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幸不幸のまじない

作者: 椎野


 私はいつも、母よりも不幸でなければならないと言われていました。


 母は私が7歳の頃に亡くなったので、どんな人だったのか、あまりよく覚えていません。私が知る母は、ほとんど全てが祖母から聞いた母でした。

 母は美しくて、賢くて、でも不幸な人だったそうです。よくない男に騙されて、早くに妊娠して、普通の幸せを何も経験出来ないまま、早くに出産したからか病気がちになり、そのまま若くして亡くなりました。私を産んだせいで。

 だから、私は母よりも幸せになってはいけないのです。


「おばあちゃん、話があるの」


 母が亡くなってから、私はずっと祖母と二人暮らしでした。祖母は少し気難しい人で、だけど私を捨てたりはしませんでした。

 それでも、話したいことがあると言って声を掛けても、反応がないこともあります。


「おばあちゃん?」


 もう一度だけ、と名前を呼んでみるものの、だけどやっぱり無反応でした。


「あのね、大学の話なんだけれど、」


 大事な話だったので、どうしても聞いて欲しかった。聞こえていないかと思い、見える位置に立ち直し、顔を覗き込むようにしてまた声を掛けてみたけれど、意味はないようでした。どこから声を掛けようと、返事がない日はないのです。聞こえていないのではなく、答えたくないのだから。

 そういう日は仕方ないので、話すのはやめて、答えてくれる日に話すことにします。今日もそんな日だろうと思っていました。


「あんた、黙って猫を飼ってるだろう」


 いつものように、あまり日当たりの良くない自分の部屋で大人しくしていようと思い背を向ければ突然投げ掛けられた言葉。その意味を理解するまで、数秒が必要でした。

 理解した瞬間、心臓の鼓動は速くなり、指先が緊張で冷たくなるのを感じ、驚きのあまり何一つ返事をすることはできませんでした。


「あんたは、百合子より幸せになったらいかん」


 咄嗟に、走り出していました。

 祖母はいつも、私の母の百合子よりも幸せになってはいけないと繰り返す。毎日毎日、母が亡くなったその日から1日も欠かさずに。

 友達と遊んでいて遅くなった日には、物凄く怒られご飯が数日もらえなかった。風邪を引いた日、密かに好きだった男の子がプリントを届けにきてくれたら、怒鳴って追い返した。修学旅行は風邪を引いたことにして、行かせてもらえなかった。高校は母と同じところ以外、選ぶことができなかった。大学は、母が私を妊娠して行けなかったから、私も行ってはダメだと言う。

 走りながらも、そんなことを、まるで走馬灯のように思い出していました。そんなこと、考えたって仕方ないのに。


「ユキちゃん…!」


 まるで雪のように綺麗な白猫だったから、付けた名前でした。

 恥ずかしいことに、友達と遊びに行けない私には高校生になっても友達はいなくて、祖母には内緒でこっそり仲良くなった唯一の友達でした。祖母は腰が悪いから、屈んで見ることができないのを良いことに、古い家の縁側の下にこっそり造っていたユキちゃんのための寝床。慌ててそこまで走り、覗き込んでも、綺麗に毎日整えていた寝床は残っていなくて。ユキちゃんのために用意していた食べ物が潰れたような残骸だけがそこには残っていました。

 心の底からショックを受けると、涙ひとつ出ないのか、ただしばらく呆然としていました。

 気が付いたら夜になっていて、気が付いたら自分の部屋にいて、いつもなら窓からこっそり部屋に入れているユキちゃんもそこにはいない。ただそれだけのことなはずなのに、悲しくて、苦しくて、でも涙は出なくて、こんな時どうしたら良いのかは高校生になっても分からなかった。


「私は、お母さんより、幸せになっちゃいけないから、」


 友達はずっといなくて、でもそれは寂しかった。だから私は、いつもこっそりと友達を作っていました。

 最初は庭の隅に咲いていた小さくて弱々しいけれど、綺麗な花。次はどこから入り込んだのか分からないヤモリ。その次は授業で1人ずつ飼うことになったメダカ。その次は毎日来るので餌をやるようになったスズメ。その次は家の裏で羽を怪我していたカラス。

 最後が、白猫のユキちゃん。

 みんながたくさん私の話を聞いてくれたけれど、ユキちゃんは中でもとても賢くて、たまに鳴き声で返事をしてくれる。だから私はユキちゃんになら何でも話すことができました。

 でもそんなことよりも、自分の寂しさよりも、ユキちゃんが無事かどうかだけが心配で眠れませんでした。


 カリカリ、カリカリ


 布団に入っても、全く眠れなくて、夜中の2時を回ってもまだ起きていました。

 窓の外に見える、ほとんど満月に近い月を眺めながら。時計の針の音だけが響く夜に1人、賢いユキちゃんは、もしかしたら戻ってきてくれるのではないかと心のどこかで期待しながら。


 カリカリ、カリカリ


 私がその音に気が付いたのは、しばらく経って、少し月の位置が低くなった頃でした。窓枠を引っ掻く音に気が付いて、慌てて開ければそこにはユキちゃんが。ほっとして、全身の力が抜けていくのが分かりました。

 年老いて耳が遠くなっているとは言えど、祖母はこういう時だけは敏感でした。物音を立てないよう気を付けながらユキちゃんを部屋の中に入れようと手招いたけれど、どうしてだかユキちゃんは入ってきてはくれませんでした。


「…ごめんね、ユキちゃん」


 怖がらせてしまったから、もう家に入って来てくれないのかもしれない。それでもいいから、ユキちゃんに会えたことが嬉しかった。でも、そう考える自分はなんて自己中心的なのだろうと申し訳なくて謝れば、ユキちゃんの青くて丸い瞳がじっと私を見ていました。


「ごめんね、美月」


 美月は私の名前でした。

 もうしばらく、それこそ祖母にすらずっと呼ばれていない、私の下の名前。どこからか呼ばれた声に、きょろきょろと辺りを見渡すけれど、そこにはユキちゃんしかいませんでした。


「本当は、ずっとそばに居てあげたかった」

「…ユキちゃん」

「ちゃんと人の姿のまま、ずっとそばにいてあげられていたら」


 ユキちゃんの後ろに見える丸い月は、不思議なことに、私の目にはとても大きく見えていました。まるでユキちゃんを飲み込むくらいに。この家を丸々一つ飲み込めてしまうくらいに。

 不思議な話だけれど、私はユキちゃんはお母さんなのだと、何故だか理解していました。ずっと知らなかったのに、何故だか間違いないと、そう確信していました。


「本当はね、声を掛けてはいけなかったの」


 母は神様に会ったのだと言いました。

 あなたの人生はずいぶんと可哀想なものだったから、ひとつだけ願いを叶えてあげよう。死んでもう消えて無くなると思った時、母が最期に願ったのは、可愛い我が子の成長を見守ること。神様はその願いを叶えました。

 ある時は花に、ある時はヤモリに、またある時はメダカに、スズメに、カラスに。何度も生まれ変わっては、私の傍に居られるように。

 けれど、1つだけ神様との約束がありました。


「美月、よく聞いて」


 もうあまり時間がないの。母はそう言うと、軽々と窓枠を飛び越えて、私の腕の中にすっぽりと収まりました。真っ白でふわふわの毛は柔らかくて、とても暖かかった。トクトクと小さな鼓動が腕に伝わり、胸がいっぱいになって、その小さな体をぎゅっと抱きしめる。

 後から思えば痛かったかもしれないのに、母は気が済むまでそうさせてくれました。


「美月、幸せになっていいのよ。おばあちゃんの言うことなんて気にしなくて良いの」


 母を腕に抱いたまま、静かにそれを聞きました。

 母も子供の頃からずっと、幸せになってはいけないと言われ育ったのだと。祖母がずっと不幸だったから、祖母よりも幸せになってはいけないと。私を産むまでは、本気でそう信じていて、ずっとそうやって生きてきたと。だけど、そんなのは間違っていたことを、死ぬ頃になってやっと気付けたのだと。

 花も、ヤモリも、メダカも、スズメも、カラスも。私が大事にしていたものはみんなみんな、祖母に見つかって、知らないうちにどこかに捨てられてしまいました。

 

「お母さんは、美月に幸せになってほしい」


 気が付けば、あんなに大きく見えていた月は、もう元の大きさとほとんど変わらなくなっていました。

 花も、ヤモリも、メダカも、スズメも、カラスも。白猫のユキちゃんも。私の母はいつも姿を変えては傍にいてくれたのです。

 ぎっと抱きしめた時、何かが腕を暖かく濡らしているのに、本当は気がついていました。


「私にはね、兄がいるの。その人を頼りなさい。大学のことも力になってくれるはずだから」


 母の言うままに、母の兄で私の叔父だという人の名前と住所を控えました。

 叔父は祖母と仲が悪く早くに家を出て二度と帰ってはいなかったから、私は母に兄がいたことすら知らなかったのだと知りました。母は生きている時に、何度か手紙のやりとりはしていたそうで、だから私のことも叔父は知っているのだと。

 そうこうしているうちに、窓の外の月はもうすっかりと元の大きさに戻っていました。


「…お母さん、ありがとう」


 それが聞こえていたのかは、分かりませんでした。

 腕の中のユキちゃんの白い毛は、お腹から足にかけてが赤く染まっていて。さっきまであんなに暖かかった体はもう冷たかった。

 それでも私はせめて最後にと、もう一度だけぎゅっと優しく抱きしめる。勿論反応はないはずなのに、不思議と抱きしめ返してもらえたような、そんな気がして、目の奥が少しだけ熱くなる。



 神様は母に言いました。


 何度生まれ変わっても、何に生まれたとしても、娘の傍にいられるようにしてあげよう。

 その代わり、一度でも口をきいてしまったら、それは全て終わりになってしまうからね、と。



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