇ ◇ ◇
ほんの微かにでも予想出来ていたのなら、結果は違っていたかもしれない。
熱い鉄の塊は、武器にも防具にもなった筈だった。
だが明後日にこの家の息子と結婚する筈の、今日到着したばかりの花嫁に刃を向けられるなんて、頭の片隅にも思い浮かんだことがなかった。今アイロンの横に立っているのは、赤紫のドレスを纏った花嫁だった。
白刃を見た瞬間ミルは反射的に後ろに引いてしまい、鎖に足を取られてよろめいた。
体勢を崩しながらも少女は辛うじて転倒を免れたが――――――――――金髪の花嫁は素早く屈み込み、少女奴隷の鎖を左手に掴んで勢いよく引いた。
派手な音がして、ミルは激しく身体を床に打ち付けた。倒れながら、ミルは驚愕していた。
手慣れている、と思った。
重い鉄の紐が着いた足でもがけばミルの足も傷付くだろうが、相手にとっても危険だろう。
その鎖を花嫁は真っ先に掴み、ミルの反撃と自由を同時に封じた。
見上げると、花嫁の口の端に微笑が浮かんでいた。
この状況でアメルダが笑顔を浮かべられることが、ミルには信じられなかった。
動けない。
ナギ、ラスタ、誰か――――――――――――――――――
「誰か!!」
ヤナ語で、ミルは叫んだ。
その少女に、花嫁が短剣を振り降ろした。
まさかの140話目……。
ここまで見捨てずに読んで下さった方、本当に本当にありがとうございます!
書き始めた時は細かいことまでは書かず、もっとざっくりと短い話にまとめるつもりだったのです……。ですが書く内にもっと細かな部分も書いた方がいいのかもしれないと思うようになり、一つ一つのエピソードを掘り下げている内に際限なく話数が伸び………。いつの間にやら140話……。
「アメルダ(花嫁)どこから出て来た?」とお思いの方がいるかもしれませんので念のために記載しておくと、アメルダは「63話 その夕」・「64話 その夜」、黒い服の女中は「84話 黒い服の女」が初登場です。ご参考まで。
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