26
長く難しく絡み合った過去のお話も一段落すれば、私はただの客人だ。
ちょっとイレギュラーな方法で招き入れられたけれど。保護者不在のお子様だけれど。
日中には皇帝陛下についていろいろ見せていただいた私だが、夜はさすがに同伴できない。大人には大人の社交場なるものがあるのである。きわどいのとか。
おそらく明日には誰かが来ると思わせぶりな一言を置いて私を客室へ連れて行かせた皇帝陛下は、いまも面倒な人の世の政を動かしているところだろうか。
湯浴みから寝支度までととのえてくれた侍女にお礼を言って下がってもらった私は、ホットミルクを抱えて窓辺に身を寄せている。
昨夜着ていた夜着はどこぞへ葬り去られ、今まとっているのはここで用意された最上級と思われる一着だ。
我が家も外国の品に触れることは多かったけれど、ここまでのものは初めて触れた。動きに添ってするすると流れる生地はやわらかく薄く、かといって身を透けさせる心配もない。前世でいうところの高級絹のような感じがする。もちろん当時の私が手にとったわけではないけれど。イメージです。
なお、あれは宿の備品だったのですけどと伝えたら、補填はするとのことだった。
「……ん?」
令嬢としてはお行儀が悪いと知りつつも、そんな気分なので立ったままミルクを味わっていた私は、カップを窓辺に置いて目をこらした。
ぼんやりと眺めていた夜空の星が、ひとつ、位置を変えたように見えたのだ。
たぶんこの世界の宇宙観も前世と同じはずだから、もし動いたのなら流れ星だと思う。流星雨でも来るだろうかと、今度はしっかり観察することにする。
……と、体勢をととのえた私の目に、ぐんぐんとそれは迫ってきた。
最初は小さな星のようだった輝きがひとつ、またたく間に大きさを増して――いや、接近してきていて。
「……は?」
そして前言撤回。
輝いているけれど星ではなくて、というか無機物ですらなくて。
あっけにとられるうちに、とうとう輪郭が分かるくらいにまでなったそれは、誰かが誰かを掴んで飛んでいるのだと気がついた。
蒼白い月光よりも、もっと白い――ナナだ。抱えられてぶら下がっているのは、きっとクロだ。あの子色が黒いからまだシルエットだ。
「……!」
私は急いでカップを脇に避けた。つづいて窓を押し開く。
そうしている間にも接近を続けるナナをこのままにしておくと、窓を突き破るんじゃないかと思ったのだ。
けれど、さすがにナナもそこまでぶっ飛んではいなかった。
ふわ、と夜風が遠慮がちに私の肌を撫でたその直後、猛スピードで一直線にやってきた輝きが、びたり。急停止。
ぶわああ、と風が私の髪をかき上げる。夜着の袖や裾も後ろにばたばたと煽られた。
視界を乱す髪を手早くどかした私の目の前には、ナナとクロが浮いている。
ふたけたメートルの高さの階の、窓の外に。
「おまたせー!」
ナナが笑う。
「ネイア!」
クロが必死の形相で、ナナの腕から飛び降り――窓枠に足をつけたところで、「うわ……!」体勢をくずした。
「クロ!」
ナナがクロの背を押して、私はクロの腕を引っ張った。
このときはこんなこと思う余裕はなかったけど、私とナナのナイスな連携プレーによって、クロは外に落ちることなく部屋のなかに転がり込む。
しかもそのままだと私を背中から床に倒す形になるところを、ぎりぎりで抱え込んで横転まで決めてみせた。クロもなかなかのナイスプレーである。
「……クロ?」
体を横たえて数十秒。動揺で乱れた呼吸もととのった。
てっきり腕を離してくれるかと思ったクロは、今も私を強く抱きとめたままだ。それどころか、さらに拘束を強めてくるありさま。
「クロ?」
「……よかった……」
ふるり。クロから伝わる小さな震えに、そこで私も思い至った。
私はあれから皇帝陛下との話にずっと気をとられていて、向こうに残されてしまったお父様やクロ、ナナのことをすっかり思考の隅へ追いやっていたのだ。
……ない。これはない。
ここに着いてからの云々がいくら衝撃的だったからって、それはない。
頭を抱えたくなったけれど、そうするための腕もまるごとクロに捕らえられている。
「ご、ごめんなさい、クロ。心配だったわよね? ……大丈夫、怪我なんかしていないから。客人として扱っていただいたから」
「……分かってます……」
私を胸に抱えたクロの声が、吐息といっしょにつむじを揺らした。
「あの人……あの男が、いまさらそんな馬鹿げたことをやるわけないとは分かってるんです……」
けど、と、震える声は止まらない。
「いきなり連れていかれるから、消えてしまうから。悪い想像ばかりしてしまって」
「クロのほうが死にそうだったヨ」
転がったままの私とクロのうえに、ひとりぶんの体重が増えた。
えーい、とのんきに乗っかってきたのは、いつの間にか光をおさめたナナだ。輝きはもう残っていないけれど、窓からの月光がナナの白い姿をきらきらと縁取っている。
「ナナもすっごいつかれたー」
ちょうど私とクロの間にめり込む位置に乗るナナは、クロの腕に額を押し付けてぐりぐりと左右に振っている。
こういう行動はナナの通常運転だけど、たしかにあんまり力が入っていないようだ。
あんなスピードで飛んできたならそれもそう……とふつうに考えかけた私の思考は、かろうじて己の常識を揺り起こした。
「ナナ? あの、あなた、今飛んできた?」
ぐりぐりを止めたナナが私を見て「ん」と笑う。
「飛んだヨー。この国だと出来るコト増えるからね。でもこんな長いキョリかっ飛ばすのは疲れた!」
「……悪い、ナナ。でも、」
「いーよクロ。いーんだよ」
微動だにせず、それでも苦い声で謝ろうとしたクロの言葉をナナはさえぎった。
「ナナも追いかけたかったからネ! クロが応援してくれてがんばれた!」
それにネイアとまた逢えたから、疲れなんて忘れちゃうよ。
なんて、かわいいことを言ってくれるうちの鳥。
横には相変わらず私を離さないうちの犬。
私はきっと、ベッドよりもホットミルクよりも、この温度がほしかったのだ。
「……うん」
つぶやいてクロの胸に頭を擦り寄せると、ナナにも頬ずり出来る形になった。
「あなたたちが来てくれて、私も、とってもうれしいわ……」
「ナナもうれしいよ」
「僕もです」
クロの声から苦さが消えて、腕から震えとちからが抜けた。
失礼いたしましたと真剣な謝罪を繰り出すクロをなだめながら、身を起こす。ふたりで向かい合う真ん中にぺたんと腰を下ろすのは、先に私たちの上からどいていたナナだ。
誰からとなく動かした手は、ちょうど中央で重なった。
ふにゃ、と気の抜けた笑みを交わしたあと――ふと。とあることに気がつく私。
「……ところで、お父様と王弟殿下たちは……?」
「置いてきた」
ナナが笑顔で言い切った。
「えっ」
「大丈夫です、許可はいただきました……!」
あわててフォローにかかるクロ。
いつもどおりのふたりだわ。
「運べるのクロだけでいっぱいだからネ。旦那サマたちは、馬でがんばって来るって言ってたヨ」
「強行軍をとられるそうなので、当初の予定よりはお早くなると伺っております」
「なるほど……?」
旅に不慣れな子供たちがいなくなって大人たちだけとなれば、やりようもいろいろあるということか。
「旦那サマむっちゃ怒っテたヨ」
「そうなの?」
「そうです! 娘が拐われたのですよ。親として当然のことです」
「……そう……なんだか想像できないわ……」
なにしろお父様、私には基本的にとてもとっても甘いから。
ゲームのネイアがちょっとアレなの、いささかはお父様にも責任があると思う。私もうっかり貴族メーターが悪いほうに振れないよう、自制していかなければ。
「……!」
誓いを新たにする私のかたわらで、クロとナナが表情を変えた。
険しい視線を扉へ向ける。
追って同じ方向を見れば、いつの間にか廊下につながるそれが開かれていた。
足場が見える程度の灯りを背に佇むのは、ひとりの女性。
……ジーン様だ。
扉を開けるまでクロとナナが気づかなかったなんてて、この人ももしかしてそういう役目を兼ねている……?
私の戸惑い、そしてクロとナナの警戒を受けたジーン様は昼間よりもラフながらもまだ勤めの途中であるといった風貌で、にこりとこちらに微笑んでみせた。
「レディのお部屋へ夜分恐れ入ります。予定外の来客の報せを受けましたので、確認のため私が参りました」
「あ! それは、この子たちは……!」
すわ不法侵入者疑惑かと、いや真実だけど、とにかく急いでふたりの頭を床へ叩きつけようとした私の手は不発に終わった。
まったく抵抗しないクロとナナではなく、ジーン様が手のひらをこちらへ向けたおかげだ。おやめなさい、という意思表示。
「ご安心ください。接近時点で把握しておりましたので警備にも周知済みです。ようこそ、小さなお客様。客室もご用意できますが――」
「ナナはネイアと寝る!」
「えっ」
にこやかな提案の途中ですかさず挙手したナナを見るクロは、信じられない生き物を発見したらこうなるだろうという目をしていた。
けれど、そんなクロを振り返るナナもまた、驚いた顔になっている。
「クロはネイアと離れていいの?」
「……や、嫌だけど……!」
「じゃあ今日はトクベツにしよーよ。ネイアもいいよね?」
「……、そうね。みんなで一緒に寝るの、楽しそう」
「あら。仲良しですね」
あっさりうなずいた貴族令嬢が意外だったらしいジーン様が、少し声を跳ねさせた。
ネイアというか私としては、こんな子供なのだからと気軽に了承したけれど、実は雑魚寝なんて、転生してこっち、やったことがない。
貴族だからということももちろんとして、男女の分離が前世よりはっきりしているところが多いのだ。
我が家が援助している孤児院も、そう。数人でまとまって寝るようにはなっていても、男子部屋と女子部屋は明確に分けられている。もし消灯後異性の部屋に向かったが最後、きつめのお仕置きが待っているはずだ。
だからいつもの私なら、みんなで寝ようなんて思いつきもしなかっただろう。
けれど、昨日今日、いつも一緒の犬と鳥から引き離された私はやっぱり寂しかったのだ。
いろいろと衝撃のお話も聞いて、精神的にも疲れたし。
大好きな体温が傍にあるのを実感したい――いいじゃない、子供なのだもの。
知らなかったけれど、帝国はそのあたり寛容なのかもしれない。
ジーン様はすぐに破顔して、クロとナナの寝間着も手配すると言ってくれた。湯浴みの準備もしますからと。
「クロいっしょにはいろー」
「そうだな。時間が短縮できるし」
すぐに戻ります! とちからいっぱい宣言するクロの背を押すナナ。
浴室へと並んで向かうふたりの背中を見送った私は、なんとなく――とても久しぶりの気分で、深い呼吸を数度繰り返してみたのだった。
「ああ、そういえばもうひとつお知らせがございまして」
「なんでしょうか?」
クロとナナのお腹が空いているだろうと、ふたりが戻る前に食事まで持ってきてくださったジーン様がおっしゃった。
「お嬢様のお父様がたも明日には到着すると、さきほど皇帝陛下より伺いました。お出迎えの準備も進めておりますよ」
「…………明日?」
「はい、明日です」
……予定では、昨夜滞在した国境の街からこの首都まで四日かかる見込みだったはずなのだけれど……
むっちゃ怒ってるって、そういうことなのかしら。
なんて考えたせいだろうか。
クロとナナに囲まれて眠ったその晩、私は白く大きな鳥のような姿になったナナの背に一家全員で乗り込んで大空を旅する夢を見た。




