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ロルツィング帝国――
大陸の最北端に最大の国家面積を保持する、事実上の最強国家。
国の頂点には皇帝が坐し、以下多種の職能を持つ臣下たちが顔を並べる。登用は基本的に実力主義。家柄ゆえの教育の有利はあるので、きちんと学んで精進した子女であれば無碍に扱われることもない。
夏は涼しく冬は凍える。
そんな土地特性に適した作物や栽培方法を確立するのも早かった。気候に手を出すほど大掛かりではないものの、種を掛け合わせて強く根付くものを作り上げたり、寒さよけの温室をこしらえたり。
大規模な天候異常が起こらないかぎり、帝国の食糧事情が窮することはないと言われている。起こったとしても、貯蓄で数年はしのげるだろうとも。
魔術の発展、魔導具の大規模化、汎用化にも大きく貢献してくれている。
それらの技術を惜しみなく周辺国へもたらしてくれるおかげで、大陸の国家は帝国にまず頭が上がらない。
武力面でもそれは同じ。
国が豊かであれば民は満ち、余裕を持って強化を行える。そのいい例だ。
北の地は魔獣の発生が他より多く、戦力が暇を持て余すこともないらしい。各集落に中規模以上の隊が交代制で常駐しているとか。
そんな帝国が大陸統一を目指せば叶うだろうというのは、大多数に共通した認識だ。
実際、数世代前までは周辺に散布していた小国を併合したこともあったらしい。けれど、以降、版図を広げようとする動きはない。
目の届く限界を知っているということだろう。
帝国にかかわる最新の話題は、いくつかある。
平和なところで、魔導具の大規模化による恩恵のひとつ――地熱を用いた居住地の温暖化の実用実験。畑などは除外して作動する。もともとの気候に適した作物を殺すようなことはない、限定運用だ。
温度差で風邪をひかないように注意、とお触れもまわったとのこと。意外にかわいらしい。
物騒なところで――前皇帝が穏やかならぬ野心を抱いていたことの発覚ならび、現皇帝による前皇帝一派の粛清。
お父様も巻き添えになった数年間の国政混乱は、これが原因だ。
野心の内容については様々に噂や推測が飛び交っているけれど、上層部は否定も肯定も、真相を明かすこともしていない。ただ――それが叶えば大陸全土を巻き込む愚行を犯すことになっていた、とだけ報じたのだそう。
それはつまり、現皇帝は無実の皇帝を弑したのかもしれないという疑いが一生消えないということ。
そのうえで即位を果たした彼を――帝国の民の多くは認めて受け入れた。
……だからこそ、今、私の目の前にこの光景がある。
首都を護るための防衛式魔導具が惜しげもなく注ぎ込まれた重厚な外壁の内部は、壁外の寒さが嘘のように小春日和じみていた。
この位置から眺めてみれば、各施設や住宅街が秩序立った都市計画に基づいて整備されているのだろうということが分かる。素人目線ではあるけれど、たとえば一戸建ての家事動線がすごく綺麗な間取りとか、そんな印象を受けるのだ。
実際に歩きまわってみたら実感できそうなのだが、今のところ、それを許してもらえる状況ではなかった。
なにしろ、私がいる場所が場所だ。
……考えてみて欲しい。
首都の内部にあって首都を一望できるような場所なぞ、限られている。
というか、ここほど適した場所は他にない。
ロルツィング帝国首都グインツェン。
その皇城のテラスから、私はこの街並みを眺めていた。
手すりにやってきた小鳥さんたちが、のどかに朝の歌をさえずっている。
人馴れしているようで、ちょんちょんと私のところにやってきてよじ登る子まで。
だけど、いつも傍にいる気配がここにはない。
クロとナナがいない。
お父様もいない。
ついでに言うと帝国までの道中、昨日までたしかに一緒だったはずの王弟殿下とお付きの騎士様と我が家の世話役で来てくれたミアーナの姿もない。
「朝餉が来たぞ……、何してる」
「絶望を感じております」
「そうか。とりあえず飯を食え」
「…………」
絶望しててもお腹は空く。
存在を主張しようとした胃をとっさの呼吸停止で打ち倒した私は、背後……テラスと室内をつなぐ出入り口から声をかけてきた人へと振り返った。
そこに立つのは一人の青年。
無造作に流した黒い髪。人を食ったような笑顔でもって細められている赤い瞳。うすい唇は、少し意地悪そうな印象に持ち上がっている。
衣服は、このテラスが彼の私室とつながっていることを考えれば納得のできる、シャツとズボンだけのラフなものだ。どうやら胸元を締めるのはお好きではなさそうである。鎖骨が見える。
歳は――ゲーム本編の第一王子たちくらいか、それより少し上か。
私がじっと彼を見たまま動かないものだから、相手のほうがしびれを切らした。
ふー、と利かん気の子供を前にしたような表情でため息をひとつついて、こちらに足を踏み出したのだ。
一瞬びくついた私だが、それ以上は動かない。動けない。
横に逃げてもすぐ捕獲されそうだし、手すりからダイブするにしてもここは我が家の二階ではないのだ。地上までふたけたメートル確実の高さなのだ。目測。つまり死ぬ。そして私にその気はない。
なら相手に従うしかないのは分かってる。
分かってるのだけど……
「そう機嫌を悪くするな。無体は働かん」
「誘拐された被害者が誘拐した加害者に笑顔でいられるとお思いでしょうか」
言いながら、あっこれ不敬罪だ、と脳裏をよぎる。けれど動いた口は止まらない。発した言葉も消えはしない。
さいわいなのは、ここには彼が従えている臣下や護衛の方が誰一人としていないということ。彼本人が何も思わないかぎり、不敬罪は成り立たない。
……不機嫌なお顔にはおなりあそばされたが。
「誘拐ではない。先に連れてきてやっただけではないか」
「家族と引き離してまでですか……!?」
「仕方ないだろう」
目の前までやってきたその人は、含み笑いを浮かべて私の顎に指をかけた。
えっちょっ待っ顎クイとか待っ、
「昨夜も言っただろう。奴らとの積もる話とは別に、そなたとも邪魔者なしで会話したいがためだ。許せとは言わんが、そろそろ現状を受け入れてくれると助かる」
てくれずに笑うその人は、
「――なあ、転生の娘」
ロルツィング帝国第172代皇帝、クリストフェル・ロア・ロルツィング。
昨夜、国境の街からこの帝国首都まで私を拉致してくださった実行犯である。