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皇帝陛下の朝議を控室で待ち、担当各位との折衝を執務室で聞き流し、魔導研究所を覗かせてもらい、騎士団の訓練までも間近に観覧させていただき、そうやってついてまわるうちにも私と皇帝陛下はいくつかの質疑応答を交わした。
――昼食を待つひとときの休息時間を過ごすここは、皇城の中庭である。
ジーン様や文官の方などが入れ代わり立ち代わり持ってくる書類を眺めては決済しあるいは却下し、見せてもよさそうなものなら見せてもくれる皇帝陛下の忙しさとは真反対の私は、とくにすることがない。
おそらく、情報を整理する時間を与えていただいたのだろうと思う。
護衛の方もわざわざ距離を置いて配置してくださっている。これについては、私と皇帝陛下の会話が聞かれないようにという配慮もありそうだ。
外で飲むためだからと木のカップに注がれた庶民の味っぽいしぼりたて果汁(ジーン女史による毒味済み)を味わいながら、今度こそ思考に全振りする私である。
……皇帝陛下は語った。
前皇帝のおかしな行動は、7年前に始まった。
きっかけと思わしきものはある日の朝議だったという。
いつものように意見を聞き交わしていた前皇帝が、こぼれ落ちるほどに目を見開いて気絶した。
当然のように医療室へ運ばれて安静に寝かされた前皇帝は、数日を眠り続けて覚醒する。ちなみに国政自体は優秀な部下のおかげで滞ることはなかったそうだ。
体に毒や外傷の気配もなく、重々の警戒を怠らぬようとして前皇帝は再び通常の生活へ戻ることになった。
けれどそこから、変貌は始まっていたという。
泰然としていた佇まいにはなにかに怯える素振りが混じり、
万物を静かに見つめていたまなざしには動揺と戸惑いと好奇心が踊り、
たしかに愛し合っていた正妃のもとへ赴くことが――昼のそれは取り繕い、夜は足を向けることすら――なくなり、
周囲の者が聞き慣れぬ言葉を、小声でつぶやくことが多くなった。
『おとめげーじゃない』『やりなおせないの?』『あんいんすとーるとかできないの?』
――など、など。
国政なんて上の空、外政においては外交官へありえぬ失態を犯す始末。
顔立ちの整った外交官を見て、キャー! とか言ったんだそうだ。
……ここまで聞いて、私にも事態が掴めかけた。掴みたくない気がした。
前皇帝はおかしくなったと誰もが悟った。
それとなく退位を促すも、なぜかそれにはうなずかない。
このころにはおかしなことを言う頻度が増えてきた。その内容も過激になってきた。
『せっかくの権力なのに』『何かに使えないの』『ハーレムのひとつくらいあったっていいじゃない』
……いい歳のおじさまがそれを言うのだ。
どれだけ奇っ怪だったことだろうか。
だけど時折――ほんとうに時折。
すべてに懺悔するように、聖堂で祈る前皇帝の震える背中があったという。
このときばかりは振る舞いも瞳もなにもかも、周囲の者たちが慕った彼のままだった。
そしていつしか、それもなくなった。
詳しくは聞かせてもらえないけれど、そうなった前皇帝はもう手のつけられない暗愚と化していたという。
現実味のない政策を、他国への威嚇行為としか思えない魔導具の開発を、臣民の生活を考えない課税案を取り繕いきれないそれらしい口調で言い渡す。担当の皆さんが上下のやりとりにどれだけ苦心したか、前世政治に携わらず現世子供の私でも想像できる。
……前皇帝に起こった事態は、だから、そういうことなのだ。
最高権力をもってしても何も叶わないことに苛立ちを募らせた前皇帝は、とうとう異世界への扉を開く魔導具を開発せよと言い出した。
……逃げたかったのか、捨てたかったのか。
出来るわけがない。
世界と世界の隔たりをくぐり抜けるようなものなど、世界の外の存在でなければ無理だ。
まっとうなはずの説明を、けれど前皇帝は受け入れない。
それどころか、自身に未だ従う一部の者の武力をもって、強行させようとまでしたという。
誰もが彼を見限っていれば、ここまでのことは起こらなかった。
けれどこうなってしまった皇帝だからこそ、利用できると考える不埒者が出てきてしまっていた。
変調した前皇帝が気に入る態度、よろこぶ贈りもの、慰めとなる奴隷。それらをひそかに献上して取り入りを果たした不埒者は、ここぞとばかりに決起したのだ。
魔導研究所を脅すためだけに前皇帝が望んだ武力が皇城を包囲するものだと知った皇太子は、ここでようやく、憧れ仰いだ父が完全に歪められてしまったのだと――命を捨てさせることなく救うことを、諦めた。
「……」
私は、ちらりとお隣の皇帝陛下を見上げる。
視線に気づいた皇帝陛下は、「ん?」と目を細めた。……染まったのだという、血塗れの色を。
「どうしようもなかったのでしょうか」
つぶやいた私の言葉の意味を、皇帝陛下は正確に察して微笑んだ。
「どうしようもなかったのだろうよ」
――他人事のように、おっしゃる。
不埒な武力に皇城を包囲させるような真似を起こされてしまえば、国そのものが揺らぐ。対抗できるだけの数は皇太子側も揃えられるが、ことが公になって招く事態はどちらも同じだ。
皇太子は、その前にすべてを一人で終わらせると決意した。
そのために――ちからを求めた。
伝説にある、魔獣王。
創世主に歯向かってなお完全に消滅させられることなく、聖獣のちからをもってやっと七つに分かたれ封印されたという、おそらくこの世界最大の暴力を。
自らのすべてを代償に。
……父への憧れも尊敬も、母への敬愛も、家族への親愛も。
国を思う真心も、未来を願う祈りも、すべて。
皇太子が生まれて得たあらゆるものが、魔獣王に捧げられた。
皇太子が次に生まれる未来さえも、魂を貢ぐことで失われた。
……お隣の皇帝陛下は、語られた。
「あれを手にかけるときだけは、奴にやらせた」
……それが望みだったそうだ。
そうして皇太子の望み通りすべてを終わらせた魔獣王は――彼のすべてを受け継いだ、彼であった肉体に宿るその存在は。
憧れと尊敬と敬愛と親愛と真心と祈り。それらを抱いて、起つことにした。
代償として捧げられたものを、無碍に扱うつもりはなかったのだそう。
……人がお嫌いではないのかと尋ねたら、笑われた。
「封印された身の上を歩き回る蟻どもを我慢するような真似、嫌いだったら出来ると思うか?」
……聞いた私がガクガク震えたら、さらに笑われた。
……そうして、もう少し、これには続きがある。
前皇帝だった人が命を断たれた直後のこと。
輪廻に向かうべく身からこぼれた魂に――もうひとつ、絡みついていたそうだ。
……おかげでさらにガクガクさせていただいた。
魂に触れて読み取れた部分以外は予測だが、と語る現皇帝陛下曰く。
前皇帝陛下その人の魂に絡みついたそれは別人の魂で、生誕したときからその状態だったのだろうと。
絡みついたそれを読み取ったところ、私の前世と同じ世界から来たのだと分かったという。ついでに、どういった経緯でこうなってしまったのかも。
取り繕うのも意味がないので言ってしまうが。
異世界転生からのヒロイン人生を望んで自ら命を断った誰か、だったらしい。
……ガクガクにブルブルが増えた。
本来の輪廻なら魂はその人生において生じた経験疲弊その他諸々を癒してから次の生に向かうそうだ。そのために、寄り合い所的なものがある。
ただ、次の転生への望みがあまりに強かった誰かの魂は、いちばん近くにいていちばん早く転生に進むところだった前皇帝陛下の魂に便乗しようとくっついてしまったらしい。
それが変なふうに絡み合って、前皇帝陛下が充分に生き、魂に疲弊が出始めたころ、それまで眠っていた誰かの魂が元気に起きて宿主を乗っ取って……忌まわしい事件が起きたのだ。
「……えげつなさすぎますね……」
「そもそも、転生がそう望みどおりになるものか。性別も生まれも時間さえも、都度砂浜の粒を無作為に選ぶようなものだ」
そう語る現皇帝陛下の言葉の内容は、きっとふつうの人間ならば与り知らぬ代物なのだろう。
魔獣王という存在にどう接するべきか……は、今は考えなくてもよさそうだ。
この方は帝国の皇帝陛下として私に接してくださっている。明かすことが壮大に過ぎるだけで。
「まあ、それでな。――他の世界の意味不明な言葉が分からないままというのは、こう、小竜の小骨が刺さったような感じでな」
手にしていた書類を揃えてまとめながら、皇帝陛下がおっしゃる。
小竜……食べたことあるんだ……たしか人間を二人ほど乗せて飛べる大きさのあれを……
「そなたの世界の魂たちが在るあたりで、転生しそうな魂を掴んだらそなただったというわけだ」
そうですか、とわりと諦め気味にうなずきかけて、ふと疑問が浮かんだ。
「……わたくしの歳と、事件と、計算が合わないのでは?」
「あまり待つのも好きではないから、少し過去へ飛ばした」
念のためにしっかりマーキングしておいたぞ。そう皇帝陛下は笑う。
「さようですか……」
もうなんでもありですね異世界。いや、魔獣王様単体の特性かも。
「飛ばしてすぐに探ったらハルツハイムに反応があったからな、身元特定して機会を待った。侯爵家と縁が出来たのは偶然だ。後始末では周辺国の、とくに外務関係者にたいそう迷惑をかけたよ」
「それももう、終わられるのですよね?」
そうだ、と首肯が返される。
「このたびの公開即位式をもって、ようやく一息だ。人の世はほんとうに面倒だな」
その面倒ごとを負ってくださるほどには、魔獣王は人を好いているらしい。




