27
帝国三日目からの日々は、少し騒がしく慌ただしく、そして荘厳に過ぎていった。
新皇帝陛下のお披露目は無事に行なわれたし、その前に乗り込んできたお父様が皇帝陛下を大音声で叱りつけるという稀有な……稀有過ぎて首ちょんぱすら脳裏に浮かぶ光景を見られたし。なんでも先の事件の後始末のこともあって、皇帝陛下とそれにかかわった各国外務責任者はツーカーの仲らしい。すごいわお父様。何をやったのお父様。それなのにクロやナナを押し付けられたのはどういうこと……
と、考えて、私は思考の方向性を改めた。
だってクロの言動とかナナの行動とか、どう考えても私に知らされていない謎の事情がありそうだもの。しかも帝国と皇帝陛下関連で。
わざわざ藪を突付く気はないけれど、うちにふたりが来たのはきっと双方で何かしらの思惑があってのことだったのだと判断させていただくことにした。
「レグルストン侯爵ほど渉外の鬼と言われるにふさわしい御仁もいませんよ」
ジーン様が、そう言って笑った。
……忙しさの合間を縫って皇帝陛下がこっそり教えてくださったことには、やはり中身がかつてのご本人でないことは陛下以外には私しか知らないらしい。
魂を引き込んだ者として事情を明かすのが誠意だ、とのこと。
魔獣王というイメージに『律儀』が加わってしまった。
そうして、帰り道は平和だった。
帝国で用意しなおしてもらった馬車は快適で、国境まで送ってくださった首都からの護衛の皆様もたいへんご立派で。そのなかでも抜きん出ていたのがこちらのディック様だったので、王弟殿下を差し置いてこっそり鼻を高くした私である。
そうして、首都へ戻る皆様を見送って国境を越えたところで、平和が崩れた。
街道を塞ぐように待つ物々しい一団が、馬車を乗り換えた私たちを発見して色めき立ったのが分かったからだ。
すわ王弟殿下、あるいは外務責任者を狙う不届き者かと、遠見から護衛へと切り替えたディック様が雄々しい背中を私たちに見せたとき、
「あー、ディック。落ち着け、あれはうちのちびっこだ」
「……は?」
馬車の屋根(なんと開閉できる仕様だ)から身を乗り出して遠眼鏡を使っていた王弟殿下が、のんきにおっしゃった。
言われてみればとうなずくディック様の声もあったので、私はお父様にお願いして馬車の窓を開けてもらう。クロとナナとともに支え合いつつ前方を見れば、集団から飛び出して駆けてくる馬が一頭、視界に飛び込んできた。
馬を操っているのはもちろん大人で――その前に腰掛けているのが、王弟殿下おっしゃるところのちびっこ様……もとい、本来ならこんなところにいらっしゃるはずのない、やんごとないご身分の王子様。
リシスフィート第一王子殿下その人であった。
「ネイア!」
「……殿下!?」
馬車の真横までやってきた王子の目線は、私より上にある。体ごとこちらを向いて――というか、馬から身を乗り出す勢いで私の名を呼んだ王子は、つづいてその腕を伸ばしてこう言った。まなざしも真っ直ぐに。
「レグルストン侯爵令嬢。私の婚約者になってほしい」
「――えっ」
唐突な出現につづく唐突な申し出に、私だけでなくクロもナナも、びっくりだ。
こちらからは見えないけれど、お父様や王弟殿下やディック様も戸惑ったお顔になられた様子が伝わってきた。
……王子はじっと私を見て、私もただ王子を見返す。
まだ庇護下にあるべき子供たちがそうしている間、大人の皆様は何も言わない。ただ見守るような視線を感じるばかり。それはクロからもナナからも。
さて、ここで勢いのままにうなずくようであれば貴族令嬢失格である。
ゲームならばともかく、ヒロインならばともかく――ここは貴族社会の成り立つ世界であり、私も王子も皆も、ここで生きている人間なのだ。
だから私は、けっして嫌悪からではありませんよという意思表示と、なによりこころからの好意を示して微笑んだ。
「私どもがお応えする前に、理由をお伺いしても?」
「もちろん」
王子も微笑んだ。
どちらからとなく、体勢をととのえに動く。
馬車を降りた私の足元に、王子が跪いた。王族としてありえざる姿勢ではあるけれど――とある作法としては正しい。
再び視線を合わせれば、王子は滔々と語りだす。
「きみが道中で拐われたと聞いて、助けに行かねばと思った。……取り戻さねば、と。実際、陛下に陳情したのだが――一臣下に対しておこなえる範囲を超えていると却下された」
まあそうでしょうな、と、お父様がしたり顔でうなずいて王弟殿下からお口をふさがれている。
「それでも、きみのもとに行きたいと思ったんだ。無体を働かれる恐れは少ないだろうと分かってはいた。だけど万が一、あの国に望まれでもしたら……我が国には勝ちの目がない。そんなことになる前に国として抗議できる立場がほしいと思った」
大陸の最北に位置する一大国家、それがかの帝国だ。
さいわいにも周辺国を下に見るような采配はないけれど、帝国の機嫌を損ねてはならないというのはおそらく各国の共通認識である。
「幸い、今回は早いうちに無事を知らされたから落ち着けた。けれど、次はない。……次など起こさせたくないんだ。ネイア。きみをどこにもやりたくない」
「お父様のようなことをおっしゃいますのね」
「お父上と同じ立場になる気はない」
「分かっております」
そうか、と、優しく細められる王子の瞳を見つめたまま、私は問う。
「……わたくし、父の後を継ぐつもりでおりますのよ。それについて、お考えをいただけて?」
「優秀な人材を捜させてもらうよ。あるいは――強力な教育機関を紹介する」
ちらりと王子の視線が向いた先は、息を呑んで私たちを凝視しているクロだった。
私も少し考えたことがある。お父様の教育内容も、それを裏付けている。
……いつか王子と話したことを、こころに呼び起こす。
そのようなふりをしようと持ちかけたあの提案に、王子からの承諾はまだなかった。
今回の申し出は、先のそれに則ってのものなのかそうでないのか――まあ、些事ではある。どちらにせよ、ここで大切なのは第一王子が私を婚約者へ望むということだ。
帝国にかかわったおかげでいささか早いし妙なドラマ感も出てしまったけれど、展開としては起こるべくして起こったものなのだと思う。
王子の言葉は受け取った。
私はそれにうなずけばいい。
だけれど、ほんの少しだけ――
「……殿下」
「ああ」
たとえば私が約束された悪の令嬢でも、あるいは約束など実は皇帝陛下との分だけだったとしても、それを横に置きたいときはある。
「ただのネイアとして、お尋ねさせていただいても?」
「どうぞ」
リシスフィート様の表情に、安堵が仄見えた。
「……そうなればきっと、わたくしは貴方様をお慕い申し上げることになると思います。……お許しいただけまして?」
ほっとしていた瞳が、ほんの少しまるくなる。
きっと分かってくださった。
私のこの言葉が、あのときの提案に添ってのものだけではないということを。
だって私は私として、リシスフィート様に出逢って語り合ったのだ。
ゲームの向こうの成長した姿ではなくて、今目の前にいる幼いこの方が国を望むと告げたあの姿を目の当たりにした。
打算含みの婚約だからといって、想いを織り込んではいけない理由があろうものか。
ふ、と、リシスフィート様がはにかむように顔をほころばせる。
私の背後には馬車があり、クロとナナがいるのだけれど、それすら忘れたかのような、こころの鎧を取り払った笑みで。
「――――ただの俺として言ってしまうけれど、ネイア」
「はい」
「俺は最初から、そうだった。……今回で自覚したんだけどね」
「……、……あら……」
まあ。
ほんのりと頬にのぼる熱を持て余す私の前に、手のひらが差し出された。
「あのとき、君がそうであればいいと思った。だから」
言葉をきったリシスフィート様のくちが、音なく動く。
そうね。
あのときの話は、私たちだけの内緒。
そうしてつむがれる、『だから』のつづきは、
――絶対継続を前提に、
「私と婚約していただけませんか。ネイア・レグルストン侯爵令嬢」
まあ。二度目。
まあまあ。三度目。かける、2。
これは、私が破顔してしまうのも仕方ないと思ってほしい。
うれしさも存分に混じっているから、大丈夫だろうけれど。
……さて、それでもやはり、私は侯爵令嬢なのだ。
そっとお父様に目を向ける。
うんうんとうなずくお父様と、ほのぼのと微笑む王弟殿下と、なぜだか一番初々しく見守ってくださるディック様を眺めたあと、私は体の前に重ねていた腕を持ち上げた。
指先から触れる手のひらに、体温が奪われる。
それは相手の緊張か、自分の紅潮か、あるいは相乗効果か。
「――よろこんで。こころから」
「……ありがとう!」
ぱぁ、と破顔したリシスフィート様は立ち上がり、私の手を両手で包み込んだあと腕を広げて――
「…………」
ちらりと王子殿下の視線を受けたお父様たちの反応は、さきほどとまったくおんなじだった。
ただし異なるのは、つづいて私の背後にもリシスフィート様の目が向けられたということ。あえて振り返らない私の背後でクロとナナがどんな反応をしたか知るのは、一行が家へ戻ってからのことになる。
ここでは――「ありがとう」とつぶやいたリシスフィート様の腕が私をやわらかく包み込む、それが結果だった。
……ところで、早々に大団円っぽい感じになっているけれど。
まだゲーム開始にかすりすらしてない事実については、いつ考えるべきだろうか。




