106. 初めての潜入
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「………優しい 音が 聴こえるでしょう とととん とととん 母の胸に………」
時間だ。
子守唄を三巡。
それまでにラスタが戻らなければ、それが「大丈夫」の合図と決めていた。
息を殺すようにして、ナギは静かに牛小屋の扉を押し開けた。
ぎいいぃぃぃぃ…………
蝶番のきしむ音が闇を裂き、心臓まで裂かれる思いがする。
夜の静寂の中で、その音は派手に響いた。
はっと息を飲んだナギの体を、冷気が容赦なく鷲掴む。
慎重に、少年は闇の中に踏み入った。
空は星が降るようだったが、でも、何も見えない。
夜行性の動物たちの気配がしていて、一日の半分の世界では、人間は弱者だと思う。
人の意思に抗うようにぎちぎちと鳴る扉を閉めると、ナギは手探りで閂を回し掛けた。
冷たい空気が肺に入る。
緊張と寒さで、体は凍り付きそうだった。
牛小屋は臭いはきついが、牛達が天然の熱源になってくれているから、充分とは言わないまでも、外に比べればずっと温かいのだ。
この寒さの中、ミルはどう過ごしているのだろう。
今地下牢にいる筈の少女のことが胸をよぎり、ナギは苦しくなった。
左を向き、館を見やる。
館は真っ暗ではなかった。幾つかの窓から、まだ明かりが漏れている。
でもあの明かりが自分とミルを温めることは、決してない。
意を決すると、ナギは視界のない世界を歩き出した。
四年間ほぼ休まずに一日何往復もして来た道だから、道は体が覚えていると思っていたが、実際にそこを歩くと、また予想外の問題を感じる。
足が軽すぎて、いつもと全く感覚が違うのだ。鎖の音がしないのが不思議ですらあった。
四年間で初めて、ナギは足枷を着けずに外を歩いていた。
目標が見えているのは方向を見失わくて済むから、ありがたくはある。
重りからようやく自由になって歩いているというのに、今は喜びよりも緊張の方が大きい。
鶏小屋の臭いが近付いて、自分はいつも通りに歩けているのだとほっとする。
館と家畜小屋を仕切る木戸がある筈の辺りを、少年は探した。
いた―――――――――――!
小さな青い光が二つ見える。
打ち合わせ通りに、ラスタが木戸の位置を示してくれていた。
鶏が鳴くとまずい。
鶏舎にぶつかったりしないように、気を付けながらナギは相棒を目指して闇の中を歩いた。
竜の光る瞳に見つめられながら、少年は木戸に辿り着いた。
「ありがとう………。」
腰高の戸をやはり手探りで探り当て、そこに手を掛けた少年がそう言うと、青い瞳が悪戯っぽく輝く。暗闇に光る物は物凄く目立つけど、例え誰かに見られても竜の時のラスタの目の高さなら、小さな動物としか思われないだろう。
それからぽんっと微かな音を立て、青い光は消えた。
さあ、この先は少し難易度が高くなる。
四年もここにいるのに、ナギは井戸より向こうを歩いたことがほとんどないのだ。
今日一日何度も館を見つめて改めてその形を頭に叩き込んだが、障害に遭わずに歩けるかは、やってみないと分からない。
しばらくじっと待っていると、闇の向こうで青い光が再び灯った。
二つ目の目印に定めていた場所。
玄関の南側に突き出た、小さな棟の前。
漏れ出る明かりに照らされないように、館から距離を保ったまま、ナギはその場所まで歩いた。
そしてナギがそこに辿り着くのを見届けると、竜の光は再び消えた。
それから少しの間、ナギは青い光が消えた場所を見つめた。
あの下にミルが、と思う。
胸を切り裂かれる思いがする。
そこが地下室の入り口であると、ラスタが教えてくれていた。
やがて三つ目の目印の前で光が灯った。痛みを押し殺し、ナギは再び歩き出した。今度は館の壁に沿って幾つか造られている花壇の前だ。うっかり踏み込んだら足跡が残ってしまうから、気を付けなければ。
鼓動が、痛い程に速くなりだした。
今日の朝と、夕暮れに牛小屋に帰ってから先刻まで、ラスタと二人で何度も計画を練り直した。
ナギは細心の注意を払って闇の中の花壇を廻り込み、遂に館の外壁に辿り着くと、明かりが当たらないように身を屈めた。
館の灯りが完全に落ちるのが何時なのかは分からない。
昨夜もラスタは、まだ灯りが灯る館に、廊下に歩く人間がないことを確認して忍び込んだのだと言う。言われてみれば、何十人もいる人間の部屋を全て回って、全員が寝付くのを見届けようとしたらきりがなかった。どの道、誰かがふと目を覚ます可能性は常にあるのだ。
悪戯っぽい瞳が、ナギを見上げて再び消える。
いよいよ次が最後―――――――――――――その部屋の前だ。
少し離れた場所で、青い光が灯った。




