20
……時間を半日ほどさかのぼる。
ハルツハイム王都を出発した私たち含む王弟殿下一行が、三日かけて帝国との国境にある宿場町に到着し、一息ついた夜のこと。
「お待たせしました。もうこのあたりから夜は冷えるとのことなので、毛布を借りられるように手配しました。あとでお配りします」
「ナナはクロの手伝いするよ。毛布かつげばいいかな」
「うん、頼む」
「皆様のお洋服乾きましたよ! お手入れが必要な分以外は私たちのところにまとめておりますので、食後にでもお持ちください!」
宿に入って早々駆け回ったクロ、ナナ、ミアーナが食堂へやってきた。
旅の途中で宿泊するとき、所用は彼らに頼んでばかりだ。簡単な身の回りのことは出来るようにしてきたけれど、専門である皆にはまだかなわない。あ、ナナはお手伝い要員である。私もやろうとしたけどお嬢様はあっち、って部屋に戻されるのだ。
前世の庶民技術だって持ってるのに、発揮する機会がなかなかない。
「ミアーナ、つくろいくらいなら出来るから手伝っていい?」
「ちょっとだけですよ?」
「ええ」
こっそり語り合う女性ふたりを、男性陣が仕方ないなって笑って見ている。
クロたちが席に落ち着いたところで、お父様が声をかけた。
「三人ともありがとう。おつかれさま」
「僕たちの世話までしてもらって、すまないね。助かるよ」
「ありがとうございます」
つづけておっしゃるのは、王弟殿下とお付きの騎士様だ。
王弟殿下の名前は、カートゥス・ハルツハイム。
薄い色の金髪を後ろに撫でつけていて、眼鏡の向こうの目元は優しげ。顎のちょび髭はおしゃれなんだそう。
熟練騎士の名前は、ディック・ディー。
短く刈った藍色の髪にやわらかな月の色の瞳。目つきは鋭いほう。
武術全般に秀でていて、戦闘系魔導具の扱いにも一家言おけるというまさにベテランである。今は宿なので、鎧ではなくシャツ姿。
そんなお二方とお父様の関係は、同年代かつ同期の桜だそうだ。
大人たちのやりとりがフランクだから、私たちも気後れしすぎることなくお話をさせていただいている。
会話するうちに、注文した食事が運ばれてきた。
家で食べるときと違って、貴族的なマナーを使わなくていいのが楽だ。逆にクロが戸惑っていたけれど、すぐに慣れていた。
お父様たちは仕事の関係上と、若いころのあれこれで大衆の食事にも慣れているのだそう。
むしろ最初に街の食堂に入ったとき、いちばん心配されたのは私だった。前世仕草で、すぐに大丈夫って分かってもらったけど。お父様をちょっと驚かせられたから、うれしい。
大皿のものを取り分けたり、おいしいものはおすそ分けしたり。
和気あいあいと食事の時間が終われば、少し休んで入浴の時間。
ここまで来るとミアーナの仕事もほとんどなくなって、髪を洗ってもらうくらいになる。……自分で洗うよりすっきりするのだもの。いいじゃない。
いつものお礼に、と、私も髪を洗わせてもらった。気持ちいいですって言ってくれたから、素直によろこんでおく。素人芸なのは自覚してるから。
入浴のあとで楽な衣服に着替えたら、クロとナナが部屋にやってくる。
ミアーナも混じえて今日の道中の感想やら、これからの道程やら、気ままに話して時間を過ごすのだ。
ちなみにナナはその間、私の髪を乾かして梳かす仕事を請け負っている。
実家でも、気づいたらナナの仕事になってたのだ。本人曰く、クロほど執事っぽく出来ないけど、これなら自信があるよ! と。
実際、とても上手だ。
長年担ってくれていたミアーナは経験と年季の入りが違うのだが、ナナにはそれに匹敵する何かとさらに上回る何かがある。正体不明のゴッドハンドのようなものだ。私はすっかり虜になった。お試しを受けたミアーナも以下同文。
「クロもやったげようか?」
「自分でやるから」
手をわきわきさせるナナをお断りするクロの姿は、この三日での風物詩だ。
一度やらせたら、クロのそう長くもない髪をどうやってだか、大量のちいさなみつあみに仕立て上げてしまったのだ。笑うしかない。
私たちに施してくれるのは、たとえばみつあみならゆるすぎずきつすぎず。就寝前だとゆるく流す程よい甘さ。なので、ナナとしてはクロにじゃれてるつもりなのだろう。訓練も一緒に組んでやることが多いし、ふたりはほんとうに仲良しだ。
子供たちがそうしている間、お父様たちは――たぶん、いろいろ嗜んでいらっしゃるのだろう。大人の世界というやつだ。
そして夜が更ければ、就寝時間がやってくる。
部屋は私とミアーナで一室、クロとナナで一室、お父様たちで一室。意外にも人口密度が高いのが大人部屋なのだった。
クロとナナともいっしょでいいですと言ってみたけれど、男子と女子は別室、とすげなく却下されてしまったのである。……夜のお話会などしてみたかった。
翌朝の出発も午前中の早いうちなので、ふだんよりも早めにベッドへ入る。
ミアーナとお休みの挨拶をしあって目を閉じれば、寝付きのいい私はちょっとした夢など見るかしたあとで朝に目覚める――はずだった。
「……?」
ちりちりと。
こころの内側をひっかくようななにかに急かされた気がして、私の意識は浮上した。
枕元の魔導具時計をたしかめれば、眠ってから三時間が経っていた。ちょうど眠りが浅いタイミングで、変な夢でも見ただろうか。……覚えていないけど。
時計へ伸ばしていた腕を毛布に戻せば、あたたまっていた体温が逃げていたことに気づく。
「……」
腕を体にくっつけながら、目を閉じる。もちろんまだまだ眠いのだ。
ミアーナの寝息を耳に再び眠りの世界へ向かおうとしたとき、すぅ、と、夜風が部屋に入り込んだ。
せっかく閉じてた目を再び開けて、窓を見る。
「……あれ?」
そんな気はしていたけど、窓が開いていた。なぜか――なぜか、だ。
ミアーナが鍵を閉めるのを、私はたしかに見たはずだった。
「……え」
そんな気はまったくしていなかった光景が、私の視界に飛び込んできた。
窓に出来た隙間の横、壁との境目に人影があった。すわ幽霊かと身を震わせて、いやそれならそれでと目を凝らす。
生身っぽい。
なーんだ。
じゃない。
なんでだ!?
この宿はたしかに高級なものとは言い難いけれど、お父様が何度か利用したこともあるくらいには信用がおけるところだと聞いていた。
警備ももちろん置かれている。
客に圧迫感を与えないように配慮されているとはいえ、易々と侵入者を許すような体制ではないはずだ。
「ミ、」
ぱくりと開いた口に、ぱふりと手のひらがかぶせられた。
自分でやるわけがない。ミアーナのものじゃない。大きさも皮膚の硬さもぜんぜん違う、男性のものだ。
……たった一呼吸の間に窓辺から離れた人影が、私に肉薄していた。
窓からの月光を背にした推定彼の風貌はほとんどが影になってしまって、よく分からない。
「……っ!?」
ふわり、やわらかなものが頬をくすぐった。
くしゃり、お互いの髪が触れ合った。
「すまんな」
やわらかな声が耳を打った。
不審者のくせにどういうつもりなのだ。こんなことしたって印象は変わらないというのだ。
身をこわばらせる私がおかしいのか、くく、と喉を鳴らす音のあと、言葉がつづく。
「やっと来てくれたかと思うと、気が急いた」
「……え?」
どういうこと。なんのこと。
この人、帝国の関係者?
帝国に行くのが初めての私に、やっとも何もないのでは?
そういう話ならお父様か王弟殿下かクロかナナあたりが妥当なのでは――
まだうまく動かない両手を気力で持ち上げた私は、自分の口を塞ぐ手のひらをどけようとした。
「あの……っ」
「お嬢様!」
私の口が自由になるより先に、ミアーナの声が響いた。
その拍子に、思うようにならなかった体のちからも戻ってくる。
「……っ!」
手のひらをどける。
ミアーナを振り返る。
「ミアーナ! 逃げ……っ」
「ネイア!」
「あー!」
要請しようとした矢先、部屋のドアが開け放たれた。
隣の部屋で休んでいたクロとナナが、なんとお父様がたよりも早く駆けつけてくれたのだ。
「――!?」
戸口で一瞬硬直したクロが、鬼気迫る形相で床を蹴った。より近い位置にあるミアーナのベッドを回り込むこともなく、飛び越えて私が眠っていた――今は不審者にくっつかれているこちらのベッドへとやってくる。
が、私に伸ばしてくれたクロの手は空振った。
「はは、息災でなにより。――が、今は別件だ」
軽やかに告げる不審者が私の体を抱いて、窓のほうへと後退したせいだ。子供とはいえ人間一人抱いて、まるで鳥のような身軽さで。
侯爵家の財力を生かしてもうちょっと小太りになっておけばよかったかな!?
わけの分からないことを考える私の視界の端に、今度は白い姿が映る。クロが見せたような急襲ではないけれど、こちらも目を疑うような素早さで窓辺に――いや、不審者の後方にすら回り込んでみせたのはナナだ。
ナナはいつもの笑顔を隠して、キッ、と不審者を睨みつけた。
虹色の瞳が、ひどく剣呑に輝いている。
「ダメだよ、クロや旦那サマが怒るヨ!」
「ナナ!」
「承知の上だ」
「承知でもダメだよ!」
「ナナ! 挟み撃ちにするぞ!」
名前を呼ぶことしか出来ない私と違って、ナナとクロは素早く事態に対処する。
窓から出るにはナナを、扉から出るにはクロを退けなければいけない位置をとり――おそらくふたりのいない方向に抜けようとしても、どちらかが阻害してどちらかがそこからの退路を塞ぐだろう。
けれど、ふたりはそれ以上強行出来ない。
私が不審者の腕のなかにいるからだ。人質ともいう。
隙を突けばとも思うが、ド素人の私ですら分かる。この不審者、振る舞いにほころびのようなものがないのだ。
数秒のうちにぐるりぐるりと状況が変わる。
私も、そしてミアーナも、おそらくついていけていない。
……く、と、間近で喉の鳴る音がした。
不審者が動く。
私を抱いていないほうの腕を持ち上げて、手のひらからなにか――小さな粒のようなものを地面に落とした。
……さっきと同じ場所から、小さな声で歌のようなものがつむがれる。
パ、と、不審者の足元で何かが踊りだした。――影?
踊ったと見えたそれは、あっという間に何かの紋様を形作っていく。
「あー!」
虹色に紋様を映したナナが、声を張り上げた。
クロが、声に混じる危機感を悟って膠着状態をやぶった。紋様を乗り越えて私と不審者のほうへ、
「ダメ!」
「ぐ、……っ!?」
その襟首をナナが掴む。
まさかの妨害を受けたクロが抗議しようと口を開きかけたけれど、ナナが怒鳴るほうが早かった。
「指定されてナイの混じるト、事故ル!!」
そうしてクロも、瞬時に意味を察した。目を見開いて、私たちを振り返る。
ナナが不審者へ叫んだ。
「ドコに翔ぶ気!!」
不審者は、あっさりと問いに答えた。
「もちろん、俺の庭だ。――おまえたちも到着したらちゃんと出迎えてやるから、気をつけて来い」
は?
私とクロ、そして位置の都合で見えないけれどミアーナも、不審者の親切な言いように一瞬状況を忘れてしまった。
「じゃあな」
「えっ、わっ」
不審者がひらりと手を振った、それがたぶん合図。
紋様を刻んでいた影が大きくうねりながら持ち上がり――私ごと、不審者を飲み込んで。
……またたきをひとつするかのうちに、周りの光景は一変していた。
消灯した夜の部屋の闇に慣れた目が悲鳴をあげたので、思わず閉じる。十秒ほど瞳を守るうちに、まぶた越しの光にも少しずつ馴染んできた。
もう大丈夫と判断して、私はまぶたを持ち上げた。
「……」
部屋だった。もちろん、宿の部屋ではない。誰かの居室だ。
夜だというのに惜しげもなく点けられた灯りが、昼間のように照らし出している。
広い。まずそう思った。
豪華。次にそう驚いた。
派手……というのではない。品の良い調度品がひとつひとつ調和とともに存在し、それらがこの部屋の主の格を示しているかのよう。
……主。
それはつまり、
「きゃあ!」
あっ、きゃあとか言えてしまった。
「ん。もういいか」
「おおおお下ろしていただけませんこと!!?」
なんか浮遊感があるなとは思っていた! 体が動かしにくいなとも!
まさかまだ不審者の腕のなかだったとは! すっかり忘れていました!
とうの不審者は、あわてふためくこちらを見下ろすばかり。下ろしてほしいと要請をかけながら顔を向けた私は、ばたつかせようとしていた足や、あわよくばどついてやろうと持ち上げかけていた腕を止めた。
止めてしまうだけのものが、いや、人が、そこにいた。
「……クロード……?」
ゲーム画面の向こうに見た姿そのものの、彼が。
「――」
違う。すぐに認識を改める。
彼の瞳は、琥珀だ。
今、きゅうと細められたそれは――黒血と鮮血が混ざり合う不可解な色合いに、驚愕する私を映していた。




