13
薔薇園にたどり着いた私は、わあ、と声をあげるのをすんでのところで押し留めた。万が一に備えたクロが空振りしかけて急停止した。
うちの庭にも薔薇はあるが、さすが王城。規模が違う。薔薇の種類や瑞々しさはもちろんのこと、全体の配置やととのえかたで、空間そのものが壮麗さに満ちている。
私もクロも知らない色合い、花弁のものもそこかしこにあるようだ。うちの庭師連れてきてあげたい!
「この時間なら、庭師はあちらの方にいるはずだ。――話していくかい?」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えて」
王子の穏やかな提案を、クロはほんの少しだけ間をとって受け入れた。
「安心してほしい。こちらの護衛騎士もついているから」
「お心遣い痛み入ります」
深く頭を下げるクロを見た王子は、執事へクロを案内していくように告げる。見送ってみたところ、薔薇園の外周を回り込んでいくようだ。
私の方はどうなるのかと思ったら、そのまま薔薇園内部へ招かれた。
会話が聞こえるかどうかという絶妙な距離でついてきている護衛騎士が、いくつめかの角を曲がってまだ追いつけないでいるころ。
リシスフィート王子が足を止めた。
私も立ち止まる。
ふたりの距離は数歩分だ。こちらからは、前にいる王子の後ろ姿が視界におさめられるくらい。もちろんあちらからは、私の様子など見えないだろう。
立ち止まって数秒。前方――王子の雰囲気が変わる。
肩をわずかに上下させて、その人は言った。
「――今日、君を招いた件だが」
ああ。そうだ、この声だ。
突き刺すような突き放すような、拒絶の意思がこもる声。
フルボイスとはいえ他所のゲームでの声優とわりと一致するとは――想像の翼、世界の壁すら打ち破ったか。
「これは私の義務という、それだけのことだ。甘い夢は見ないようにしてもらいたい。君と私の婚約などは、万が一にもありえない」
「…………」
おや。
「あら」
外と内で選んだ単語こそ異なれど、うっかり私はそんなことを口走ってしまっていた。
その声があまりに気の抜けたものだったせいで、動揺させたのかもしれない。背中に組んでいた王子の手に、少しちからがこもったようだ。
「……何も訊いていないのか? 想像すらしなかったと?」
「……、――発言をお許しいただけますか?」
「許す」
ありがとうございます、と。
見えてないと分かりつつ、一度礼をして語りかける。
「父からは、本日茶会にて王子殿下のお相手を仕るようにとだけ申し付けられております。わたくしとしては――今日までをもって、王子殿下は婚約者候補に挙げるべき令嬢を選抜されようとしているものと不躾ながら推測しておりました」
「まさか」
一言で否定されてしまった。
「すべての令嬢には同じように伝えている」
「……それは、また……」
ひどいことしますね。とかストレートに言ったら処罰不可避である。言葉をにごすしかない。
「…………」
困ったなあと反応を決めあぐねていると、王子が動いた。
ちら、と、こちらを振り返る表情は、無味無臭でも嫌悪でもない。横顔のさらに狭い範囲しか見えないが、困惑がいちばん適していそうだ。
それで私の気もゆるむ。
もしかしてこれ、王子が打ってる一芝居というやつなのでは。
「……王子殿下?」
「なんだ」
「婚約の件はさておき――招いておいてのこのなさりようについて、ご理由をお伺いしても?」
「……言う必要はない」
「王子殿下」
意地を張ってるようにしか見えない背中に、ちょっと強めた声を投げる。
ぴくりと身を震わせた王子の顔が、正面に戻ってしまった。それが慌てている感じだったので、うっかりゆるんだこちらの顔を見られなくてよかったと思う。
……考えてみたら、この人もまだ全然子供なのだった。教育こそは受けているだろうけど、策を講じて役を演じきるには踏んだ場数が足りないというか。
今のこれは、とくにその幼い面が出ている気がする。
「では質問を変えますね。これまでのご令嬢は、なんと?」
「……皆、引き下がったが」
「泣いたり怒ったり――そうでなくても、ご気分を害されたりなさったご様子は?」
「そこまで君に言う必要があるのか」
「……ご様子は、あったのですね?」
「…………」
「おっしゃる必要は、とのことですが――おありです」
口ごもる王子の背中を見つめたまま、追撃モード。
「御身は将来、国王となられるお方です。理由もなく将来の臣下の伴侶ともなられるだろう方々に対してこのような振る舞いをなされるのであれば、わたくしも弁えるばかりではおれません」
「…………っ」
王子が動いた。
髪も乱すような勢いで、こちらを振り返る。――体ごと、だ。
そうして彼は、絞り出すように言葉を吐いた。
「なれる、などと簡単に……」
おや?
「……お望みではないのですか?」
私としては心底の疑問だったのだけれど(なにせゲームでは王太子の座をかけて弟と競った姿を見てるので)、こちらの発言を聞いた王子は、ますます鋭い視線を向けてきた。
「第二位の私に、それを言うか……!」
「……あ」
そうでした。
王位継承権二位だった、このひと。
「あ」
そうでした。いや、そうか。
そうかー!
「そういうことですね殿下!?」
「な、なにがだ」
かつてゲームプレイ中にも、今のネイアになっても気づかなかったそれに、ようやく私は思い至った。
ぽんと飛び出た答えモドキの勢いのまま、無礼も不躾も忘れて王子との距離を詰める。
「わたくしと婚約してしまったら入婿確定臣籍降下決定ですものね! 分かります、それはもうこんな女と婚約などしたくないということになりますよね!」
そうでした。そうなのだ。
私はレグルストン侯爵家の一人娘。父は後妻を迎える予定もなく、男子の養子を探すそぶりもない。
このままでいけば、私ネイアが婿をとってその方に爵位を継いでもらう、または私が一念発起して女侯爵を目指す必要がある。女性の爵位は前例こそ少ないけれど、ゼロではない。充分に選択肢なのだ。
うわーそうかー、そうでした、そうですね!
国王目指す王子にとって、それはとっても鬼門だね!
じゃあなんで婚約しちゃったんですかゲームの王子様。
ネイアが惚れ込んでゴリ押ししたのか、他の理由があったのか。分からないけど、それが彼にとってほんとにマジでどうしようもなく不本意極まりなかったということだけは今、理解した。
「え、いや、待て。というか君自身についてはなんとも……」
「あら、そうなんですか?」
「悪い噂も聞かない初対面の相手に、こんな女などとは思わない!」
「あらまあ。わたくしてっきりもう王子殿下におかれては永らくの蔑みをいただくものとばかり」
「……」
すっかりテンション上がった私は、ゲームの王子像まで混じえて話をしてしまっていた。
そんな未来の自分など知るよしもない王子にとっては、とんだ言いがかりである。
さっきまでの勢いや鋭い雰囲気もいつの間にか失せてしまった彼は肩を落としてうつむいて、片方の手のひらで顔を覆っている。
どうしようこれ。
――ネイア。
考え込んだ一瞬、ささやき声がそっと耳に滑り込んできた。
――大丈夫? クロ呼んでくる?
背中に感じる体温を振り向かないまま、私は首を横に振った。
返事が王子へ聞こえては困るから、口元に手のひらを当てる。
「大丈夫。心配なさそう。きっちり話をつけていくわ」
――りょーかいー。
軽い一言を残して、背中のぬくもりが遠ざかる。
かくれんぼして馬車の屋根で弾んでいた声の主は、きっとクロのところへ行ったのだ。
……それはそれとして、この会話の間も考える人立ち姿バージョンを披露している王子をどうしたものだろう。
ナナに言ったとおり話はつけていくつもりだけど、不用意につついてまた爆発されたらちょっと扱いに困る。今も充分困ってるけど。
さらに数秒考えて、私はそっと身をかがめた。
ここまできて不作法も何もあるまい。開き直りで、王子の顔を覗き込む。
「第一王子殿下。心の底からお嫌でなければ、打ち解けたお話をしませんか?」
「…………」
手指の隙間から、そうっと。碧い瞳がためらうように、私を見た。
「なんとなくですけどお察ししました。ご協力できることがあるかもしれません」
「…………、……時間は、まだ、いいのか」
「王族のお召しとあらば、多少の門限やぶりは許していただけます」
「……努力する」
とつ、とこぼすようにそう言って、王子が姿勢を戻す。
彼はまず、同じく背筋を伸ばした私ごしに視線を飛ばした。――つられて振り返れば、薔薇の壁の向こうで居心地悪そうにしている頭が見える。
護衛騎士だ。ごめんなさい忘れてた。
「――リッシュ、聞こえたか?」
「はい」
「そこにいてくれ。レグルストン嬢と話をしてくる」
「お待ちしております」
一瞬下がった騎士の頭がまた上がってきたところまでを確認して、王子は私に手を差し伸べる。
「もう少し奥に行こう」
「かしこまりました」
私はつつしんで、その腕をお借りした。
……ゲーム中、画面の向こうのこの人に触れることはなかったけれど――想像していたよりもずっと幼く細いその腕は、全然頼りなくて。どうにか支えになれることはないだろうかなどと、また思ってしまった。




