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静かだった深夜の宿は、一転して大騒動の坩堝と化した。
不備なく任務をこなしていたはずの警備が侵入者を見逃したこと。
それに伴う物音や叫び声に、宿の誰も気づかなかったこと。
主は贖いとして己の首を差し出しそうな勢いで謝罪を繰り返しているし、それを受ける被害者――レグルストン侯爵ならびに王弟も、すぐ隣の部屋で起きていた異常事態に気づかなかったことで自責の念に駆られるばかり。
そして一番落ち込んでいるのは、騎士ディックだ。
道中の護衛を兼ねた彼はたしかに宿の中にあっては専門の彼らに一歩譲らなければならないが、それでも主たる王弟とその同行者の安全は自身の何に代えても守るべきものなのだから。
かといって、いつまでも失態を振り返るばかりではいられない。
すべてが終わったあとで現場に到着した大人たちは、情報を共有しあったあとしばらくして、まとわりつく自己嫌悪を振り払った。
意を決して、立ち尽くしていた廊下から室内へと足を踏み入れる。
そこでは、大人たちがいない間にも奮闘していた子供たちが、必死になって窓辺で争っていた。
具体的に言うと、窓から飛び出そうとしているクロをナナとミアーナがふたりがかりで引き止めている。
「ダメだってバ! 落ち着いテ――――!」
「放せナナ! ネイアが攫われたのに!」
「いけませんクロさん! 私もなにがなんだか分かりませんがクロさんがここで飛び出しては迷子が増えるだけなのは分かります!」
「ですが! こうしている間にも!」
「ダイジョーぶ! だいじょぶ! 跳んだ先分かっテル!!」
「えっ」
ナナの爆弾発言に、窓枠を掴んでいたクロの手から力が抜けた。
そしてナナとミアーナは、まだクロを引っ張ろうとする力を抜いていなかった。
すってんころりん蕪が抜けたよ。
背中から落ちるミアーナの下に、すかさずナナが潜り込む。ぐえっと短いうめき声を上げた白い鳥は、見事女性を守り抜いた。
床につっぷすナナの目の前に、ずどん、と少年サイズのつま先が落とされる。
「どこに跳んだって?」
「クロこわい」
「どこだって?」
子供たちのすったもんだに圧されていた大人たちも、そこは気になるところだった。王弟殿下と騎士も、クロの後ろあたりまで近づいて片膝をつく。
そうして自分を覗き込む視線が増えても、ナナは気にしない。ひっくり返ったまま動けないミアーナを背に乗っけた状態で、近くの少年と大人、ちょっと遠くの大人を見渡した。
くるりとめぐった視線は、ちょっと遠くの大人――レグルストン侯爵のもとで止まる。
「旦那サマ、あわててないね」
「うーん、こんなことする心当たりは一人しかいないからねえ」
「あの不審者をご存知なのですか!?」
のんびり構えた侯爵の返答が完全に終わらないうちから、クロが声を荒らげた。
ハッと気づいて主人への無礼に青ざめるも、された側は気にするなと手を軽く挙げてみせる。
一人娘が誘拐されていながら悠然としているのには、それなりの理由がある。
その一端を、彼は告げた。
「転移の魔導具は開発元の帝国以外には門外不出の代物でね。さらに所有できる者は限られている。その上で警備をくぐり抜けた挙げ句、この部屋以外の誰にも悟られないよう動けるような方といえば――」
侯爵が告げたその名前に、クロが表情を失った。ナナが、あちゃーと言いながら床にキスした。ミアーナが弾みで横に転げた。王弟殿下が額を押さえて、騎士が一同の惨状に目を白黒させている。
つまりこの事態は防衛しようがなかったんだから仕方がないと廊下に伏し続ける宿の主人に声をかけてやったあと、侯爵は懐かしさと騒動の疲れがにじむ表情でつぶやいた。
「あの方は、そういうこと仕掛けるのがお好きな気質なんだよねえ……」
あの方――
ロルツィング帝国第172代皇帝、クリストフェル・ロア・ロルツィング。
たった数分前、この宿から侯爵のかわいい一人娘を拉致しやがった実行犯である。
ミシリ、と侯爵の足元が軋んだことに気づいたのは、背後にいた宿の主人だけだった。




