さがしもの
「さがしものは何ですか」
掛けられた声は、軽やかな、少し掠れた女性の声。ぼんやりと公園のベンチに腰掛けていた僕に声をかける人なんて、見回りの警察官か椅子を譲ってほしいご老人と相場は決まっている。だから僕は、慌てて腰を上げ、繕った笑顔を貼り付けてその人を振り返った。
「…………?」
しかし、その声の持ち主はどこにも見当たらない。何だ? タチの悪いイタズラか? 一通り辺りを見回しても誰も見つからず、続けて居座るのは些か心地が悪かったが、再びベンチに腰をおろした。
冷静になって考えてみれば、声の主は「こんにちは」でも「いいお天気ね」でもなく、「さがしもの」がどうとか言っていなかったか?
「はぁ」
肺に残っていた空気を全て押し出すように溜め息を吐く。
幻聴まで聞こえるようになってしまったか。末期だな。
「ねぇ、無視しないでよ」
「馬鹿だなぁ」。そう言ったその声は、くつくつと堪えるように笑う。
姿も見えないものに返事なんかすれば、人間として大切なものを失ってしまう気がする。
「下だよ、下」
聞こえてきた声に従い、ベンチの下を覗き込む。
「元気?」
小さな猫だった。小柄なその猫は、まんまるな目で僕を見つめ、軽やかに膝の上に乗っかってきた。にんまりと笑ったような口元が可愛らしい。……そうじゃなくて。
「し、喋れるのか?」
周囲に誰もいないのを再び確認しつつ、手を口元に添え、小声で話しかける。
「もー、鈍いわね」
その声が耳に届いた瞬間、僕の脳裏には彼女の姿が明瞭に思い出された。
「ま、さか」
「ふふ、声が違うから分からなかった? あっちでたくさんお喋りしてたら、喉が枯れちゃったのよ。今治してる途中。だから許してね。……あ、でも声が違ったら信じてくれないかしら。どうしましょ、困ったわ」
困ったように首を傾げて僕を見つめる子猫に、僕は思わず笑った。思考と同じ速度でマシンガンのように話し続ける——間違いない。この子猫は、数年前死に別れた彼女だ。
「信じるよ」
「まぁ、ありがとう。さすがあなたね。……って、泣いてるの?」
「泣いてないよ」
ごしごしと目元を擦り、僕は再び口角を上げた。しかし、懐かしさで涙が止まらない。視界が緩く霞んでいく。
「まったく、やっぱり何にも変わってないのね」
呆れたような彼女の声に、「変われるわけないじゃないか」と反論する。声が濡れている。情けない。
膝の上の温もりに、懐かしい彼女の言葉に、心がほぐれていく。
「さがしもの、間違えないでね」
僕から視線を逸らした子猫は、真っ直ぐに空を見つめながら、「あなたが探すべきは、私じゃないから」と呟く。「私は死んだのよ」とも。
「知ってるよ」
「分かってないわ。理解して」
「私は死んだの。だから、あなたと一緒にはいられない」。彼女の声が、僕の心に遠慮なく突き刺さる。
「行ってしまうのか」
「せっかく会えたのに」。水をいっぱいに含んだスポンジのように、僕の言葉は未練でぐっしょり濡れていた。情けない。分かっていても、縋らずにはいられない。
「当たり前でしょ。私は死んだの」
子猫がこちらを振り返る。その表情は分かりにくいが、彼女がくしゃっと顔を歪めて笑ったような気がした。
「さがしものを間違えないで。あなたが探すべきは、私じゃないわ」
「それだけ」。そう言い、彼女は僕の膝から飛び降りた。
「行くのか」
「行くわ」
僕を再び振り返り、彼女が言う。
「私、今は今でとっても楽しいの。だからあなたも楽しみなさい」
「じゃないと私、罪悪感でちゃんと楽しめないじゃないの。勘弁してちょうだい」。呆れたような彼女の声色。生前の彼女を思い出す。あの頃も僕はしょっちゅう叱られ、呆れられていた。そして、困ったような笑顔で「仕方ないわね」と——。
でも、もうそれを言わせてはいけない。
「楽しむ、か。そうだな」
涙を腕で乱暴に拭い、口角を上げた。
「来世で自慢できるくらい、楽しんでやる」
「あなたが私に勝てるかしら?」
勝ち気な彼女らしい言葉だ。
「じゃあ、もう行くわね」
「あぁ、またな」
するりと狭い道に入り込み、子猫は姿を消した。何の名残惜しさもない、彼女らしいあっさりとした去り際だった。
「楽しむ、か」
重たい腰を上げ、僕は大きく伸びをする。膝に残った温もりが何よりも心強い。
真っ白は、自由だ。楽しむには十分過ぎるくらいだろう。
「よし!」
たくさん自慢できるようにしなきゃな。
気合を入れて、一歩踏み出した。