107. 初めての潜入(2)
館の壁と花壇の間の狭い隙間を地面に手を付かないように気を付けながら、可能な限り身を低くしてナギは進んだ。侵入後のことを考えると、手は汚せない。
灰茶色の館の煉瓦壁に、時々左腕が掠れる。
ブワイエ一家の部屋の場所をラスタに教えられていなかったら、こんなに冷静にここを歩けていなかったかもしれない。
竜人少女はこれまでナギが知ることのなかった、沢山のことを教えてくれていた。
ラスタによると、一階を居室にしているのはヘルネスの年老いた母親だけで、一家の他の面々の部屋は二階にある。
二階と三階は前庭側が廊下で、ほとんどの部屋は裏庭に面して造られていた。ヘルネスの老母の部屋は館の北棟にあり、その部屋の窓はやはり裏庭を向いているそうだった。
前庭に面した部屋が多いのは館の一階だけだが、ここには今、だから誰もいない筈なのだ。
一階には他に使用人部屋があるが、男女で分かれた小さな棟は館の両端から左右に突き出るように、前庭から少し奥まった場所に造られている。たとえ明るかったとしても、その場所からここが見えることはなかった。
暗闇の中で、ナギは静かに青い光の許に辿り着いた。
ここまで来て花壇の側に倒れでもしたら目も当てられない。
中腰で歩いて来たナギは、一端片膝を着いてそこで体勢を落ち着かせた。
竜人の瞳が楽し気に少年を見上げる。そして小さな音と共に、青い光は再び消えた。
それから数秒、息を殺してナギは待った。
やがて。
きぃ……。
微かな音と、風圧。
ナギの頭上で、窓が開いたのだ。
壁に手を這わせ、慎重に少年は立ち上がった。窓枠を探す。相変わらず視界はないので、やはり手探りだった。
――――――――――――あった―――――。
自分の肩程の高さにある窓枠を、ナギは探し当てた。
恐怖はあったが、自分は一人ではなかった。そこに両手を掛けると、少年は力を込めて、体を一気に引き上げた。
もう一度少女の瞳に出会う。だがそこも暗闇で、竜人少女の瞳以外は何も見えない。
体を宙に支えたまま、ナギはまず左膝を中に入れた。その時少しだけ、彼は眉をしかめた。
足を大きく開こうとすると微かに痛みを感じることに少年が気が付いたのは、昨日の夜だ。四年間鉄の鎖に縛られていた足は、関節がすっかり固くなっていたのだ。
ラスタの帰りを待つ間、重量挙げで眠気を防ぎきれなくなって、ふと思い付いて足を大きく踏み出してみようとしたら、踏み出せなかった。
このままではきっと、走ることもどこかをよじ登るようなことも出来ない。
また重大な問題に突き当たり、それからナギは柔軟運動をしていたのだが、少し足を大きく開くだけでも負荷を感じて、体が熱くなった。
そのくらい関節が固くなっていたし、使わずにいた筋肉が衰えていた。
体の異変に昨日の内に気が付かず、昔と同じ感覚でこれをしようとしていたら、壁の外に落ちていたかもしれないと思う。
窓の桟に足跡を付けたら駄目だ。
暗闇で何とかバランスを保ち、ナギは両足を部屋の内側に入れた。
心臓が口から飛び出しそうだった。
少年は窓の桟に一度腰掛けた。それから飛び降りようとして、はっとしてナギは凍り付いた。
ラスタの瞳の位置が、自分が思っていたよりも高い。
今ラスタは人間の姿をしていると思えたが、それにしてもその位置が随分高い。
浮いている―――――――――――?いや――――――――――
寸前で、そうかと気が付く。
屋内の床面と、外の地面ではそれだけ高さが違うのだ。
よじ登った時と同じ距離感で飛び降りていたら、多分危なかった。
冷汗が出る。
やはりやってみて、初めて気が付くことが沢山あった。
ナギは手の方に体重を残しながら、慎重に室内側へ降りた。
「……っ……!」
転びこそしなかったが、それでも予測したより衝撃があった。何も見えない世界では、距離感は測り難かった。だが頭の中のラスタの身長が目安になってくれたから、それに助けられた。
遂にここまで来た。
鼓動が速くなり、息が苦しくなる。
だが打ち合わせ通りに、その場にしゃがみ込んだまま、ナギはじっとしていた。
この部屋の中を、ナギは見たことがない。自分の周りに今何があるのか、だから全く分からないのだ。下手に動けなかった。
竜人少女の瞳がすぐ目の前に近付く。そしてナギの耳に少女の囁く声が聞こえた。話せるということは、今ラスタはやはり人間の姿だ。
「窓とカーテンを閉める。」
「うん。」
ラスタの瞳は、ナギの傍を動かなかった。
だが闇の中で、窓の軋む音と衣擦れの音が聞こえた。空気が動き、頭と肩に僅かに風を感じる。
少女の声が続けて囁く。
「灯りを点ける。」
「うん。――――――――――鍵は?」
「もう確認した。ちゃんと閉まってた。」
ナギは青い光を見やった。竜人少女の手際の良さに少し驚いてしまう。
ラスタの話ではこの部屋の扉には鍵が付いていて、昨日の夜彼女がここに忍び込んだ時も、それは掛かっていたと言う。万一の時には時間稼ぎになるから、もし今日それが掛かっていなかった時は、自分達で掛けようと打ち合わせていた。
少年と目が合うと、青い瞳はまた楽し気にして、少し浮き上がった。そして横へと逸れ、その二つの光は消えた。ラスタが後ろを向いたのだ。
ラスタは今度は多分、浮いている。
少女は移動している筈だが、微かな音すらさせなかった。
いよいよだ。
全身を強張らせ、ナギはその瞬間を待った。




