127. 境界の女性
青紫の瞳がちらりとカナタを向いた。
やっぱり、この世の存在とは思えない程に美しい瞳だった。
カナタは言葉を失っていた。
ヴァルーダ人……?!
でもヴァルーダ人より、女性の肌は更に白く見えた。
だけど一体何があればここにヴァルーダ人ではない女性―――――しかも男装の―――――がいることになるのか、想像が付かない。
自分が見ている存在をどう解釈すればいいのか分からなくて、ヤナの少年はただそこに立ち尽くした。
その女性も、自分が座っている場所から動く様子を見せなかった。女性は、表情すら動かさなかった。
と。
現実離れしたその存在が口を開いた。
何かを言われたが、言葉の内容はカナタの頭に入らなかった。
それがヴァルーダ語だったからではない。
ヤナ語だったからだ。
「昼で終えると言っていたから、ここで隠れていた方が生き延びられる確率は高いぞ。」
カナタは息を飲んだ。
息を飲み、声にも顔にも表情のない金色の髪の女性を見つめた。
起きている出来事は、カナタの理解を超えていた。
少年が我に返ったのは、そこに騎馬が近付く音がしたからだ。全身がびくりと反応し、弾かれるようにカナタは木々が茂る右手を見やった。
どどっ、どどっ……
ガラスか氷を思わせる青紫の瞳も、カナタと同じ方を向く。
馬の蹄が大地を蹴立てる、重い音が近付いていた。
少なくともその女性は、カナタを攻撃しようとはしてこなかった。
でもやって来る騎馬兵は、きっと容赦なくカナタを殺す。
急激に現実に引き戻される。
ここにいたら死ぬ。
少年は身を翻すと、左の茂みの中に飛び込んだ。
「隠れていた方が生き延びられる確率は高い」
ヤナ語で話しかけられた驚きの方が大きくて、その時には飲み込めなかった言葉は、ちゃんとカナタの頭の隅に残っていた。
あの女性は一体……?!
敵にも味方にも思えない。
だが祈るような思いで、カナタは木々の中に身を伏せて息を潜めた。
あの女性はあそこにいても大丈夫なのか。
一瞬、そんなことが頭をよぎる。
女性はヴァルーダ人ではなさそうな気がした。それ以前に、この世の存在とすら思えなかった。
やがて蹄の音が止み、複数の男の声がした。あの女性が何かを応えている。
女性の正体がますます分からなくなる。
その会話はヴァルーダ語で交わされていて、カナタには半分も理解出来なかった。
ただ聞こえてくる女性の声は淡々としていて、一切の感情の揺らぎを感じさせないのは、ヴァルーダ語を話していても同じだった。
生きた心地がしない。
ここまでずっと走り続けていたから、気配を消したくても少年の心臓は爆発しそうに暴れていたし、呼吸も荒かった。
死が扉一枚隔てたそこにあると感じる。
その扉が開くのか開かないのか、決定権を握っているのはあの会話だと思った。
死にたくない。
家族に自分の生死を知らせることも出来ない場所で。
永遠にも感じられた。ヴァルーダ語の会話は、だが長くはなかった。
やがて馬が動き出す音がする。
男の声が何かを言っていて、重い物が地面を移動する音と馬具や武器の金属音がして、それが遠ざかって行く。
行った―――――――――――――――――――――?
胸がどきどきしていた。
あの女性は、ヴァルーダ人に自分のことを告げなかった?
あの女性はまだそこにいるのだろうか―――――――――それとも。
カナタはすぐには動かなかった。だが確かめずにはいられなくて、少しすると、息を殺して少年は静かに立ち上がった。
◇
馬が一頭だけ繋がれていた。
その隣に先刻と同じ姿勢のまま、女性は一人だけで座っていた。
青紫の瞳が、もう一度カナタをちらりと向いた。
だがそれは一、二秒のことで、女性はすぐに前へと向き直り、ヤナの少年に何も説明しようとはしてくれなかった。
柔らかな緑の上に、流れる川のように煌めく金色の髪が広がっている。
飾り気のない男物の服は、上も下も生成りのような白色だ。女性の隣にいる馬も白が強い芦毛で、その光景はまるで絵画のようだった。
やっぱり自分は、どこかこの世でない所に片足を突っ込んでいるのかも
しれない。
耳に聞こえる人が殺されて行く音と、目に見えるものが一つにならなくて、現実のこととは思えなかった。
何も言えずに、カナタはただ女性を見つめていた。
この世のものではなさそうな存在に何かを尋ねて、応えて貰えると思えなかった。
同胞の男達が殺されている音がしている。
現実から切り離されているかのようなこの木立が、ちゃんと現実の中にあると理解するのにしばらくかかった。
随分と時間を要した。
現実をきちんと知っておきたくて、木立の外が見える場所を目指し、やがてカナタはふらふらと歩き出した。
木々の隙間から向こうを見やる。
なだらかな緑の坂の下に、藍色のヤナの服を着た男が仰向けに転がっていた。
その瞬間。
カナタは我を忘れた。
「おい。」
女性の声が、カナタの背中を追い掛ける。だがその声も少年の足を止めることは叶わなかった。
カナタは坂を駆け降りていた。
叫んでいた。
「ナギッ!!!」




