138. 闇(2)
突然、ナギの胸は激しく打った。
最初から、この女中の行動はおかしかった―――――――――――――。
ナギの様子を探っているかのように見えたのは、勘違いではなかったのだ。
心当たりは一つしかない。
ラスタのことを知っている――――――――――――――?
だがそうだとするなら、ブワイエ家や他のヴァルーダ人にそれを告げない理由が、分からない。
「合いの子の獣人の卵」を隠し持つことは、ほとんどどこの国でも重罪だ。
ヴァルーダの法律をナギは知らないが、奴隷という立場を考えれば、処刑される可能性が高いと思っている。
そんな重罪を黙っているのはおかしいが、だがこの女の異様な行動の理由を、他に思い付けない。
何が起ころうとしているのか、見えなかった。
幸いと言うべきか、黒い服の女の要求を、この日のナギの監視役は拒んだ。他家の女中のこのあまりに常識を外れた振る舞いは、ブワイエ家側の人間の怒りを招いて当然だった。
「いや、理解出来ないんですが。なんで渡さなきゃならない。これは当家の奴隷ですよ。」
憤りと困惑が、男の声に滲んでいる。
だが女中は冷たく言い返した。
「アメルダ様のご命令です。」
ナギは目を瞠り、男は口をつぐんだ。
あの花嫁が?
少年の鼓動が、痛い程に速くなる。
一年前の冬に一度だけ間近で見た、青銅の瞳と赤っぽい金髪が記憶に甦る。
状況の見当が付かない。
監視役の男は、それ以上争わなかった。
表情は反感に満ちていたが、男は言葉を噛み殺すようにして、小さな鍵を黒い服の女に差し出した。
厳密に言えば婚儀は明後日ではあるが、アメルダはこの館の次期当主夫人である。それは、奴隷の所有権者であることを意味していた。
自由に発言することを許されない少年は、声もなく、自分の管理権が不審な女の手に渡るのを見つめていた。
鍵を受け取ると、女はすぐに廊下に出る扉の方へと体を向けた。
「来なさい。」
「……服が。」
辛うじて、ナギは言葉を返した。必要な事柄を告げるためであるならば、奴隷も発言を許される。洗濯した濡れた服を、少年はまだ手に持ったままだった。
考えを纏めるために、ほんの数分だけでも時間が欲しかった。その数分で、状況が大きく変わることだってあるかもしれない。ナギは時間を稼ごうとしていた。
だが。
「そこに置いて行きなさい。」
「……すぐ干し終えます。」
「不要です。」
「……すぐ済ませます。」
「これ以上逆らうことは、許しません。」
冷気を孕む視線が、射貫くようにナギを見た。
一瞬前まで少年奴隷の監視役だった男が、固唾を呑んで二人のやりとりを見つめている。
激しい動悸を感じながら、ナギは身を屈めて濡れたままの服を石の床の上に置いた。
家畜小屋にいるナギには、ブワイエ家は来客時用の服を与える必要を感じなかったようで、ナギには年季の入った夏用と冬用の服が、それぞれ二着ずつ与えられているだけだ。
どの服も与えられた最初の時から薄汚れていたが、ナギには他に着られる服がない。明後日にはまたこの服を着なければならないのに、干さずに置いて行くのは嫌だった。
でも今は、服が干せないことを気にしている場合ではない。
―――――――――――――――この服を着ることは、もうないということ
なのか?
恐ろしい予感が、少年の胸を締め上げる。
「来なさい。」
生気を感じられない声に再び言われて、少年はゆっくりと足を踏み出した。その足許で、鎖が小さく音を立てる。
ミル。ラスタ―――――――――――――――――――。
二人の顔を思い浮かべる。
もしかしたら、牛小屋に戻ることが出来ないかもしれない、と思う。
「そこを曲がりなさい。」
物干し場を出ると、ナギは女の前を歩かせられた。
昼間に歩くと、随分様子が違って見える。壁や天井の装飾が鮮やかだ。
今日までにナギは、ラスタと共に何度も館に侵入している。だからそれまでの四年間にはほぼ知ることのなかった館の中の色々な場所にも、今は入ったことがある。
だが当然ながらそれはいつも夜間で、館の人間達が寝静まった後のことだった。
どこに向かおうとしているのだろう。
花嫁とこの女中は、ラスタのことを知っているんだろうか。
少年の胸は、激しく打ち続けていた。
もし自分が捕まれば、ラスタは自分を助けようとするかもしれない。
でもそうなれば、ヴァルーダに所属する他の獣人達と争うことになるだろう。
竜とはいえ、小さなラスタが彼らに勝てるだろうか。
「合いの子の獣人」達は人間の血の影響で、小さな頃は十全に力を発揮できないのだと言う。それが彼らが、人間の庇護を必要とする理由だった。
自分のために、ラスタを危険に晒したくはなかった。




