06
「……忠犬に、なってほしいのです」
大事な話だから、口調もつい丁寧になってしまう。
今の今まで親しげに話していた私がそんなふうに豹変しても、クロは変わらず向き合ってくれていた。
「忠犬……ですか」
「ええ」
「はい」
迷いもせずにうなずくクロの思い切りのよさが、ちょっと怖い。
しかも、続けて口にする言葉も半端ない代物だ。
「もとより私の命はなかったようなものです。これを受け入れてくれた貴女が望まれるのであれば、いかなるときでもその意に添うよう忠実な手足となりましょう」
「……クロ、あなたちょっとおませさんって言われたことない?」
かしこまった雰囲気を崩すとは思ったけれど、つい言わずにはいられなかった。
訊かないけど。ほんと何者なのこの子。
「子供らしくないとは言われました」
でしょうねー。
自覚があるかはさておき、この話になってからクロの気配が一変している。
意図して隠そうとしてたのか、環境の変化への動揺がやっと落ち着いて本来の彼に立ち戻ったのか。
まあ、それは棚上げでいいや。
「それでね、クロ。忠犬がどういうものなのかについて、私とあなたの考えを一致させておきたいの」
あなたの意見をまず教えて。そう促す。
「申し上げたとおりです。いついかなるときも主人の命に背かず、身命のすべてを賭けてお仕えするものであると考えます」
「うん、やっぱり私とは違うわね」
「ネイア様は、どうお考えですか」
ほらー。姉さま呼びじゃなくなってるしー。
いいえツッコミませんよ。今の本題はそれじゃないからね。
探るようなクロの目を受け止めて、私は笑う。
「クロは、盲導犬って知っている?」
「――は?」
遠回しになるけど、そこから入ることにした。
ちなみにそんなものがこの世界に実在してるかは確認してないから、出所は軽くごまかしておく。
「外国のお客様がお話してくれたことがあるのだけどね。犬のなかでも面倒見のいい種族は、目の見えない人を導いて歩いてくれるのですって」
「そう……ですか」
「このお店に行きたいって言ったら、専用の道具をつけて先を歩いて連れて行ってくれるのだそうよ」
「……つまり、ネイア様の先導もせよ、と」
「ん――それでね」
いぶかしげなクロには悪いけど、否定も肯定もせずに、先を続ける。
「盲導犬が引っ張ってても、人がちゃんとついていけなくて逸れちゃったりすることもあるわよね。そんなとき、そうじゃないって止めることもしてくれるそうなの」
「はい」
「私、クロにはそんなふうになってほしいわ」
「お側で導いて、間違う前に正せ、ですか?」
「ううん。私の目は見えているから、なんでもやってもらうのは違うと思うの。全部クロに選んだり任せたりするのじゃなくて、……ええと」
言葉を探して、頭のなかをひっくり返す。
前世と現世の分を足してそれなりに蓄えがあるはずの脳内辞書は、なかなか適切な表現を見つけてくれない。
というか盲導犬にからめる必要あったかな。いや話の入り口としては悪くなかったと思う。進め方がうまくなかっただけで。うん、きっとそう。
「盲導犬じゃなくて忠犬になってほしいというのは、つまり――」
「……」
辛抱強く待ってくれるクロは、もしかしたら私の言いたいことをもう分かってくれてるのかもしれない。そんな気がした。
だからこそ、私は私の言葉で彼に説明しないといけないのだと思う。
「……そうね。まず、私たちはお勉強を一緒にしましょう」
「はい」
「良いこと、悪いこと、そうでないこと、そういうのを一緒に勉強して並んで歩けるようにしましょう」
「はい」
「それで、ときどき、お願いをすると思うの」
「はい」
「それが私にとって良いことでも、やらなくちゃいけないと思って願ってるのだとクロが感じたのだとしても――クロにとってそれが悪いことだと気がついたなら、聞き入れなくていい。止めてほしいし、難しければ無視でもいいわ。もっと強い人に罰してもらうようにするのでもいい」
今のところ自分の保身やヒロインの恋愛成就とか、ごく個人的な部分以外を重要視していない私がこのまま生きていったとして――ゲーム以上の悪辣な人間になる場合だってあるのだ。
逆だとうれしいんだけど、クロ相手に変な性癖目覚めさせそうになっちゃったしねえ。
「ああ、そうだ」
私は、ぽん、と手を打ち合わせた。
ちょうどいい表現がやっと見つかったのだ。
「クロ。あなたが私のもうひとつの目になってくれたらうれしいわ」
なんだかんだ、ネイアとクロードはこんなに幼い頃から傍にいたのだ。
ゲームでは悪意を隠して従っていたけど、今のうちからやりすぎたら止めてくれってお願いしておけば、ある程度は抑えになってくれるんじゃないだろうか。
こういうやりとりを経過してあの結果なら、もうネイアに付ける薬はないということで。もちろんこっちのネイアこと私はがんばるけどね!
さあ言いたいことは言い切ったぞ、たぶん!
満足感にあふれる私は、手を合わせたままでクロの返事を待つ。
クロは言葉の途中からまたたきの回数を増やして戸惑った素振りを見せていた。私が待ちの姿勢に入ったことに気づいて、うっすら開けていた口を引き結ぶ。
眉も寄せたその表情を険しいと感じかけた私はすぐ、ちがう、と胸中で否定した。私を見るクロの目に、非難や嫌悪がなかったからだ。……ずっとそうではあったけれど、その少し前まで平坦なまなざしだったから、改めて向けてくれる感情が余計に鮮やかだった。
向けられるなかで一番大きなのは戸惑いで、その奥には他のいくつかも渦巻いているよう。
「……それは、とてもたいせつなお役目のように思えます」
「そうね。責任重大、というのだわ、たしか」
やっぱりクロは、うまく言い表せない私の要望を理解している。
だからこそ戸惑うのだろう。
「昨日お逢いしたばかりの僕に、どうしてですか」
それはあなたがあんな悪い女でも一応は手足として仕えてやってくれるような人間だから。……とは、もちろん言えない。
「そういう犬がね、ほしいの」
そこで話が発端に戻るのだ。
今のクロにそれを見出しているというより、そういうものになってほしいという私の願い。
「――、……」
笑いかける私の視線を受けて、クロは口を閉じた。
きっと年齢以上のものを持ってるだろうその思考回路でどう考えているのかは、私には分からない。
「断ってもいいのよ。でも……もし、私が何かしでかしてしまったら、弟として怒ってね」
「……、どうして、悪い人間になるようなことを言うんですか」
あ、睨まれてしまった。
なんだろう、将来極悪人になる想像をされている気がする。なるけど。でも人の命までは奪ったりしない。してないはず……よね。ゲームでも。たしか。
そんなことをしていたら、勘当追放程度じゃ終わらない。死罪だ。
そういうエスカレートをしないためのブレーキとして、クロがほしいのだから。
ゲーム展開だのヒロインだの、そんな予知めいたことを言わずに説明するにはどうしたものかな、と。私はしばらく思考をめぐらせた。
「社交界の女の戦いって、裏でいろいろやるらしいの」
「……は」
「おばさまたちが話してるのを聞くとね、それは……ちょっと男の人には言えないようなことも。ばれなければいいし、ばれても家格によってはなかったことにしてしまう、とか。人によるけれど。プライドとか、そういうの? かかってると、……やりすぎて、全部だめにしちゃったっていうのも、あったようなのよね」
「それを、ネイア様がやるかもしれないと?」
「私だって女性だもの。とっても好きな人が出来てその人を誰かと取り合うようなことになったら、もしかしたらがあるかもしれないでしょ」
「……好きな人……、ですか」
「たとえばね、たとえば」
むぅ、と、よく分かんないぞって顔してるクロは年相応っぽくてかわいかった。
そう。そうなのだ。私もクロもまだまだ子供。
多少小賢しいとはいっても、恋愛とかの情緒面は難しいよね。
かくいう私も――前世での恋愛経験は豊富とは言い難いので。はいノーコメント。
まずは第一王子様にときめくかどうかが、私の恋愛観の分水嶺になると思う。
「分かりました」
ちょっとしかめっつらしてうつむいてた顔をあげて、クロが言った。
「ネイア姉さまが嫌な女の人にならないように、僕も一緒に気をつければいいんですね」
「そんな感じ……かしら? あ、ダメ人間にもなりたくないわ」
「はい。僕もそんな姉さまは見たくないです」
思わずそんなことを言った私に応じる、クロの表情はやわらかい。
姉さま、ですって。呼び方戻してくれたのね。
なんとなくほくほくした気持ちになっていたら、席を立ったクロが私の横まで移動してきていた。
「最初のお話の『犬』は、それもこめてのものですよね。僕にはまだ難しいですけど、分かるところからがんばります。――姉さまの立派な犬になりますね!」
きゅっと手を握ってそんなこと言われたら、お姉ちゃん思わずときめいてしまうのですが。ちょろいな私。だからその笑顔が歪んだらとか思うな私。さっそく道を違えるんじゃない私。
そもそもクロは弟割合が多いんだからね!
「八割は弟でいてね?」
「半分くらい犬でいいです」
なんだか吹っ切ったような笑顔で言うクロが楽しそうすぎて、割合訂正しなければと続ける気力を失った私だった。
……犬断言する弟もかわいいだなんて、ゲームのネイアとどっちがマシな性癖だろうか。