130. ふれあう手
「ナギ?!」
鞄のような物を背負い、ろうそくが一本だけの燭台を右手に持ち、ナギは一人だけでそこに立っていた。
どうやってここに?!
驚くと同時に、自分の部屋が地下牢であることを知られてしまったと思った。
息を飲み、ベッドの上に体を起こしたまま、ミルは身動きも出来ず少年を見つめていた。
だが数秒が経った時、少女の中で意識の一部が叫ぶように警告を発して、彼女を現実に引き戻した。
きっと館の人達に気付かれてはいけないのだ。
急がなければ。
「ミル‼」
そこまで黙って待っていた少年が、はっとしたように叫ぶ。
突然我に返ったように動き出したミルが、ベッドから転がり落ちそうになったのだ。
少女は自分の足に着けられた枷のことを忘れていて、足に絡む鉄の縄の形と重さに、体を持って行かれそうになっていた。
「!」
ベッドにしがみつくようにして、ミルはなんとか転倒を堪えた。
マットや布団の半分が、寝台からずり落ちる。
でも自分が今転び掛けたことに気付きもしなかったかのように、ミルはただ夢中で靴を履いた。
奴隷狩りに遭った時に履いていた刺繍入りのヤナの布靴はもう小さくなってしまって、ミルも今はナギと同じく、館で与えられた木靴を履いている。
鎖に指を挟みそうになりながらそれを足に嵌めると、ミルは鉄格子に向かって駆け出した。
片足が不自由な彼女の歩幅は小さくて、足は床から上がらない。皮肉なことにそのせいで、ミルは鎖の長さに困ることがなかった。
「ナギ!!」
オレンジの灯に、少年が包まれている。
鉄格子はすぐそこで、ナギはそのすぐ向こうに立っていた。
我を忘れて、ミルは手を伸ばした。
「ミル!」
少年が少女の名前を呼び返す。
ナギの左手はミルの右手を格子越しに掴んだ。
一つだけの灯の中で、二人は互いの手を重ねた。
温もりが伝わる。
ナギだ。
ミルは泣いていた。
今まで自分は心に蓋をしていたのだと、自分でも今気が付いた。
暗闇で一人で過ごし続けてきたミルは、地下牢で初めて安心を感じて、その途端に涙と感情が溢れ出し、止まらなくなった。
ずっと独りで闇の中にいた少女を見つめ、苦しげな表情をして、しばらくの間ナギも何も言わなかった。
やがてナギはミルの手を取ったままその場にしゃがみ、右手にしていた燭台を石畳の床に置いた。
「ナギ⁈鎖が………!」
少年の動きに誘われるように床に視線を向けたミルは、ナギの足に気付いて目を瞠った。
「ラスタが外してくれた。」
そう言って、ナギが微笑む。はっとして、ミルはナギを見つめ直した。
自分が知らずに過ごしたナギの時間を思う。
鞄。ろうそく。燭台。
ナギが持つ、彼が持っている筈のない物。
ここに来るまでに、ナギと竜人の少女はきっと幾つものことをやり遂げてくれたのだ。
空いた右手で、ナギは今度は肩から布鞄を降ろしていた。
ナギが片手で鞄のかぶせ蓋を開けようとしているのを見て、少年のもう片方の手からミルは手を離した。
と、少年は顔を上げて数瞬ミルを見つめ、それからようやく、自分も鉄格子から手をどけた。
格子越しに少女が見守る前で、布鞄から少年が取り出したのは小さなものだった。
ミルは目を見開いた。
「こんなものでごめん…………。」
躊躇いを見せながら、静かに、少年は格子の間からそれを差し出した。
「誕生日おめでとう」と言われた時、たった一輪だけの花を抱き締めて、声を上げてミルは泣いた。
地下牢の闇の中で何度も、自分の存在が世界中から忘れられているかのように思えた。でもこの日を忘れずに、祝ってくれるひとがちゃんといた。
閉じ込められていた声が闇の外へと溢れていく。
一輪だけの青紫の小さなビオラを胸に押し当て、少女は泣いていた。
少年は黙ってそこに立ち、少女を見つめていた。
◇
やがてミルが少しだけ落ち着いた時に、ナギは言い辛そうに口を開いた。
「―――――――――一輪だけでごめん………。でも館の人間に気付かれたらいけないから、寝る前に捨てて。」
そう言って、少年はミルのベッドの横の石積みにちらりと視線をやった。
贈り物をあんな所に捨てさせるのが酷く思えて、ナギは口に出して言うことが出来なかった。でもこの場所で、館の人間に気付かれないように物を始末できる場所はそこしかなかった。
どの道花瓶もないから、朝には花も枯れてしまうだろう。
数拍の間の後、ビオラを抱き締めたまま、ミルは黙って頷いた。
やっぱり辛かったけど、ナギの言うことは正しい。
この花の姿は、心の奥に刻みつけようと思う。
少女に頷き返し、少年は表情を強張らせた。
「ミル。大事な話があるんだ。」
ナギの声の固さに気付いて、ミルは顔を上げた。
ナギの用事は一つではなかったのだ。
なら自分が泣いていたせいで、だいぶ時間を取ってしまったに違いない。少女は必死に自分を鎮めた。
ナギとミルの視線が真っ直ぐに合う。
「夏にここを脱出しよう。」
その言葉に、一瞬ミルは息を止めた。
不可能にも思えていたその日――――――――その日が実現しようとしていた。
「出発の日は、天候と全員の体調を見て決める。その日の夜に迎えに来るよ。国境まで多分二カ月近くかかると思う。その日まで、ミルは体調を整えてほしい。」
声が出せなくて、少女はただ黙って頷いた。
「それから、今日はラスタも来てるんだ。」
「えっ?!」
少年の言葉に驚き、ミルは慌てて辺りを見渡した。ずっと気にはなっていたけれど、ナギの持つ灯りが届く範囲に竜や人の姿は見えていなかった。
「ラスタは今、階上で入り口を見張ってくれてる。でも今から少しだけラスタも呼ぶよ。ミルにも人の方の姿のラスタに会っておいてほしいから。」
そう言って微笑むと、ナギは天井を見上げて手を振った。
ナギにつられてミルも上を見上げる。だがそこには何もなかった。
ぽんっ。
微かにそんな音がした気がして、ミルは正面に向き直った。
思わず叫びそうになったが、あまりの驚きで逆に声が出なかった。
一本だけのろうそくが灯す地下の闇。小さなオレンジの灯りの中。
少年の隣に、光に包まれているかのような10歳くらいの少女が立っていた。




