第4話 大切なことは思い出ではない。
人の人生とはそこまで身が詰まったものではないのかもしれない。
劇的でイベントがある毎日なんてきっと妄想の中の出来事だ。
「いつも触ってるけど、好きなの?ビー玉」
何もない病室でひとつ、ビー玉を眺めている僕に七海さんが問いかける。
「……このビー玉、事故を起こす前の僕の鞄に入ってたものらしいんだ。調べて貰ったら、どうやら僕の母親がビー玉の製造業に携わっていたらしくてね。もしかしたらこれは僕の母がくれたものなんじゃないかって思って」
母親の顔は何となく覚えている。所々抜け落ちてるけれど、これが母親から貰ったものだって言われた時は素直に納得した。
「もしかしたら僕は衝動的に思い出そうとしてるのかな、このビー玉を通じて。……いや、わかんないや。本当はこの綺麗な輝きに見惚れているだけかもしれないし、単に何もする気が起きないだけかもしれない」
「翔くん……」
僕が入院をしてからもう四半期が過ぎた。
七海さんはあれからも欠かさず毎週お見舞いに来てくれている。
こんな僕を相手に時間を費やしてくれていること、正直嬉しかった。
だけど……
「明日、大きな手術をするんだって」
「え……」
俯いていた七海さんの顔が上がる。
手術という言葉に一瞬驚いたあと、険しい表情をして再び俯いた。
「それは、いつものとは違うの……?」
「うん」
それ以上は口に出さない僕に七海さんもある程度察しがついたようだ。
そこに丁度良く入って来た看護師の人が僕たちの話を聞いていたらしく、焦るように声を掛けてきた。
「大丈夫よ、うちの先生は完璧な手術をするから安心しなさい」
この期に及んで僕を安心させようと取り繕う看護婦。その優しさが今は少しだけ辛い。
だから僕は小さく苦笑し、そして看護婦へ向けてストレートに本心を言った。
「気休めは良いです、正直に言ってください。僕も自分の体の事はある程度知っています。今の状態、本当はあまり著しくないんですよね?」
真剣なその顔を見て察したのだろう。
看護婦は小さく拳を握り、僕から視線を逸らして答えた。
「……全力は尽くすわ」
「ありがとうございます、その言葉を聞けて良かったです。僕も覚悟を決めたいと思います」
七海さんが心配そうな表情で僕を見つめる。
僕にとってはこの手術が成功するか、しないかなんて些細な問題でしかない。
例えそれで命を落としたとしても、そういう運命だったというだけだ。
だから……
「僕がいなくなっても、決して思いつめないで。ちゃんと忘れて生きて行くんだよ」
今にも泣きそうな七海さんを前に、僕は精一杯の笑顔でそう言った。
避けられない事なのだから、泣いて喚くよりも笑顔でポジティブにいったほうがいい。無理に心配させるよりも、悔いの残らないようにすればいい。
だから、だから……!
「翔君……」
僕の手の甲に七海さんの両手が重なった。
励ましているはずの僕は、その両手の温もりに目元が熱くなる。
本当なら見せれていたはずの笑顔、他人になら作れていたはずの笑顔。
その笑顔は、いつの間にか引きつった表情へと変わっていった。
「あ……」
視界が歪み、雫が落ちる。溢れ出る水滴を止める術はなく、抑えていた感情が押し寄せてくる。
僕はまた、──涙を流していた。
「ちが、うんだ……これは、そうじゃなくて……!」
鼻を啜りながら右手で目元を拭く。
「これは、うっ……ちがくて……っ」
「……良いんだよ、分かってる」
僕の左手を優しく握りしめた七海さんは憂いな表情を浮かべていた。
「それは言葉に出さなくてもいいんだよ、翔君が決めたことなんだから。どんな結末でも私は全部受け入れる」
今にも泣き出しそうな七海さんはそれでもと、涙をこらえて僕を安心させる。
そしていつの間にか立場が逆転していることに僕は感嘆を漏らした。
「……あはは、七海さんは強いね。本当はもっとカッコつけたかったんだけど」
「──結衣」
「え?」
「結衣って呼んでくれると嬉しいな」
これが最後になるかもしれない。そう考えると涙がこみ上げてくる。
きっとこの手術が成功しても、何も解決はしないのだろう。
解決することでハッピーエンドを迎えられるのなら、僕は身を乗り出して解決しようと思う。だけどそれは表面ばかりでとても空虚なものだ。
手術に成功しても記憶は戻らない、これは大腸癌の手術なのだから。
それにもし記憶が戻ったら、今の僕は消えてしまうのだろうか。記憶が戻ることを僕は心から望んでいるのだろうか。
……そんな曖昧なハッピーエンドは望んでいない。僕はあまり運が良い方ではないのだから、こんな結末に終止符を打って妥協するなんてあまりに身を任せ過ぎだ。
けど、そうじゃなくても……まだ何も整理が出来ていないあやふやな状況でも迎えられる現実があるのなら。
僕はそれに賭けてトゥルーエンドを目指そうと思う。
「手術、頑張るよ。結衣」
僕はあふれる涙を拭くことなく、無様にも真摯な思いで結衣へと顔を上げた。
「……うん、うんっ」
結衣は涙ぐんだ声で何度も頷く。
本当はまだ僕に伝えたいことが山ほどあるはずなのに、それを我慢してでも僕を心配させまいと必死に堪えている。
──ああ、そうか。
これが……。
◇◇◇
大切なことは思い出じゃない。
今から作る未来の形だ。
「もしかして、好きなの? あの子のこと」
結衣が帰ったあと、点滴の付け替えをする看護婦に惚気話を持ち掛けられた。
「気になりますか?」
「別れが多いこの場所で出会いなんて幸福感のある巡り合わせは少ないのよ」
看護婦は少し悲哀を込めて僕に言った。
「長い事務めているとね、こんな場所じゃ毎日のように"別れ"がある。でもごくたまに"出会い"もあるの、だから少し気になってね」
「ロマンチストですね」
「恋は常にロマンチックであるべきよ」
運命は残酷で非情で、時折見せる奇跡が何よりも華々しく映る。
僕がもし記憶を失わずに、彼女と日々を過ごせていたら、と。そう考えて至る結論は今の僕にはまだ理解出来ない。
だけど、一つだけ分かったことがある──。
「じゃあそんなロマンチック好きなお姉さんにひとつ、頼みごとをしてもいいですか?」
記憶を失っても、僕はやっぱり──。