117. 奴隷の容疑(2)
明かりが漏れている部屋が本当に執務室であるのか、距離があり過ぎてすぐには断定出来なかった。そうと確信出来たのは、もう少し近付いてからだ。
なぜ執務室などに。
執務室の鍵は二つしかないのだから、扉を開けたのはハンネスで間違いないのだろう―――――――ヘルネスが起きて来たり、扉が内側から開けられたというのでない限り。
薄暗い廊下に、棚から落とされたと見える置き物が転がっている。壁の絵も一ヵ所、今にも落下しそうに傾いている。
泥酔状態のハンネスがしたことと思えたが、分からない。
もしや侵入者が……?!
不審な灯を見たと思った、あれが見間違いでなかったとしたら。
執務室からは異様な音が聞こえていて、それが夜の館の静寂を搔き乱していた。
ほとんど小走りで、老臣はその部屋に入った。
「ハンネス様!」
しわがれた声で、年老いた養育係は叫んでいた。
大きな書斎机の左横で、ハンネスは、頭をこちら側に向けて倒れていた。
卓上に先刻までクライヴが持っていた小さな燭台が載っていて、そのろうそく一本の明かりに、周囲が頼りなく照らされている。
その光景を見た瞬間、クライヴは複数の違和感を覚えた。
「ハンネス様‼」
酒と香水の強烈な臭いを撒き散らしながら、ハンネスは騒音のような鼾をかいていた。
一瞬ぎょっとしたが、死んではいない。
その脇に急いで屈み込むと、クライヴは主人の顔色と呼吸を確認した。全く起きそうな様子がないのが心配ではあったが、特に怪我などもないように見える。
だがクライヴの心に、安堵はやって来なかった。
老僕は表情を強張らせたまま顔を上げた。
その視線の先で、大きな棚の扉が開いている。
違和感の正体の一つは、これだ。
まさかハンネス様が……!
主人の足元には、小さな金属の輪に繋がれた鍵の束が転がっていた。
この棚の鍵を持っているのも、ヘルネスとハンネスだけだ。
ハンネスが家の金を持ち出そうとしたのではないかと考えて、クライヴは青ざめた。
金勘定に厳しいヘルネスがこんなことを知れば、激怒するだろう。
未遂に終わったようであるし、ゴルチエ家との縁談が決まっているハンネスの立場がこれだけのことで危うくなりはしないだろうが、ハンネスの将来はまだ完全に約束されている訳ではない。
ブワイエ家には、結婚話も含めて未だ先行きの定まらない、次男のサドラスがいる。
無礼で訳ありの娘だとしても、ハンネスの婚約者が王族並みの権勢を誇るゴルチエ家の令嬢であることに変わりはない。
兄の婚約が決まって以降、サドラスは兄弟格差に不公平感を募らせていて、兄と弟の仲は急速に悪化していた。
兄の失点を知れば、サドラスはここぞとばかりにハンネスを責め立てるだろう。
酔い潰れた男の養育係は立ち上がると、ランタンの灯で慎重に棚の中を検分した。
金庫が開けられた様子はない。
帳簿や書類も整然と並んでいて、どこにも乱れはなかった。
だがそれもおかしな話と思えた。
ハンネスは棚の扉を開けるだけ開けて、中身に一切触れずにすぐに眠ってしまったのだろうか。
クライヴは扉の裏側に灯を向けた。
そして顔色を変えた。
鍵がない。
地下牢の鍵が。
白髪の男は、慌てて周囲を見回した。
一体どこへ。ハンネス様が持ち出したのか。
なんのために―――――――――――――――――――――――
そこまで考えて、クライヴは息を飲んだ。
爆音のような鼾をかき続けている主人を見やる。
これがヘルネス様に知られたら。
鍵を見つけなくては。
だが。
鍵を持ち出したのは、ハンネス様なのか。
部屋に入った時に覚えた違和感が、老僕の心に疑問を投げ掛ける。
微かに、家畜の臭いがする。
酒と香水の強烈な臭いの中に、種類の異なるものが僅かに紛れ込んでいる―――――――――不快で、下等な臭いだ。
「………。」
クライヴは振り返ると、大きな窓を見やった。
カーテンが歪んでいる。
ヘルネスやハンネスが適当に留めていることもあるが、掃除の時には使用人が綺麗にまとめ直すので、カーテンがあんなに不格好であることはほとんどない。
――――――――地下牢へ様子を見に行くべきだろう。
白髪の男は、ハンネス以外の人間が鍵を持ち出した可能性について考えていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
ブワイエ家嫡男の養育係は、ランタンを手に闇の中を歩いていた。
雄鶏が時折耳をつんざくようなけたたましい声で夜明けを告げているが、空にはまだ星しか見えておらず、夜同然だった。
鉄製の閂は、冷え切っていた。
奴隷と牛が暮らす小屋の鍵を、男は回し開けた。




