137. 闇
何か闇がありそうな結婚と、あの黒い服の女が少年を警戒させる。
あと三カ月。
無事に脱出したい。
そして叶うなら、仲間達のことも諦めたくなかった。
小さく息を吐き、ナギは自分を奮い立たせた。
そしてくたくたの身体と心を鞭打つようにして立ち上がった。
扉の向こうからジェイコブの怒声が聞こえる。
「おいっ!!酢漬けをどこに置きやがった!!?」
こんな時のジェイコブは、もう何を見ても聞いても正当性もなくキレる。ジェイコブの視界に入るのが面倒だったが、いつまでもここにいる訳にも行かない。
灯りのない物置きの中は、薄暗くなりだしていた。
寸胴鍋の上に置いた夕食の盆を、ナギは数秒の間見つめた。
食後の食器は自分で洗うのがルールだったが、今日のように台所が戦争状態の時は流しが使えないので、このまま置いて行くことになっている。
洗いたい、と思った。
これを洗わせられるのは、多分ミルだと思うからだ。
夜に宴があった日は、ミルは深夜まで会場の片付けや食器洗いをさせられているのではないかと思う。
胸が痛んで、ナギはしばらく盆を見つめて立っていた。
ラスタのお蔭で牛小屋の暮らしはどんどん快適さを増している。その分、ミルのことを考えると辛くなる時があった。
やがてナギは盆の上の椀や皿の位置を整え直した。これでミルを楽にしてやれることはないだろうが、せめてもの思いだった。後ろ髪を引かれるようにして、少年はそれから戸口に向かった。
少年が扉を開けると同時に、女中の叫び声が空気をつんざいた。
「誰か!!こっち手伝って!!」
「早く!!」
殺気立った表情の女中達が、ちょうどワゴンに載せた料理を運び出そうとしている所だった。
台所では何人もの使用人が慌ただしく動いていたが、ミルの姿はなかった。
今どこにいるんだろう。
やっぱり今夜はもうミルに会えそうにないと残念に思いながら、ナギは台所を改めて見渡した。
一応今日は、二日に一度の沐浴の日だった。
花嫁一行の馬の世話でナギはかなり汚れて、汗もかいていたが、この騒動ではさすがに今日の沐浴は中止かもしれない。手の空いている人間など、一人もいなさそうだ。
自分が家畜のように思えるあの時間は好きとは言えないが、今日ばかりは体を洗いたい気がする。
ラスタに頼もうか……?
少年は少し悩んだ。
竜人少女は水の温度を操れるようになっていて、牛小屋では今、火などなくともいつでもお湯が手に入った。
ただ沐浴となると服を脱がないと……。
「……………。」
竜人の年齢を人間に換算する時は、見た目を目安にしていいんだろうか。
実年齢1歳4カ月のラスタを、大人扱いするべきなのか子供扱いするべきなのか、分からない。
ナギが悩んだ時間は短かった。
少年奴隷の足枷の鍵を持った男が、その時台所に入って来たのだ。
やはり忙しいのか男はかなり苛立った表情をしていたが、こんな時でも「二日に一度」の沐浴間隔は守られるらしい。
男と目が合い、ナギは黙ってそちらに向かった。
館の人間は、理由もなくナギを小突いたり殴ったりして自分達の憂さを晴らすことがある。余裕がなさそうな男の表情を見て、少年は少し覚悟した。
館の連中とは今なら殴り合えば勝てそうな気もしているが、脱出を控えてそんな問題を起こすつもりはない。
人の声や食器の音が激しく飛び交う中、ナギは使用人達の間を縫うように進んだ。
歩くだけのことに神経を使った。
鎖に足を引っ掛けそうになるので、こういう場で奴隷が歩くことを皆嫌がる。ナギとミルに足枷を着けているのは彼らなのだから、文句を言える筋合いではないだろうが。
◇
ナギは疲れ切っていたが、それから大急ぎで自分の体と服を洗わなければならなかった。
だがラスタにお湯を作って貰うかどうかで悩まなくて済んだから、今回ばかりはこれでよかったと思うことにしておく。
温かな湯が体を伝う。
「早くしろ。」
何度もせかしてくる男に、逆らいはしなかった。
腫れているような手足で、ごく短い時間でナギは体と髪を洗った。
やがて短い沐浴を終えた少年が体を拭いて服を着終えると、鉄の枷はすぐに嵌め直された。
カシッ、カシッ。
かなりの勢いで、両足の鍵を粗雑に掛けられる。ナギは眉を顰めた。
鉄の紐が足に当たれば痛いし、下手をすれば骨や爪をやられる――――――そんなことを、彼らはいつも考えもしないのだ。
ハンネスの婚儀―――――――――――――
一カ月もすれば、館は落ち着くだろうか。
ブワイエ一家や使用人達の行動パターンはしばらく崩れるだろう。それは脱出の準備と決行に影響する。
男に監視されながら、ナギはそれから、洗った服を干しに物干し場に戻った。
そこに想像もしなかった者がいて、少年は部屋に入って二歩で足を止めた。
あり得ない遭遇に、ナギは息を飲んだ。
女が立っている――――――――――――――――――黒い服の女が。
「なんの用ですか?」
ナギの後ろから部屋に入った監視役の男も、ぎょっとしたようだった。
「その奴隷に用があります。」
生気を感じさせない声で、女は言った。
思わず微かに、ナギは後退った。
異常な事態だ。
ここで女性を見ることはない。
「ここは男用なんですが。」
「承知の上です。」
この館の使用人の部屋や浴室は、男女で南北に分かれていた。
監視の男の声には非難の色が混じっていたが、黒い服の女は一切動じる様子を見せなかった。
女の手が突き出される。
「それを渡して下さい。」
冷気を孕んでいるかのような声で、女は、ナギの足枷の鍵を要求していた。
読んで下さった方、本当にありがとうございます!
ブックマークや評価して頂けると物凄く励みになりますので、して下さると嬉しいです。




