136. 花嫁
◇ ◇ ◇
この日は館の台所も朝から戦場のようだった。
婚儀は明後日だが、今日は到着した花嫁とその随行者達をもてなすための宴の席が設けられることになっていて、今日から婚儀の日まで、宴は三晩に渡って開かれることになっていた。
牛が一度に二頭も屠られたのは初めてだ。
がちゃん……
ミルはぎっしりと炭を詰めた鉄製のアイロンを、やはり鉄製の小さな台の上に置いた。
さすがに館のほぼ北端にあるこの部屋にまでは台所の凄まじい騒乱は届かなかったが、それでも他のあらゆる場所から館内の忙しなさは伝わってきた。
騒めきから取り残されるように、少女はその場所に一人でいた。
でもミルも今日はいつもと少し違う服を着ていて、少しだけ華やかだ。
初めて見た薄紫の服で、やはり古着ではあったがこれまでミルに与えられた服の中では一番綺麗で、ずっと続いている花嫁に対するブワイエ家の並々ならぬ気遣いは、ここでも感じられた。
ブワイエ家の都合で着飾られることに複雑な思いはあったけれど、久しぶりに着られた綺麗でまともな服は、やっぱりちょっとだけ、少女を嬉しい気持ちにさせた。
「アイロン室」と呼ばれているこの部屋は、館から裏庭に向けて突き出ている二つの棟の内の、北側の方にあった。
そろそろ畑仕事が終わる―――――――――――――――
黒髪の少女は左の窓を見上げた。
アイロン室の細長い窓は高い位置に並んでいて、明り取りの役割は果たしてくれるが、その向こうにある筈の裏庭の景色は見えない。
陽が僅かに翳り出している。
畑から館に向かって歩き出すナギの姿を想像し、ミルはナギが触れた自分の右手を、左手で包むように抱き締めた。
夏まで、あとほんの数カ月。
いざはっきりとその日が見えてくると、緊張感も、それだけはっきりと強くなった。
今日にも竜人の女の子が見つかってしまって、ナギがどこかに連れて行かれてしまうのではないかと不安が真に迫るようになり、胸がどきどきした。
大丈夫。ナギはきっともうすぐ台所に来る。
ナギが無事に勝手口の扉を入って来る姿を祈るように思い描く。それがちゃんと実現するようにと念じ終えると、それから少女は手の甲から手首へと左手を滑らせた。
あの事故から、右手の中指から小指までの三本が上手く動かなくなっている。
重い鉄の塊を親指と人差し指のほとんど二本の指だけで持っていると、いつも腕が痛くなった。
ミルはそっと右腕をさすった。
この部屋はブワイエ一家と客人の、衣類や寝具の手入れをする部屋だった。名前は「アイロン室」だが、アイロン掛けだけではなく、寝具や衣類を畳んだり、必要であれば繕うこともあった。
不用心すぎると思うが、今日はどの使用人も花嫁一行の世話と宴の準備で手一杯だったので、この時ミルは、アイロン室に一人だった。
女中達が、奴隷を一人にしてでもアイロン掛けをさせたがったのには理由がある。
明日には花嫁一行の衣類が大量に洗濯に出される筈なので、今日の分を溜めてしまうと、明日がきつくなるのだ。
館の人間はミルに関しては完全に安心しきっていて、少女がこの部屋に一人にされたのは、実は初めてではない。
滑稽で醜悪とも言えたが、少女の奴隷がここに買われてから一年を経て、今やブワイエ一家も使用人達も、大多数の他の使用人よりミルを信用するようになっていた。
たとえばブワイエ一家の服には宝石が付いていることさえあったが、奴隷の少女が何かを盗ろうとしたりしたことが、一度もなかったからである。
確かにミルは、宝石を盗ろうと思ったことはない。
だが館の人間達がこうも油断しているのは、少女奴隷が何かを盗むのは、現実的に難しいと思えたからでもあった。
地下牢は時折抜き打ちで点検されていたし、宝石を盗った所で奴隷の少女にはそれを売る機会も、ましてや身に着ける機会もありはしなかったのだ。
ミルは架台の上の、炭を詰めた鉄の塊を見つめた。
悲しさに似た感情があった。
この館の人達は、どうして自分が火を付けるかもしれないとは思わない
んだろう。
炭を床にばら撒いて上からシーツでも掛ければ、割と簡単に大きな火が起こせそうな気がした。
そんな思いに駆られたことは、一度や二度じゃない。
ナギが希望をくれなかったら、そうしていたかもしれないと思う。
そしてナギに何かがあった時、そうせずにいられる自信はなかった。
カチャッ……カチャン。
「えっ……?」
誰か来る?
扉が開いて、閉まる音がした。
黒髪の少女は右を振り返り、視線を上げた。
音は二階から聞こえたと思った。
アイロン室には、女中以外が使うことがほぼない階段がある。
それはブワイエ一家の私室や客室のある上の階から、洗濯物を回収したり届けたりするための階段だった。この階段があるので、領主一家や客人の衣類は他人目に晒されることはないのだ。
ただし二階と三階は許可されない限り使用人も自由に立ち入れないことになっていて、階段の出入り口には鍵付きの扉があった。その鍵は、限られた女中しか持たされていない。
だだ扉の反対側からなら鍵は自由に開けられるから、二階や三階にいる人間がこちら側へ降りて来ることはいつでも出来た。
途中に踊り場のある石造りの階段を、誰かが降りて来る。
最初に赤紫のドレスが見えて、やって来るのが女中ではないと分かった時、ミルは混乱した。
衣擦れの音が豪奢で、重い。
その人物が踊り場の手前まで階段を降りた時、ようやく顔が見えて、ミルは息を飲んだ。
この館の、次期当主夫人になる筈の女性だった。
青銅の瞳が、木製の手摺りの向こうからミルを見降ろしている。
もう今夜の宴席に出るための支度が終わっているように見えた。
高く結い上げられた赤味がかった金色の髪と、胸元を飾るダイヤを幾つも連ねた金鎖のネックレスが、目を瞠る程に華やかだ。
部屋を間違えたのかもしれない。
ミルは先ずそう思った。
女中以外の人間がアイロン室にいるのを、ミルは見たことがなかった。
突然の対面にどうしていいのか分からず、少女はただ頭を下げた。
なぜか胸がどきどきした。
自分を見る次期当主夫人の瞳に、何か敵意のようなものを感じたのだ。
挨拶の言葉くらいならミルにも分かる。
花嫁の名前が「アメルダ様」であることも、既に聞かされていた。
でも道案内が出来る程には、ミルはヴァルーダ語を喋れない。
どの道奴隷は、必要以外で勝手に口を開くことを許されていない。
頭を下げたまま、ミルは黙っていた。
四台の作業台の他には、衣類を一時置きするための簡素な棚と籠しかないこの部屋が館の裏方に属するものであることは、見ればたちまち分かるだろう。
花嫁はきっとすぐに引き返すだろう。そう思ったのに、もったりと重い衣擦れの音は、階段を降りて来た。
「こんな所にいたの。」
ヴァルーダ語で花嫁に何かを言われて、ミルははっと顔を上げた。
ゆっくりと歩いてくる花嫁の瞳は、ずっとミルを見据えていた。まるで最初から、目的がミルであるかのように。
何かがおかしい。
かちゃん……。
少女は微かに後退り、その足許で、微かに鎖の音がした。
年若い次期当主夫人は、美しい女性だった。
でもくっきりとした顔立ちと豊かな胸を強調するようなドレスはどこか攻撃的で、怖かった。
その時ミルは、違和感の正体に気付いた。
まだ春の始めだが、温かな日だった。
胸元が大きく開いたドレスも、今日なら寒くはないと思う。
なのに、わざわざ大胆な服を着ているのに女性は灰紫の大きなショールを羽織っていて、それを胸の低い位置で片手で抑えていた。
無意識に胸に右手を当てると、ミルは自分のその手を左手で握り締めた。
赤紫のドレスの花嫁がミルの前に立つ。
花嫁と奴隷の少女は、数瞬、互いの瞳を見合った。
と、アメルダが手を動かした。
灰紫のショールは広がりながら舞うようにゆったりと落ちて、板張りの床の上ではらりと音を立てた。
逃げようとしたミルの足に、鎖が絡んだ。
隠されていた花嫁の手には、短剣が握られていた。
◇ ◇ ◇
「おい、それはソースを掛けるんだよ!!触んじゃねぇっ!!」
鍋や皿が何十という金属的な音を立てている空間を、料理人の野太い声が揺らす。
使用人達が右へ左へと飛ぶように動き回り、台所はかつてない程に殺伐としていた。
ナギは何も言わずに、物置きの扉を開けた。とても声を掛けられる雰囲気ではない。
幸い、一年前と同じように、自分の食事はちゃんと物置きの中に置かれていた。
忘れられていなくてよかったとは思うが、それがいつからそこに置かれていたのかは分からなかった。食事は、冷え切っていそうな気はした。
あの時と同じように、もしかしたらミルに会えるかもしれないと思っていたので、ナギはちょっとだけがっかりした。
今朝見たミルは、今までに見たことがない服を着せられていた。
古着ではあるのだろうけど、今までで一番綺麗な服だった。
本当はヤナの服で装ってほしいけど、ミルのあの姿はもう一度見たかったと思う。
重い足取りで中に入り、ナギは椅子代わりのバケツをひっくり返し、崩れ落ちるようにそこに座った。
やって来た馬の飲み水と前庭の掃除のために、井戸から何度となく水を汲み上げたから、腕がぱんぱんだ。後でラスタに、冷やして貰った方がいいかもしれない。
腫れているかのように感じる腕でスプーンを持ち、汁物を口に含むと、料理はやはり冷え切っていた。
でもあまりに空腹で、味など気にしていられなかった。
ナギは飲み込むようにして、あっと言う間に夕食を食べ終えた。
それから少しの間バケツに座ったまま、ナギは台所の騒乱に耳を澄ませた。
今日からしばらく、館では今までにないことが起こるだろう。
三人で脱出するその日まで、気を引き締めなければいけない、と思った。
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