116. 奴隷の容疑
◇ ◇ ◇
濃い闇に、青い光が閃いて見えた。
なんだ……?
白髪の男は左手を上げ、ランタンを行く手にかざした。
小さな動物の瞳のようだったが、あんなに青い光を放つ動物は見たことがない。
木戸の辺りか。
石塀と館の壁の間を歩いてそこまで辿り着くと、クライヴは木戸の周囲を照らした。だが暗闇に、青い光が再び見えることはなかった。
オレンジ色の明かりは木戸の向こうに鶏小屋を僅かに浮かび上がらせたが、その奥の牛小屋は闇の中だった。
家畜の臭いが鼻を突く。
「………。」
一つ一つは通り過ぎてしまいそうな程に些細なことだが、奇妙なことが続いているように思えた。
経験が、老いた男の中に警戒心を呼び起こす。
鞍や手綱を馬から外して蹄から土を掻き出し終えるのに、長くはないが、短くもない時間を要した。
ダイニングルームのソファの上で引っ繰り返ってしまったハンネスの身が気に掛かる。
老臣は木戸を離れると、玄関へと来た道を急ぎ出した。
やはり男を数人起こしておくべきだったかもしれない。
だが主人の醜態を晒すまいとする思いが先立った。
クライヴは、家族に恵まれなかった男である。
妻も一人息子も、早くに病で亡くしている。
跡取り息子の養育係としてブワイエ家に雇われた時には既に独り身で、以来、他に向かう先もなかった生きる情熱を、やもめ男はハンネスの養育に捧げて来たのだった。
その甲斐があったとは、言えないかもしれない。
28歳となったハンネスの知性は客観的に言って凡庸だったし、粗暴な振る舞いも目立った。
自らの心血を注いだハンネスの能力や気性を、クライヴは冷徹に評価出来る人間だった。
それでいて、ハンネスに対する思い入れという面では実父のへルネスよりクライヴの方が強いかもしれなかった。
ハンネスが次期当主としての職責を果たす姿を見届ける――――――――それがクライヴの生甲斐だと言っていい。
代替わりより前に老臣の寿命は尽きてしまうだろうが、ハンネスが自らの跡取り息子を成すところまでは見届けられるかもしれない。
おそらくブワイエ家でその日を一番に待ち望んでいるのは、クライヴだった。
◇
玄関の扉を開けると、右奥の壁でろうそくの炎が揺れた。
帰宅したハンネスの体からは、むせかえるような酒と香水の臭いがしていた。
ハンネスは行き先を告げずに出掛けていたが、どこで時間を過ごしていたのかはすぐに察しがついた。
とうが立った女が二人いるだけの店だが、近くの村にそういった店が、あるにはある。あそこまで酔ってしまったのなら、宿泊した方がよかったと思う。
挙式を間近にした時期に控えてほしかったと思うが、強く責める気にもなれない。
ゴルチエ家の娘と使用人達があれ程までに無礼でなかったら、ハンネスもこんなに荒れはしなかっただろう。露骨にこちらを見下して来る彼らの態度が腹に据えかねているのは、クライヴも同じだった。
そもそもは、こちらが引け目を感じなければならないような話では
ない―――――――――――
老僕の眉間に、幾つもの皺が寄った。
結婚を決める際、ヴァルーダの上流階級では家同士で話を付けた相手と、まず顔合わせを行うことが多い。
互いの家が特に遠方とかでなければ、その後は連れ立って社交の場に出掛けたり外出したりして、時間を掛けて当人達の関係を深めていくというのが、最近の流行りのやり方だ。
但し、顔合わせとその後の交際は、必ずしも結婚の約束を意味しない。
元々家同士の了承がある話だから多くがそのまま婚約に至るが、そうなる前に、断ったり断られたりすることもあるのだ。相手を好きに選べるような力のある家なら、複数の家と話を同時進行させることもあった。
実はハンネスはこれまでに三回、顔合わせをした相手から断られている。
そんな経験のせいか、ここ数年のハンネスはただでさえ、女性に馬鹿にされると過敏に反応するところがある。
だが今回の話は顔合わせも形ばかりにしたことで、結婚は最初から決まっていたのだ。
玄関ホールは、一基だけ灯された壁付けの燭台に照らされていた。少し前、帰宅したハンネスを迎えるためにろうそくを三本挿したその燭台に火を入れたのは、クライヴ自身だ。
左右を扉に挟まれた玄関ホールは静かで、誰かが起き出した気配はなかった。
この時間のブワイエ家は、廊下の数ヵ所で小さなランプを灯しているだけだ。
今日のようなことがある時はそこから貰い火をすればすぐに火を増やせたが、基本的には最小限の灯りがあるだけで、館内は薄暗い。
もう玄関に戻って来ることはない筈で、クライヴはまず燭台の火を落とした。
廊下や階段は扉の向こうにある。
今火を消した燭台の目の前の扉を、クライヴは押し開けた。
異変はすぐにクライヴの目に入った。
暗い廊下のずっと奥の部屋の扉が開いていて、そこから灯りが漏れている。
ハンネス様……?
老いた男は、突然胸に騒めきを感じた。
あれはおそらく、執務室の扉だ。
不審な灯りが見えた気がして、後で確認に行こうと思っていた部屋である。
ただ確認と言っても、執務室の鍵を持っているのはヘルネスとハンネスだけなので、廊下から中の様子を窺おうと考えていただけだ。
執務室に行かれたのか。
すぐそこのダイニングルームの扉も開いていたが、そちらの中は真っ暗だ。
老僕は慌てて、その中を確認した。
いらっしゃらない。
入り口を入ってすぐのソファの上で、ハンネスは引っ繰り返っていた筈なのに。
どうやって部屋までお連れしようかと、つい先刻まで頭を悩ませていた。
やはり執務室に……!
白髪の男はすぐに踵を返すと、ランタンを手にその部屋へと向かった。




