128. 血染めの服
血に染まった友の服をカナタは掴んだ。
「ナギィ――ッ!!」
横たわる男の髪を風が揺らしていたが、薄っすらと開いた目と口はぴくりとも動かず、瞳は光を失って、ただ虚空を向いていた。
遠くからでも死んでいると分かったのに。
カナタは丘を駆け下っていた。
ほんの僅かな可能性を、心が捨てることが出来なかったのだ。
でも頭の中は真っ白で、人間が狩られている場所へ舞い戻った自覚は少年にはなかった。
心臓を刺されている。
生成りの奴隷の服と緑の草地が血で真っ赤に染まっていて、上に羽織っただけのヤナの服は半分が藍から紺へと染め変わり、ぐっしょりと重く濡れていた。
12歳で奴隷狩りに遭ってから四年が経っていて、あの頃と見た目が違うのは当然だった。
カナタの背も、今はヤナの平均的な男より高い。
自分の背がここまで伸びなければ、今日のこの場に選ばれることはなかったのかもしれないと少し思う。
集められた黒髪の男達の中に、見た目ですぐに子供と分かるような者はいなかったから。
「ナギッ!!」
奇跡を願っていたのか、自分でも気付かぬ内に、カナタはナギの体を掴んで揺さぶっていた。
ナギが着ているヤナの服も、丈が全然足りなくなっている。
もう体に合わなかったのだろう。服の前は締められておらず、羽織っているだけだ。
三カ所を紐で縛るだけの前開きのヤナの服はゆったりとした作りだから、丈が合わなくても羽織るだけなら出来た。ここに来る直前に適当に配られた服も、奴隷のそれぞれの身長を考慮していなかった。
四年の月日―――――――――――――――。
動かない瞳は宙に向いた洞のようだった。それを間近に見た時、カナタははっとした。
◇
ナギは自分から前に出る人間じゃなかった。
でも頭も運動神経もよくて、おまけに優しかったから、みんな自然とナギの周りに集まって、気付くと輪の中心にいるような奴だった。
やっぱりヴァルーダ人から見ても賢そうなのが分かったのかもしれない。
あの馬車がどこかに着いた日、奴隷狩りの男達とは違うどんよりとした瞳の男が荷台に乗り込んで来た。奴隷商人達が見守る中で、しばらく値踏むように一人一人の少年を見た末に、その男は無言でナギを顎で差した。
それからナギ一人だけが馬車から降ろされ、それきりだった。
そこまで全員一緒にいられたことがせめてもの心の支えだったのに。
仲間が消えて行く恐怖を、あの日全員が、初めて味わったのだ。
奴隷狩りに遭った仲間は、みんないつから一緒にいたのか分からないくらい小さな頃から一緒に遊んでいた連中だ。
山で奴隷狩りに遭った後何週間も全員で一塊となって過ごし、言葉も通じない場所で売られてからは、この国のどこかに仲間がいると思いながら四年を過ごしてきた。
奴隷狩り前よりも、多分カナタの中で仲間の存在が大きくなっていたのだ。
安全な木立から、いつ飛び出してしまったのだろう。
カナタには記憶がなかった。
◇
息を詰め、カナタは死んだ男の顔を見つめた。
死体の首や肩に何か黒いものが付いている。
何で着色したのか、髪から色が落ちていて、まだらに明るい茶髪が覗いている。
男は瞳の色も、黄色に近いくらいの明るい茶色だった。
「ヴァルーダ人……?」
思わず呟いた。
いやまさか。どこの国の人間だろう。
だがヤナ人でないのは確かだった。
「知り合いか。」
いつの間にか、この世の存在とは思えないようなあの女性が横に来ていた。
茫然としたまま、カナタはゆっくりと首を横に振った。
「いえ………。でも、服が。」
喘ぐように少年がそう応えると、隣に立ったまま、女性の瞳は死体を見やった。
カナタは無言で血に濡れた友の服と、髪を染められた男を見つめていた。
これはナギの服だ。
何週間も同じ服を着たまま過ごしたから、あの時みんなが着ていた服と襟の刺繍は覚えている。
ヤナの女性は、夫や子供の服の襟によく刺繍を入れた。だから仲間の服の襟にはいつも色んな刺繍が入っていた。
故郷にいた時には気にしたこともなかったけど、連れ去られて行く馬車の中で何日も見続けた仲間の服は別だ。全部覚えている。
ナギの服の襟には何色もの色を使って、蝶やてんとう虫が描かれていた。
きっとナギが、動物が好きだったからだ。
自分の手や膝が血まみれになっていることに気付いてもいない様子で座り込んでいる少年を、金色の髪の女性は見つめていた。
奴隷にされた人間が着ていた服や持っていた物は古物市場で出回るから、この少年の知り合いの服が廻り回って今日使われていたとしても不思議はない。
今日はグスタフの悪趣味を満足させるために、「異国人を打ち倒す臨場感」を演出する小道具が用意されたのだ。
思わぬ「再会」はそんな事情が引き起こしたことで、この服の最初の持ち主がどこでどうなったのかは、分からないことだった。
ずっと記憶の中にあった服を握り締め、カナタの手は震えていた。
ふるさとから遠く離れたこんな場所で、子供の服が血に染まっているのを知ったら、ナギのお母さんはどう思うだろう。
この男性や、今殺されている同胞達にも、きっと待っている人がいるのに。
「なんで、こんなこと……」
掠れた声で、少年は呟いた。
悔しかった。
泣かなかったが、怒りと憎しみは少年の胸の中に溢れていた。
どっ、どどっ――――――――――――――――――
大地を抉る蹄の音がして、カナタははっと顔を上げた。
騎馬が近付いていた。
視界を遮る物がほとんどないこの丘で、隠れようなんてない。
ここが狩場で自分が獲物であることをようやく思い出し、少年は弾かれるように立ち上がった。
逃げようとした。
馬と競争して勝てる筈もないのに。
それでも体は動いた。
生きようと。
その時。長い髪を揺らして、あの女性がゆったりとカナタと三騎の騎馬の間に入った。
馬の手綱が慌てて引かれ、両脇の二頭が方向を変え、前脚を上げながら止まった真ん中の一頭の蹄は、女性に当たる寸前だった。
目を瞠り、カナタは膝裏まで届く髪をした女性の背中を見つめた。
目の前で鉄の爪が宙を切ったのに、女性の後ろ姿は微動だにしていなかった。
その時のカナタには女性の背中しか見えなかったが、女性は表情すら動かしていなかった。
自分を庇おうとしてくれている……?!
そう見えた。
走り出し掛けていた足をカナタは止めた。
そうした方がいい気がした。
血まみれの槍や斧を持った男達が、驚きの表情を浮かべながら次々と馬を降りる。
「スーレイン様。」
一人がそう言って、男達は頭を下げた。
女性の声が何かを言った。
ヴァルーダ語だ。
ヤナ語とヴァルーダ語を操るこの女性は、本当に何者なのだろう。
少しの間女性とヴァルーダ兵の間で会話が交わされた。
女性とその後ろのカナタを交互に見ながら話すヴァルーダ兵達は、何か不服げな様子だった。
やがて。
ヴァルーダ兵達は再び馬に乗った。
それを見つめる女性は、相変わらず無表情だった。
重い音を立てながら、馬が動き出す。
三人の騎馬兵は釈然としない表情でカナタを見ながらその横を通り過ぎると、走り去って行った。
「死」が去って行く。
全身の力が抜けて、カナタはそこにへたり込みそうになった。
助かった………
長い髪の女性は兵士が去るのを見届けると、広がる丘と空に視線を転じた。
これは時間内に何人殺せるかというゲームで、時間まで逃げ切った奴隷は元の仕事場に戻される。頻繁に奴隷を供出させられているゴウルなどは、一人でも多く逃げ延びてほしいと思っているだろう。
「人間のすることに首を突っ込む気はなかったが、途中で見捨てるのは後味が悪い。」
遠い瞳をしながらヤナ語でそう呟いて、金色の髪の女性は木立の方へと踵を返した。
「来い。終わるまで守ってやる。」
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