108. 初めての潜入(3)
唐突に、灯りは音もなく灯った。
予行練習は見ていたけれど、ラスタは本当に凄い。
暗闇に突然、色と形が浮かび上がった。
ただし、ナギが最初に目にしたのは何かの物ではなく、物が作り出す影の方だった。
窓を背にして大きな机があると聞いてはいたが、目の前の黒々とした闇がそれであると咄嗟に判別出来なくて、一瞬戸惑う。だがそれは一瞬で、状況自体はすぐ飲み込めた。
思っていた以上に恐怖がある。
想像と実際の体験は違う。
理解はしていたが自分が見えるということは、周囲からもこちらが見えるということだった。
片膝を床に落としたまま、ナギは後ろを振り返り、上を向いた。
厚地のカーテンが左右から引かれて、真ん中で合わさっている。金糸で蔦模様が刺繍された緋のカーテンが暗がりにぼうっと浮かんでおり、揺らめく灯に照らされて、風に揺れているかのようにその影が動いていた。
カーテン一枚で、外に明かりが漏れることを完全に防ぐことは出来ないだろう。
急ごう。
心臓が短く、強い音を叩き続けている。
弱々しい灯は、机の反対側の床の上で灯されている。竜人の少女も、そちらの側にいる筈だった。
身を低くしたまま、ナギは目の前の影を廻り込んだ。
闇をよけると、ようやくこの部屋の中が見えた。
幾つもの絵が織られた絨毯。浮彫りのある石枠が美しい暖炉。その暖炉の左右に、高価そうな置き物をところどころに飾った、分厚い本をずらりと並べた書棚。
五本のろうそくが挿された燭台が、絵入りの絨毯の上に置かれていた。だが火が灯っているのは、右端の一本だけだ。
その右横で、ラスタが両手を腰に当て、胸を張っていた。
小さな女の子の得意げな表情を見て、ナギは思わず、声を出さずに笑った。
いいこととは言い切れないのかもしれないが、緊張がほぐれる。
ラスタといると、例え戦場でも笑ってしまいそうだと思う。
「物を動かす力」で、ラスタは作り出した火の位置をコントロール出来るようになっていた。
今朝干し草を一本燃やして実演してくれていたからそれ程心配はしていなかったが、力の有効性を実地で証明した少女は、誇らしそうだった。
「さすがラスタ。」
少女の前まで移動した少年が片膝を付いてそう言うと、ラスタは「うむ!」と応えて相好を崩した。
これもナギは今朝ラスタに教えて貰ったのだったが、空気とか土とか生き物とか、竜人は、周囲のものが発していたり、持っていたりするものから材料を集めて、火と水を作っているのだと言う。水は溜めておくことが出来たが、ラスタの作る火は「材料」が燃え尽きると短い時間で消えてしまうので、長く火を灯すにはろうそくとか、何かに火を移す必要があったのだ。
自分のために要らぬ苦労をしてくれているラスタに報いるためにも、今夜の目的はきちんと果たさなければと思う。
初めて足を踏み入れた館の部屋の中を、少年奴隷は改めて見回した。
「貧乏領地のどケチ領主」という陰口と自虐を、麦畑で何度となく領民達から聞かされてきていたが、彼の目に映るその部屋は豪華だった。
この時まで、ナギはどこかよく分かっていなかった。
ヴァルーダ人が周囲から簒奪することで得ている利益を。
決して小さくはなかったがどことなく散漫としていたナギの中の憎悪が、その時、これまでになくはっきりと姿をとった。
これが自分を家畜小屋に繋ぎ、ミルを地下牢に繋いでいる人間達の暮らし
ぶりなのか―――――――――――――――
「あの扉の中だ。」
小さな少女に言われて、ナギは顔を上げた。
先刻は影しか見えていなかった机の姿がようやく目に入る。
緋色のカーテンと、高い背もたれのある椅子を後ろに従えた、大きく、重厚な机。
卓上にキラキラとした物が幾つも載っている。まるで宝飾品のようだったが、皆銀細工やガラス細工で飾られた、事務用品らしかった。
その机に向かって左奥の壁面にある扉――――――――白い戸が、書棚越しにぼんやりと見えていた。
人間が潜れる大きさがあるが、ラスタによると扉の向こうは部屋ではない。
その扉の中には棚があり、そこに地図が収められているのだと竜人少女はナギに教えてくれていた。
どうしても自分の目で見たかった。
「扉を開けるぞ。」
竜人の少女が囁く。表情を固くして、少年は頷いた。
多分ラスタはその場を動かずに扉の鍵を開け、地図を取り出すことも出来ただろうと思うが、彼女はそうしなかった。
少女は身を屈めると、歩いてその扉の前まで移動した。少女の身長と同じ長さの髪が、彼女の後ろでドレスのように広がっている。今日の目的地の前で、ラスタはナギを振り返った。
「――――――――――――――――――――。」
ラスタは気付いていたのかもしれない。
この棚の話を聴いていた時に、ナギがやや興味深げな表情をしたことに。
地図を見ること以外は望まないつもりだったが、ラスタが勧めてくれるのなら、棚の中をさっと見渡すくらいはしてもいいかと思う。
この部屋がもし領主の執務室だとするのなら、その扉の中には色々な情報が眠っているかもしれない、と思った。
少年は無言で、小さな少女の後ろに続いた。
中腰で隣までやって来たナギがそこに片膝を付くと、竜人の少女は楽し気に、扉のノブを指差した。
かちゃり。
二人がここに潜入してから、一番大きな音がした。




