35.上位魔人フォラス
突如立ち込めた濃密な白い霧の正体は、あらゆる者の精神を侵し壊してしまう程の強力な幻惑魔法である。
何人も逃れる事も、抗う事も出来ない、非常に恐ろしい魔法だ。
その魔人は今までも、そして50年前も同じように、人が壊れる様に嗤い、また壊れた人々が殺し合う様に嗤い、そしてそれに飽きたら己の手で壊れた人々を屠り、狂ったように嗤い声を上げ楽しんできたのだ。
「あーっはっはっは!さぁ!お前はどんな幻覚を見るんだ?!やめてくれと哭けよ!叫べよ!壊れろよぉ!」
霧の上から歯を剥き出しに顔を快楽に歪め、腹を抱えながらゲラゲラと身を捩らせながら嗤うその様に、茂みの中の彼らは過去のフラッシュバックにより顔面蒼白なまま恐怖で更に呼吸が浅くなる。
その時。
バチィン!!
何かが激しく弾ける音が周囲を包み、衝撃の風が放散する。
「な、なんだ?」
あまりの激しい音と魔力衝撃に、驚く魔人がキョロキョロと辺りを見回す。
が、特に何もない。
それは何らかの強い魔力が干渉しようとして、キサギの結界に阻まれた音だった。
だが、それを知るのは結界を展開したキサギと旅団らのみ。
「……な、なんだよ。ビックリさせんな……」
「あーはいはい。もう満足したかしら?」
「……は?」
魔人が己の耳を疑い、拍子抜けした声を上げる。
突然、濃い霧が立ち込めるの中からキサギの声がしたかと思うと、ブワァ!っと強い風が舞い上がり、霧を一気に晴らす。
霧散したその場所には、狂うことなく変わらない姿で彼女や旅団らが佇んでいた。
「うぇ?!何だよ!何で壊れてないんだよ!!」
突然の事に魔人は焦燥の様を見せ、喚き声をあげた。
「いや、何って……霧、邪魔だから晴らしただけだけど?……そもそもここは私が展開している結界の中。私が許可したものだけが、存在を許される領域。貴方が何をしようが、貴方の思う通りになる訳がないじゃないの」
やれやれと肩をすくめ、キサギは呆れるような表情を浮かべ言い放つ。
その生意気な彼女の態度に、魔人は顔から笑みを消し、奥歯をギリッと噛み鳴らす。
「……お前。生意気だ」
瞬時にその場から消えたと思えば、彼はキサギのそばへと瞬間移動する。
右手を振り上げ、瞬時に長さ30cmはあろう鋭利な刃物状の5本の爪を伸ばすや否や、ビュオン!と風を切る音をたてながら振り下ろす。
が。
「神圧、序二段」
キサギは一歩も動く事もなく、構える事もなく、焦りすら見せる事もなく。
ただ平坦な声のまま、口からまた魔法が紡がれる。
魔人は自身の上に瞬時に展開された魔法陣に気付く事も出来ず、見えない上からの衝撃的な圧力で、また轟音と共に地面へと体をめり込ませていた。
キサギの眼下にはまた小さなクレーターが出来、そこに魔人が埋もれ、圧力に抗おうと呻き声を上げながら暴れている。
「……粘るわねぇ。なんなの、その無駄に丈夫な体」
呆れにも似た表情を浮かべながら、キサギは辟易とした声をこぼす。
だが、それはすぐに何の感情もない無表情へと変わる。
「けどまぁ、所詮それだけね。あぁ……もう、飽きた」
眼下の魔人へとその表情を変える事なく見下ろしながら、彼女は己の魔力を少し放出する。
たが、何度も繰り返すが、彼女にとっては少しでも、他にとってはそうではない。
彼女から放たれる濃密で神々しい魔力の気配に、魔人は思わず暴れる手足を止めてしまう。
圧力に抗いながらも何とかその顔を上げ、彼女を見上げた。
そこには先程の無表情から変わり、何とも神秘的な微笑みを浮かべるも、目は微塵も笑っていない美しい少女の姿があった。
神々しくも、凶々しいその微笑み。
その得体の知れない存在に、魔人は顔を青ざめブルリとその体を震わせる。
「……お、お前……は……何者だ……!」
恐怖に怯えて声が掠れる。
「あら。名乗りを上げない奴に、名乗る名前は無いわね」
コロコロと鈴を転がすように可愛らしく笑う余裕なキサギに、魔人はギリッと奥歯をまた噛み鳴らした。
「俺はフォラス!上位魔人だぞ!」
地面に這いつくばり唾を撒き散らしながら、フォラスと名乗った魔人が喚き声を上げる。
「へぇ、そう。その割には、私が以前出会った上位魔人と比べて魔力は大した事ないのね。貴方、知ってる?ベリアルって言うんだけど」
「へ?!」
キサギの言葉にフォラスは顔を青ざめる。
その様に彼女はおや?と表情を少し崩す。
「あら、その反応……何、貴方、ベリアルが怖いの?」
キサギの顔に不敵な笑みが浮かぶ。
それは無慈悲で、意地悪な微笑み。
向けられるその不気味な笑みとベリアルの名前を耳にした途端、フォラスが先程よりも更に顔を青ざめながら、恐怖で体をガタガタと震わせる。
(あら、アイツ。なかなか強い奴だったんだ……えぇ~やっぱり面倒臭い事になりそう)
彼のあまりにも怯える反応から、キサギは内心意外な思いが胸に過ぎるも、お気に入り認定されていつまでも付き纏われるのを想像して辟易する。
「あの御方は!!ただの上位魔人じゃないんだぞ!!お前みたいなガラクタが、あの御方の名を口にするのも許されない存在なんだぞ!!」
突然喚き散らすフォラスに、彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「へぇ。そうなの」
あまりにも興味なさげな感情の籠らない返答に、フォラスはギリッとまた奥歯を噛み鳴らした。
「あの御方は上位魔人の最高峰!“四魔闘将“の一角なんだぞ!あの御方の事を知りもしないガラクタの癖に……!!」
興奮で唾を飛ばしながら喚くフォラスの声が、更に高まる。
茂みに潜むディゴン達は、さすがにその衝撃的な言葉に青ざめる。
何せ50年前に苦しめられたフォラスが更に崇める存在など、もはや脅威というよりも世界にとって天災級の存在と言っても過言では無い危険なものだ。
恐れるのも無理はない。
「げ。あんな面倒臭いのが4人もいるの?えぇ~」
だが、事これに至っても、キサギは焦燥を見せるわけもなく、ただただ面倒臭そうに顔を歪めるのみだ。
「お、お前ぇぇぇぇぇぇ!!生意気だぁぁぁぁぁぁ!!」
侮辱ともとれるキサギの態度に憤怒の表情で激昂するフォラスが、身動きが取れないながらも彼女へ一矢報いようと魔圧に必死で抗う。
「あーはいはい。で?その四魔闘将は、ベリアルの他には誰がいるの?」
眼下で無駄な抵抗を試みている彼をまるで嘲るかのように、キサギは不敵な笑みを浮かべたまま屈み、彼の顔をズイと覗き見る。
「……ぐっ!……うぐっ!……」
だが、フォラスの口からこぼれる声ははくはくと動かされるだけで、言葉を成さない。
彼の喘ぐその様子をキサギは凝視する。
「あら?貴方、厄介なものを掛けられているわね……情報漏洩のための呪か……制約と言ったほうがいいのかしら?そういえばさっきから、“あの御方“としか言っていないものねぇ」
フォラスにはその身に纏わりつくように何とも複雑な術式が施されていると、キサギは気付く。
正直、魔人にこれほどの緻密で難解な施術が出来るなど、彼女は思ってはいなかった。
しかもそれは解くとなるとかなりの時間を要する解呪になりそうなだけでなく、当然呪詛返しのトラップもあると見破る。
(けど、何でこんな制約なんて掛けるのかしら……)
そもそも魔人は己の快楽のみを優先する為、他者と徒党を組むといった情報は過去を遡ってみても一度もない。
だが現に目の前のフォラスには何者かによって情報漏洩を防ぐ為の制約が掛けられている。
(これは何かがおかしい……なんだか面倒事の匂いがプンプンするなぁ……)
暫くして「ふむ」と得心を得ると、屈んだ身をゆっくり起こした。
「ま、何にしてもこれ以上は時間の無駄か」
彼女はそう突き放し、右手を前に掲げる。
「おいで、八咫烏」
掲げられた右手に漆黒の羽の渦が舞う。
顕現した漆黒の長刀の柄を、彼女のしなやかな右手がしっかりと握り包まれる。
「シュリ、ソウエイ。遊ばせてあげられなくてごめんね。コレ、私が貰うわ」
微笑みを携えたままに流し目で側立つ彼らを見やると、彼らは恭しく頭を垂れる。
その様にキサギは満足そうに笑みを深めた。
「なんだよ!やめろ!やめろよ!俺はアウリスと遊ぶんだよ!アイツが目覚めるまでの間、ガラクタのお前らで我慢してやってるんだ!俺の魔力に気付いて、アイツが急に起きるかもしれないだろ?!お前らは大人しく俺に遊ばれてろよ!!」
キサギの放った魔法の圧力に押し潰されたまま、彼はジタバタとクレーターの中でもがき暴れる。
たが、彼の上にのしかかる見えない圧力は、解かれる事は決して無く、ますますその圧を増すように地面へと押しあてられる。
「あぁ、下らない。こんな小物に魔法の2段階目を使うの、勿体無かったわね」
八咫烏の握られた右手が静かに振り上げられる。
振り上げられた刀身が陽の光を浴びて、ギラリと上から下へと光が流れ放たれる。
圧に押し潰されながらも手足をジタバタと暴れさせていたフォラスが一瞬ビクリと体を震わせ固まった。
ゆっくり振り上げられた刀身を、怯えた表情で固まった身を震わせながら見上げている。
「ゆ、行方不明になった奴らの事、知りたくないのか?!俺が隠したんだぞ!!俺を殺せば奴らは戻らないぞ!!俺を殺せば奴らは……っ!!」
苦し紛れのフォラスの喚き声に、キサギは呆れ気味に溜息をひとつ吐き出す。
「あぁ、それ。別にもうわかってるし必要ないわ」
「……は?!」
哀願にも似たフォラスの叫び声に、無情で無慈悲な言葉が放たれる。
言葉にならない裏返った彼の声が、虚しく響いた。
「貴方みたいな、精霊王の目覚めまでですら我慢も効かない奴が、どこかに隠す?ふふふ!笑わせないで」
柔らかで優しく笑う声が、フォラスの耳にいやに残る。
「あぁ、貴方程度の小物に魔法なんて不要ね。たまには八咫烏の“餌“になってもらいましょ」
神秘的な微笑みを浮かべたまま刀身をゆっくり下ろし、切先を眼下のフォラスへと向ける。
「永劫の時の中で、好きなだけ遊んで“貰って“らっしゃい」
右手に握られた八咫烏が途端に漆黒の羽の渦を巻き上げながら、その長刀の姿を消す。
いつもならばそのままキサギの体へと還って行くだけだ。
だが様子が違った。
巻き上がった漆黒の羽は、ますますその羽の数を増していく。
それはまるで大きな竜巻のように巨大なとぐろを巻き、吹き荒れる。
フォラスはその異様な光景を目の当たりにし、恐怖で青ざめガタガタと体を震わせるしか出来ない。
だが無情にも、まるで餌を見つけたと歓喜するかの如く、その漆黒の羽の竜巻が勢いよく彼へと覆い被さり、容赦なく呑み込んでゆく。
「嫌だ!やめろ!やめろぉ!!」
無数の漆黒の羽に呑みこまれた中からは、姿が見えないながらもフォラスの悲痛な叫び声が辺りにこだましている。
そして徐々に渦の巻上げが早くなると共に、こだまするフォラスの叫び声が小さくなっていった。
暫くして完全に彼の声が聞こえなくなると同時に、漆黒の羽の竜巻はその大きさを徐々に小さくしていき、それはいつもの渦へと姿を変える。
そしてフワァ…と羽を霧散した。
羽は空気に溶けるように、フォラスを呑み込んだまま、呆気なくその場から全てを消し去った。
「あぁ……ごめんなさいね。私、貴方に名乗るのを忘れていたわ。ふふふ。でも、もう関係ないわね」
キサギは先程までそこにいたフォラスへと無情な言葉を放つと、鈴を転がすような声音で楽しげに笑みをこぼした。




