105. 暗闇の中の秤
何かあったのかもしれない。
館の様子を見に行きたいと思い、その判断は誤りではないかと躊躇う。
今はもう、小屋の中も外も自分の足元も見えないくらいの暗闇だ。
館の灯りが全て落ちていたら、目指すべき目印となる物もない。
地図のある部屋の位置はラスタに教えて貰ったが、闇の中でそこが分かるだろうか。
下手に行動すれば、状況が悪化しかねない。
慌てたら駄目だ。
懸命に、ナギは自分を落ち着かせた。
もしラスタが見つかったり捕まったりしてしまったのなら、灯りが灯されたり人が動き回ったりするだろうから、騒がしい様子が館の外からでも分かるのではないかと思う。
もしラスタが眠ってしまっているのだとしたら―――――――――――
館へ行きたい。
暗闇の中の床を見つめて、少年は息を殺すようにして佇んでいた。
もう少ししてもラスタが帰って来なかったら。
これ以上じっとしていられそうにない。
自分に落ち着けと言い聞かせながら、視界がない中で、ナギの体は木靴の方へと動きかけた。
その時。
ぽんっ。
「うわっ!」
「何してるんだ?」
「ラスタ……!」
体から力が抜けたようになって、ナギはその場に座り込んだ。
よかった………
青い光が現れたのは、少年のすぐ目の前だった。
ナギがすぐには動き出せずにいると、その光の位置は音もなく下がり、すぐにまた少年の瞳の位置と同じ高さになった。
煌めく瞳が小さく傾く。竜人の少女が小首を傾げたらしい。
「体から湯気が出てるぞ?」
「えっ。」
自分では何も見えていないので、竜人にそう指摘されて、少年は驚きの声を上げた。
不安を振り払いたいと思う気持ちもあって、考えなしにやり過ぎたかもしれない。
鉄枷を使って、ナギはしばらく重量挙げをしていたが、単調な動きが眠気を誘い出したので、その後は柔軟運動をしていた。
汗が冷えたら、逆に体が冷たくなってしまう。
藁の中に体を入れるべきかもしれない。
でもその前に。
「なかなか帰って来ないから、心配してた。よかった。」
「うむ!『ただいま』だ!」
竜人少女の嬉しそうな声がして、少年は笑った。
「体が冷えないように、動いてたんだ―――――――――藁の中に入るね。」
「人間は不便だな。」
ラスタの戸惑い声を聞きながら、ナギは中腰になり、藁の山がありそうな方向を手探りで捜した。
「人間は大変だな。」
闇の中でラスタの声が今度はそう言って、それから青い光が少しだけ移動した。
「ここだぞ。」
「―――――――――ありがとう。」
竜人の少女は藁の横に立って、その場所を教えてくれたのだった。
自分も闇でも見えたら、と少年は思った。
ヴァルーダ人が寝ている間に動けたら、どれだけ脱出に有利だろう。
でも人間の自分に、羽がないのも、夜に見える瞳がないのも、仕方のないことだった。
真っ暗な中、ナギは藁の山を割ると、その中に体を沈めて座った。
と。
ラスタが押し入るように藁布団の中に一緒に入って来た。
そしてナギが呆気に取られている内に、竜人の少女は少年の膝の上で落ち着いた。
青い瞳がナギを見上げる。
「あったかいか?」
全く普通の調子で訊かれて、少年は真剣に悩んだ。
「…………ラスタは―――――――――――あと二年で大人になるんだよね?」
「うむ!凄い美女になるからな!」
「獣人の記憶」って、と喉元まで言葉が出掛けたが、その先をどう続けていいのか分からない。
この先が段々心配になって来る。
ナギはしばし無言でいた。すると。
「ナギ、眠いのか?」
「…………大丈夫。」
実年齢1歳、見た目年齢6歳のラスタにそう心配されて、16歳の少年は、ちょっと情けなくなった。
本題に入ろう!
頭を抱えたくなる問題を、この時少年は棚上げすることにした。
取り敢えずラスタは、人間基準でまだ6歳の見た目だったし。
「―――――――――地図は見られた?」
ようやくそう尋ねた時には、ナギの声は乾いていた。青い瞳が頷く。
「この場所は分かったぞ。」
少女の言葉で、ナギの心臓は爆発しそうになった。
遂に自分達の居場所が特定出来たのだ。
固唾を呑んでナギはその先の言葉を待ったが、続いたラスタの声は浮かない調子だった。
「考えていたより、脱出が難しそうだ。」
いい報せと悪い知らせ―――――――――――――――――
それでも情報がゼロの時と比べれば、遥かに大きな進歩だ。
全身を緊張させながら、ナギは少女の話の続きを聴いた。
◇
それからしばらくの時間が経ち、ナギは闇の中で考え込んでいた。
竜人の少女は無言で少年を見守っている。
ナギの頭を、ある考えが離れなくなっていた。
ミルの表情と言葉が胸に甦る。
―――――――――――『無茶はしないで』―――――――――――
「……………。」
もししくじれば、ミルをここに一人で残すことになってしまう。
だから軽はずみなことは、絶対にしちゃいけない。
得られるものと危険性を秤にかけて、ナギは検討を繰り返していた。
もう一度ミルの顔が頭に浮かぶ。
可能な限り、危険は冒すべきじゃない。
でも今回は。
ゆっくりと、ナギは言葉を絞り出した。
「―――――――――――――ラスタ。」
「うむ。」
「――――――僕もその地図を見たい。」
青い光が丸く見開かれた。




