100. 脱出の計画
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
黒い服の使用人達は、ナギが鶏小屋の世話を終えた頃の早朝に館を出た。
どちらも二頭立てのゴルチエ家の大型の二台の馬車が館の前庭に付けられ、タバサをはじめとしたブワイエ家でも年長組の使用人達がその見送りに出ていた。薬草の老女はいなかったが、ナギを書庫に閉じ込めたあの男はいた。
ミルのお蔭で分かったのだが、あの男の名はクライヴと言うそうで、やはりハンネスの専属の使用人だった。
二つの家の使用人達が馬車の前で慇懃に礼をしあう。
ちょうど木戸を通ろうとしていたナギは、無言で敵意を交わしているかのようなその様子を目撃し、なんとも言えない気持ちになった。
春にハンネスの婚約者が嫁いで来れば、もはや確実に、館の雰囲気は今より悪化するだろう。
自分もミルも無関係ではいられないし、館の中にいるミルの状況は、きっと自分より悪くなる。
だけどこのままで一番不幸になるのは、嫁いで来てここで暮らしていくのだろう、彼らの主人ではないのかと思う。
木戸の手前で立ち止まったまま、ナギは門に向けて停められている馬車を見上げて、窓越しにあの女中と目が合い、ぞっとした。
◇
客人の馬が帰って馬小屋の世話が幾らか楽になった。朝早くからうろつくゴルチエ家の御者の姿もなくなり、ナギは少しだけ安堵した。
季節を選ぶなら、夏。
それがナギの考える、最善の時季だった。
凍死する心配が少なくて、食べ物を得やすい時季だと言うのがもちろん大きな理由だが、もう一つ理由を挙げるのなら、それが収穫の季節だからだ。
その時季はブワイエ家も村人も収穫作業で手一杯で、逃げ出した奴隷を追うための人手も時間も足りない筈だった。
急ぐのであれば、次の夏………。
―――――――ラスタが「大きくなる」のを待つのであれば、再来年の夏。
より確実であろうとするのならラスタの成長を待った方がいいのかもしれないが、ミルを思うと、再来年は遅すぎる気がした。
取り敢えずの期限でいい。
計画を煮詰めていく内に、状況や考え方は変わるかもしれない。
決定事項はまだ一つもない計画だったが、その日に向けて、具体的な準備を始める時期に自分は来ているのだと思う。
小さな頃から、ほとんど毎日のように一緒にいた友人達の姿がナギの胸をよぎった。
タキ、カナタ、ヤマメ――――――――――――――――――――
ミルだけを逃がすのか。
この国のどこかにいる仲間達を捜し出すのか。
自分は決めなければならない。
ラスタにとってそれがそれ程難しいことでなくて、かつ「そうしてもいい」とラスタが言ってくれるのなら、ナギは当初、ミルだけを先に逃がして貰い、自分は牛小屋でラスタの帰りを待とうかとも思っていた。
だけどその考えは甘かったし、何より無責任だった。
かと言って三人で脱出して、ミルを故郷へ送り届けた後に、ラスタと自分だけがヴァルーダに戻ると言うのも非現実的だった。
巨大なヴァルーダ王国を、一目で外国人だと分かる自分が当てもなく歩いて、無事にみんなを見つけ出せる筈がない。
「遠くが見えるようになったら、その力で遠くの人を見つけ出すことも出来る?」
ラスタの新しい力を知った後、ナギは少女にそんなことを尋ねていた。そういう力ではなさそうには思えたが、もしかして、と微かに期待したのだ。
だが難しい表情をして、竜人の少女はやはり首を横に振った。
「居場所が分からない人間を見つけ出すことは無理だ。単純に、遠くが見えるだけだからな。――――――――――友達を見つけたいのか?」
表情を強張らせて少年が頷くと、竜人の少女は淡々と続けた。あどけない声が告げる言葉は、残酷ですらあった。
「諦められないのか。十三人を見つけ出すのは簡単じゃない。それに………」
ラスタはそこで言葉を切った。一瞬、続きを尋ねる表情はしたものの、ナギもその先を訊き出そうとはしなかった。
竜人少女は、「無事であるのか分からない」、と言おうとしたのかもしれない。
ナギにとっては辛い話だったが、それが現実的な物の見方であるとは、分かっていた。
◇
勝手口の扉を開けると、ミルの服はさっそくいつもの色褪せた物に戻されていた。でも髪は結われたままで、ミルはやっぱり、そこそこ美人だと思う。
顔色がよくなれば、本当はミルは、もっとずっと美人だろう。
本当は、ヤナの綺麗な服を着て、ミルに太陽の下で笑ってほしい。
いつものように二人で目を見交わしてから、ナギは調理台の方へ歩み寄った。
と、ナギが朝食の盆を手に取る前に、竈の前のタバサが振り返った。ナギが馬小屋の世話をしている間に、戻っていたらしい。
「ナギ。その子に今日は、洗濯の後、灰を持って台所に戻って来るよう言ってちょうだい。鍋と金網を磨いて貰うわ。」
「分かりました」と応えてから盆を手に取り、ナギはミルを振り返った。
少女と目が合う。ナギが通訳を命じられたことが、ミルにも分かったようだった。
これで話せる。
奴隷の少年と少女の瞳に、期待と希望が満ちた。
冬場の水仕事や汚い場所の掃除など、自分達のしたくない仕事を館の人間は次々とミルに押し付けたがった。だがあちこちから仕事を命じられては収拾がつかないので、結局ミルの仕事の差配は、今ではタバサがすることになっていた。
物覚えの悪い娘と思われてしまうのだろうが、二人で相談し合って、ミルはヴァルーダ語がなかなか覚られない振りをしている。
もっともこの館の人間達は、自分達の命令を理解させるのに必要な言葉以外を奴隷に教えようとはしなかったから、ミルは本当になかなかヴァルーダ語が覚えられない。
ナギが片言のヴァルーダ語をなんとか話せるようになったのは、ほとんど麦畑の村人達との会話のお蔭だ。
同胞の少女の横で、少年が屈む。
タバサの言う灰はもちろん、ミルが暖炉や竈から回収して集めている物で、それが庭の肥料や、食器の磨き粉として使われている。
女中の命令を伝えながら、少年は秘密の言葉を織り交ぜた。
「体は大丈夫?」
小さく頷いて、ミルはこの僅かな機会にナギと何を話すべきか懸命に考えていた。
竜人の女の子―――――――――――――――
どんな女の子か、訊きたい。
少し思う。
でも今話すべきことは、他になかった?
目まぐるしく、少女は頭を回転させた。
一つ思い付いたが、確実な話ではなかったから、やや躊躇う。
でも、伝えておいた方がいい気がした。
「――――――――この場所がどこか、もしかしたら分かったかもしれないの。」
「え?」
「………地図を見たの。」
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まさかの100話越えとなってしまいました……。
ラストスパートに向けて頑張ります。
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