病的な彼女
「ふぁ~あ。最近暇だなぁ」
僕は暇を持て余していた。
学校が休校になってやることがないのだ。
今日もなんとなく早起きしたけど……どうしようか。
「最近運動不足だし……そうだ、走りに行こう!」
そうと決まれば早速行こう。
僕はさくっとジャージに着替えて家を出た。
準備運動もそこそこに走り出す。
まだ朝も早く、道には人がほとんどいなかった。
僕の家からしばらく走ったところに、大きめの公園があるので、そこをゴールに決めた。
走っていると、すぐに息が切れてくる。
家から出ていないと、こんなに体力が落ちるんだなぁ。でも、辛いから続かないかも……。
いやいや、と僕は走りながら首を振った。まずは今日走り切ろう。
約十五分後。
僕は息も絶え絶え、なんとか公園に辿り着いた。
植えられている木々の緑が眩しい。
この公園は広く、小学校のマラソン大会なんかで使われるグラウンドとは別に、芝生の植えられたスペースがあり、そこは中心が小高い丘になっている。
僕は芝生のスペースの方に、最後の力を絞って走っていく。ここにもやはり、人影は殆どない。
ウォーキングをしている老夫婦と、それとここからはよく見えないが、丘の上の休憩所のベンチに腰掛けている人がいるのが分かったけど、それくらいだ。
僕はゴールを休憩所に定めて、芝生の上をひた走る。着いたら思いっきり休もうと決めて、ラストスパート。
それがいけなかったみたいだ。
久し振りの運動で既にガクガクと震えていた僕の足は、その坂の途中で限界を迎えた。
「うわぁああああ!?」
僕は芝生の坂を転がり落ちた。
坂の下まで転がって、なんとか止まったみたいだが、僕の視界は未だぐるぐると回っている。
そして不味いことに、意識がぼんやりし始めた。
丘の上の休憩所から、誰かが走り寄って来るのが見える。
そこまで認識した時点で、僕は意識を失った。
ぐるぐるぐるぐる。
ぼんやりと、目が覚める。
「気がつきましたか?」
僕の頭上から、声が聞こえる。
聞いたことのない綺麗な声だ。
辺りは静かだけど、緑の香りがする。
頭には柔らかい何かを下にしている感触があった。
目を開けると、目の前に見知らぬ女の子の顔。
「うわっ!?」
「まだ寝ていた方が良いですよ。気を失ってたんですから」
言われて、僕は自分がベンチの上に横になっていることに気付いた。
僕が今まで枕だと思っていたのは、彼女の膝だったみたいだ。
「あれ、僕、どうして……」
「そこの丘を転がり落ちたんですよ、覚えてませんか」
「あ、そうだった……」
「すごい勢いで転がって行って、起きて来ないから様子を見に行ったんです」
目が覚めて良かった、と穏やかに笑う彼女。
「幸いどこかぶつけたりした様子はなかったのですが、体調はどうですか?」
「も、もう大丈夫です」
まだ頭が少しだけふらつくけど、このまま寝ているのも不自然だと思って、僕は若干の名残惜しさを感じつつ彼女の膝から起き上がる。そして彼女にお礼を言った。
「あの、看病してくれてありがとう」
「いえ、良いですよこれくらい。私にできるのはこれくらいですから」
僕は改めて、目の前に座る彼女を見た。
綺麗な黒髪は長く伸ばされ、ちっちゃな顔には可愛らしい口や、ぱっちりした目が絶妙なバランスで配置されていて、お人形さんみたい、と言えばいいのだろうか。
折れそうなほど細い手足や、きゅっとしまった腰に白いワンピースを着た彼女はいかにも儚げで、だけどそれが僕の目を彼女に引きつける。
惹きつける、と言ってもいい。
少なくとも、僕が今までの人生で見た中で、1番綺麗な女の子であることは間違いなかった。
「あの、この辺に住んでるんですか?」
「貴方は?」
彼女は逆に僕に聞いてきた。
「僕は、この辺ではないです。最近、運動不足だから、この公園まで走ってきたんです。……それで倒れちゃったんですけど」
そうなんだ、と小さく納得したように頷く彼女。
そこで会話を終わらせたくなくて、僕は代わりの質問を投げ掛ける。
「い、いつもここに来てるんですか?」
「ええ、こうやって、人のいない時間に、ちょびっとだけ遊びに来てるんです」
ふふっと笑いながら話す彼女の、白魚のような指が柔らかそうな唇に添えられて、僕はそれを思わず目で追ってしまう。
「よ、良かったら」
思いついた名案を口に出す為に、僕は勇気を振り絞る。頑張れ! 僕。
「僕もこれから毎日来るから、ここでお話しませんか!?」
僕が言うと、彼女は少し困ったような顔をした。
「でも……私に近寄らない方が良いですよ」
そう言ってやんわりと断ろうとする彼女。
確かに、今は知らない人に近寄らない方が良いって言うけど、でも僕は諦めたくなかった。
「じゃ、じゃあ、このベンチの端と端ならどうですか!?」
「それなら、まぁ……でも、私と話しても、楽しくないと思いますよ?」
「そんなことないですよ! 今も楽しいです!」
僕は楽しさを表現する為にその場にぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「うっ!」
まだ疲れの取れていない足がつった。
僕が芝生の上でのたうち回っていると、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。
「不思議な人ですね。……私で良ければ、是非」
こうして、僕と彼女のちょっと変わった関係が始まった。
それから毎日、僕は公園に通うようになった。
いつも僕が着く頃には、彼女はもうベンチに座っている。
「おはよう!」
「おはようございます」
「いつも早いね」
何回目かに会った時に、敬語は要らないですよ、と彼女に言われた。彼女のは、癖みたいなものらしい。
僕は少しは彼女との距離が縮まったのかと喜んだんだけど、でも、彼女が自分のことを話してくれたことはまだない。
どこの学校なのかと聞いてもはぐらかされる。
多分年は僕と同じくらいだと思うんだけど。
でも、こんなに可愛い子が居たら凄く有名になってると思うから、この近くの学校じゃないのかもしれない。
「することもありませんから」
「確かに、学校も休みだもんね」
「そうですね。……学校がないと、やっぱり嫌ですか?」
彼女に聞かれて、僕は少し考えて答えた。
「まぁ、友達に会えないのは寂しいけど……でも、代わりに色々やれることもあるし!」
部屋の掃除とかね。彼女は意外そうな顔をした。
「そうですか」
「そ、それに……君にも会えたし」
僕がこうやって顔を背けつつ、でも精一杯のアピールをしても、彼女はふふっと微笑むだけだ。
「そうですか。ありがとうございます。……こうやって、私と普通に話をしてくれるのは、貴方くらいですよ」
彼女の言葉に、僕は驚いてしまう。
「ええっ!? そんなことないでしょ!?」
「私は嫌われ者ですから」
彼女はたまに寂しそうな顔をする。
それが何故かたまらなく嫌で、僕は慌てて話題を変えた。
「と、ところで! 君って凄い落ち着いてるよね! 大人っぽいって言うか」
「そうでしょうか。でも、確かに最近は少し落ち着いてきたって言われますね」
「そうなの?」
意外だ。彼女は昔からこんな感じなんだろうと思っていた。
「ええ。ちょっと前までは、それは凄かったですから」
「へぇ……。君っていくつなの?」
「女の子に年を聞いちゃ駄目ですよ」
「あ、ご、ごめん」
「でも、そうですね」
彼女は僕の顔をじっと見てくる。
彼女の大きな瞳に見つめられて、僕は顔が熱くなるのを感じた。
「な、何?」
「多分、貴方よりも年下ですよ」
「ええっ!?」
絶対年上だと思ってた。話し方も大人っぽいし、見た目も、可愛いっていうより美人って感じだし。
あ、でも冷たいとかそういう印象じゃ全然なくて、それこそ落ち着いてるって感じかな。
今日も彼女はベンチの端に座っていた。
僕もここまで走って来て乱れた息を整えつつ、反対側に腰掛ける。
「段々体力がついてきましたね」
「そうかな?」
「ええ、最初の頃はあんなに辛そうにしてたのに」
「ううっ、それは言わないでよ……」
あんまり彼女にはかっこ悪いところを覚えていて欲しく無い。まぁ、じゃあかっこいいところがあったかと言われれば、首を傾げざるを得ないんだけど。
「よく続けられましたね」
「そうかな、これくらい普通だと思うけど」
「そうでもないと思いますが。健康に気をつけるのは大事ですよ」
立派ですね、と彼女に言われて、僕は素直に嬉しい反面、少し複雑な気分になる。
彼女には多分、良くて弟を見るような目でしか見られていないと分かっているからだ。
「でも、それは君のお陰だよ」
「私の?」
彼女は驚いたようにこちらを見た。
「うん。だってここに君がいなかったら、僕は走るの、続けられなかっただろうから」
それは間違いない。
あの時彼女と会えたから、僕は毎日ここに来ている。
むしろこの時間が1日で1番の楽しみで、出来るだけ早く来ようと走るから、余計体力がついたかもしれない。
恥ずかしいから、そこまでは言わないけど。
「そう、なんですか」
「そうだよ」
さっきとは逆で、今度は僕が彼女に頷いた。
「それは……とても、嬉しいです」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。それはいつもよりももっと、彼女の心からの笑顔な気がした。
それくらい魅力的な笑顔で、僕は彼女に何度でも惚れ直してしまう。いつまで経っても、僕は彼女に免疫がつかないみたいだ。
けれど、そんな日々には終わりが来る。いつだって、当たり前だと思っていたものが崩れ去るのは突然だ。
引っ越すことになりました。
ある日突然彼女は言った。
いつものように、何を考えているか分からない、穏やかな笑みを浮かべて。
僕は呆然としていた。
これからも、一緒に居られると思っていた。
休校が終わって、お店も開くようになったら、頑張って彼女を遊びに誘おうと思っていた。
僕はショックだったのだ、どうしようもなく。
だけど彼女は、なんでもないような顔をして、そんなことを言うのだ。
僕はそれがなんだか腹立たしくて、平気な振りをした。
「そうなんだ、急だね」
「かもしれません、でも、今までもずっとそうでしたから」
「あ、そ、そうなんだ。じゃあさ、連絡先教えてよ」
「私、携帯持ってません」
「……」
僕はそんなことも知らなかった。
改めて、僕が彼女について知っていることの少なさに愕然とする。
僕はなんとか声が震えないようにして言った。
「えっと、どこに行くの?」
「……ごめんなさい、教えられません」
「え、な、何で?」
彼女はただ黙って僕を見ている。
僕は分かってしまった。
彼女は僕に、何も話す気が無いんだ。
「……そうなんだ、何も言ってくれないんだ」
「……」
「僕は君のこと、もう友達だと思ってたよ」
「……」
「最近毎朝ここで君と話せて、楽しかったんだけどな、君も、楽しんでくれてると思ってた」
「……」
彼女は、明らかに傷付いたような顔をした。
それでも、彼女は何も言わない。
「もう行くよ」
僕はいらいらしながら言った。
「じゃあね」
「……」
僕は最後まで何も言わなかった彼女に背を向けて、丘を下った。
最低な気分だった。
「おはよう。あら、もう帰ってきたの?今日はちょっと早かったじゃない」
家に帰ると、母さんがもう起きていた。
「僕も成長してるからね」
「やるじゃない。朝ご飯もうちょっとかかるから、待ってて」
「いいよ、急いでないしゆっくりで」
ソファに身体を沈めて、つけっ放しになっているテレビをぼんやりと眺める。
こんなことになっても、頭に浮かぶのは彼女のことばかりだ。
テレビから流れる声が、耳を通り抜けていく。
「――ウィルスに感染する人数はやや落ち着きつつあるとは言え、未だ各地で広がりを見せています」
「まだこの辺も危ないけど、段々収まってきてるわよね。学校はいつ始まるのかしら」
僕に話しかけるでもなく、1人ごちる母さん。
テレビのタレントが訳知り顔で言う。
「免疫もつかないから、本当に厄介な病気ですよね。早く無くなって欲しいです」
私に近付かない方が良いと言った彼女。
嫌われ者だと寂しそうにしていた彼女。
こんなに彼女のことばかり考えてしまうのは、僕が彼女に恋をしているからだろう。
恋。
恋の――――病。
突然、突拍子のない思いつきが頭に浮かんだ。
だけど僕は今、全てが繋がったように感じていた。
僕はソファを立ち上がった。
「あら、どこ行くの?」
「ごめん、母さん。やっぱり走り足りないから、もう一回走ってくる」
「ええ? 良いけど、気をつけなさいね!」
玄関を飛び出して、振り返らずに走り出す。
いつもの公園に息を切らせて飛び込んだ僕は、丘の上の休憩所を見上げる。
…………!
良かった。まだ居てくれた。
細長いベンチには、いつもと同じように、1人の女の子の姿があった。
僕は彼女の下に向かって歩いた。
僕が休憩所に辿り着き、スニーカーがザリと音を立てると、彼女はピクッと跳ねたようにこちらを振り返った。
彼女の頬には涙の後があった。
「……こんにちは。今日はもう、帰ったのではなかったのですか?」
彼女はそれに気付いていないのか、いつも通りを装って僕に話しかけてくる。
僕もいつものようにベンチの反対側の端に腰掛けようとして、思い直して彼女のすぐ隣に座った。
彼女はそれに困ったような顔をした。
「ダメかな?」
「……あなたがそうしたいのであれば」
「ありがとう」
2人並んでベンチに座って、目の前に広がる緑を眺める。すぐ隣の彼女はやっぱりとても綺麗で、病院みたいな匂いがした。
「さっきは、ごめん。君にひどいことを言った」
「良いですよ。私の対応を考えれば、当然のことです。むしろ、なんでまたここに来たのかが、良く分かりません」
「それは……」
僕は立ち上がり、彼女の正面に回って言った。
「君のことが好きだから。ずっと、初めて会った時から」
彼女は僕の言葉を聞いて悲しそうに笑った。
胸が痛くなるような笑顔だった。
「……ありがとうございます。でも、私は……」
「君が本当はどんな奴だったって、君が何を言ったって、僕は君を遠ざけたりしない! 僕は、僕は……」
話している途中なのに声が出なくなって来た。
意識が遠ざかっているんだ。
その原因も、多分――――彼女なんだろう。
意識を手放すまいと掌をきつく握っていた僕は、突然手を包まれた。
小さくて、すべすべした感触。
きっと彼女の手だ。
こんな時なのに、彼女から触れてくれたことがどうしようもなく嬉しかった。
「ありがとう……私も、大好きでした」
そこで僕はとうとう立っていられなくなって膝をついた。
前に倒れ込む僕を、彼女が優しく抱き止めてくれる。
「私はもう行かなくちゃいけません……でも、また、いつか」
すっと彼女が小さな顔を近付け、そして――――僕の額に、何か柔らかなものが触れた。
歪み始めた視界の端で微笑んでいる彼女が見えて、それきり僕は意識を失った。
「うーん……?」
僕は最近よく来ていた、公園のベンチで目を覚ました。
どうやら、眠っていたみたいだ。
僕は、どうしてここに居たんだっけ。
何か大切なことを忘れている気がして、僕は頭を掻く。
僕はここまで走って来て、そして、休憩の為にベンチに座った。
それから暫く経っているはずだ。なのにどうしてか、まだ身体が熱く感じた、――――風邪を引いたのかもしれない。
僕が熱を測ろうと額に手を持っていくと、そこは確かに、僅かな熱を帯びていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。