122. 異変
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その朝の館の様子は普段と違っていた。
何かが起きた。
擦れ違う使用人達をミルは見つめていた。
台所仕事は朝が早い。
だからミルが地下牢から出されるこの時間はいつもなら、使用人達の多くはようやく起き出す頃で、大半はまだ着替えてもいない。
なのに今日は何人もの使用人達が既に廊下を行き来していて、時折不安気な表情で何かを言い合っていた。
彼らが何を話しているのか、ミルにはほとんど分からない。
堪らなく不安だった。
館の人間は、奴隷が必要以外で勝手に口を開くことを許さない。それでもミルは、知っている数少ないヴァルーダ語で遂に尋ねた。
「何かあったんでしょうか。」
台所まで奴隷の少女を連れて行こうとしていた女中が振り返った。
だが金髪の女中が少女の問いに答えることはなかった。
女中は不快げに少女を睨みつけるとすぐに前へと向き直り、結局、一言の言葉も発しなかった。
奴隷を見下すその冷淡な眼差しは、少女を更に深い不安の中へと突き落とした。
どくん……。
台所を見た時、心臓が大きく波打って、少女は微かに震えた。
台所も、いつもと様子が違った。
ジェイコブとタバサがもう来ていたが、二人とも所在無げに丸椅子に腰を降ろしている。普段であればこの二人は台所に来ると、すぐに領主一家の朝食を作り始める筈なのに。
ナギ………。
ナギに何かがあった。
そう思えて、怖かった。
館の様子は明らかにいつもと違ったが、少女の奴隷に事情を説明してくれる人はいなかった。少女を台所に受け渡した女中も、ジェイコブ達と言葉を交わしただけで、ミルには何も言わないままに去って行った。
それからしばらく、小太りの料理長と年輩の女中は時折廊下に出ては他の使用人と話をしたりしていて、領主一家の朝食作りは一向に始まらなかった。だがミルの仕事だけはいつもと変わらなかった。
朝一番に竈の火を起こすのは、今ではミルの役目になっている。
ナギやミルや、使用人達が朝食に食べる煮物は昨日の内に大鍋に用意されていて、起こした火でそれを温め直すのも今ではミルの仕事だった。
いつもならジェイコブとタバサはその間に食材を切ったり、調味料をすり潰したりといった料理の下ごしらえをするのだが、二人は今日はほとんど動かずに、ずっとぼそぼそと何かを話している。
この日の朝食を最初に貰ったのは、鍋を温め直したミル本人だった。
朝食は、普段もミルが最初に貰うことが多いが、周囲の様子はいつもと同じではなかった。
毎食、使用人達は自分の食事を取りにぱらぱらと台所へやって来るのだが、今朝はその出足も遅い。
牛小屋に行きたい。
朝食を載せた盆を持ち、自分とナギの食事場所である物置きへ移動したものの、食事はミルの喉を通らなかった。
あれからほとんど眠れなかった。
白髪の男は一切の説明をせずに地下牢を去り、再び暗闇となった場所に、ミルは一人で取り残された。
もしかして。
少女は、自分の体が冷えていくのを感じた。
もしかして、竜人の女の子が見つかってしまったのかもしれない。
―――――――「ミルは何も知らなかったふりをするんだよ」―――――――
ミルの頭の中で、あの時のナギの言葉がぐるぐると回った。
万一の時には自分を巻き込まないように。
ナギがそう思ってくれたのは分かる。
心臓がどくどくと、激しく打った。
だけどナギがいなくなった後のこの場所で、一人で生きて行きたいとは、ミルは思えなかった。
誰か。誰か教えて!何が起きているの――――――――?!
心が悲鳴を上げた。
状況が分からなくて動けない。
ほとんど無理矢理食事を口に詰め込んで少女が物置きを出ると、彼女が皮を剥かなければならない根菜が、いつもの場所にもう用意されていた。
だが料理人達の仕事は、まだ始まっていなかった。彼らが朝食を食べた様子もない。
本当はジェイコブとタバサの朝食もこの煮物の筈なのかもしれないが、彼らはいつも主一家のための料理から摘まみ食いしていて、鍋にはほとんど手を付けないのだ。
ジェイコブ達から何かを言われることもなく、結局ミルは普段通りに席に着き、野菜の皮を剥き始めた。
だがいつもの倍は時間が掛かった。
手が震えていた。
ナギ………!!
がちゃり。
その時、勝手口の扉が開いた。
ミルは野菜とナイフを取り落としそうになった。
朝の光の中に、少年が立っていた。
◇
結局クライヴは、牛小屋に戻って来なかった。
館の状況をナギが把握したのは、井戸に水を汲みに言った時だ。
それがいつも、世界にようやく視界が生まれる時間だった。
灰色の世界で領主の館を見上げると、二階の窓が一ヵ所派手に割れていて、その窓の内側で、寝間着姿のへルネスとサドラスが、使用人を相手に何かを言い続けていた。まだ酔い潰れていたのか、そこにハンネスの姿はなかった。
後で知ったことだが館の外の樫の木の枝が一本折れていて、その枝が飛び込んで、二階の窓を割ったらしい。
未明のブワイエ領に吹いた、人々が経験したことがないような突風のせいだった。
館は俄かに騒がしくなっていたが、ナギに何かを言いに来る人間はいなかったので、それから少年はいつも通りに家畜の世話をこなした。
少年が勝手口の扉を開けると、ミルと瞳が合った。
その表情を見た時、少女が酷い不安の中にいたのだということを、少年はすぐに察した。
火かき棒を持った男に叩き起こされて、何も分からず、どれだけ怖かっただろう。
ミル………!
大丈夫かと尋ねたいのに、尋ねることが出来ない。
ジェイコブ達に不審がられると思い、溢れそうになる涙をミルは必死に堪えていた。
やはり何かがあったのだろう。
少年の姿を見て、ミルは思った。
ナギは疲れ切って見えた。
でも無事だった。
いつもと変わらぬ時間に、彼は来てくれた。
無事だった――――――――――――――――――――――――
自由に話すことを許されない二人は、どちらも泣きそうな顔をしていた。
何も言わずに、二人はこの日も、ただ微笑みを交わした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日夜明け前の王都で、異変が起こった。
真冬の夜だというのに、城のあちこちで次々と窓が開いた。
窓を開けた者達は、どこか普通と違っていた。
皆若い。
足首まである長い髪を持つ者や、中には瞳が光る者もいた。誰もが振り返らずにおれぬ程、容姿が端麗な者もいる。
部屋を出てわざわざ廊下の窓を開けた者もおり、何人かは衛士の注意を引いた。
城の廊下には真夜中でも灯りが灯されていて、王城は冬の闇に煌々と輝いていた。
「何ごとでしょうか。」
尋ねた衛士に、応える者はいなかった。
開けられた窓の場所は様々だった。
だが窓を開けた者達は、皆北を見つめていた。
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