Dry Cell
高速バスに乗ろう。
灯りのつかない車内を手探りで移動した私たちは、なんとか自分に割り当てられた席を見つけて座った。
「23時30分発、南行き。ドア閉まります」
運転手の声は強ばっていた。
頼りになるのは、後にしようとしているサービスエリアの弱々しい光だけ。分厚い雲に隠されて、月も出ない夜だった。
着席するとすぐにシートベルトを締める。腰と腹の少し上に一本ずつ。それと額にも一本。肘掛けに両手を置いてスイッチを押すと、自動で手首も固定してくれる。両隣からも同じような機械音と、パチ、パチとベルトを締める音が聞こえる。三列シートの車内は広々としていた。
「発車します」
見送りはない。目だけを動かして窓の外を見ると、激しく打ち付ける吹雪が見えた。寒々とした電灯に照らされて薄ら浮かび上がるサービスエリアが廃墟のように思えるのは、中にいる人達が今も息を殺して生きているからだろうか。
唸るようなエンジン音を誰もが恐れている。車内の空気は雪よりも重い。私たちは運命を共有していて、この旅路を共にせざるを得なかった。
その時、またしても運転手が口を開いた。
「本日はサウスライナーをご利用いただき誠にありがとうございます。このバスは、南行きです」
その言葉に思わず口元が綻んだ。思わぬアドリブに、車内の強ばった雰囲気も微かに弛む。
「走行中はお客様の安全確保のため、シートベルトの着用にご協力お願い致します。なお、停車してエンジンが止まるまでは、決して外さないようご注意ください」
いかにもそれらしい、特徴的なイントネーションが耳につく喋り方が、まるで本物の夜行バスのアナウンスのようだ。
「中円寺サービスエリアを出発致しまして、高速道を南へ走行します。なお、走行中は席をお立ちにならないようお願い致します」
当たり前だろ、と後方の席から野次が飛んだ。そう、このバスは一度座ってベルトを締めてしまえば、エンジンが止まるまで自分の意志で立ち上がることが出来ない。
それにしてもあの冴えない中年の男が、いざ制服を着て運転席に座ればこんなにユーモア溢れる人になるなんて。
強ばっていた声はすっかり落ち着いて、運転手はひとつ小さな深呼吸をした。私たちは皆、いつの間にか次の言葉を待っている。
「到着場所、到着予定時刻は未定です。気象状況によっては長旅が予想されますが、あらかじめご了承ください。車内灯は点灯致しませんので、速やかにおやすみの準備をお願い致します」
そうだ。目的地は分からない。いつ辿り着くのかを知る由もない。未だかつてない寒波が東北を襲って、何もかもが吹雪と氷に閉ざされたのはもう1年も前の話で、未曾有の災害に呑まれた私たちに助けは来なかった。携帯電話も、テレビもラジオも役に立たないガラクタと化す。誰もが自分の命を自分の判断で左右するようになった時、南へ向かえば凍てつく世界から逃れられるのだと信じることしか出来ない私たちは旅を選んだ。
中円寺サービスエリアにはたくさんの人が残っている。彼らは、あてもなく救いだけを求めて旅をする私たちをただ静かに見送ってくれた。はじめは潤沢だった備蓄物資も底が見えかけていて、このままでは長くもたないと誰もが理解していたのだ。
だから、誰も私たちを見送ったりしない。留めようともしない。
そして私たちは、単なる噂話を敢えて盲信する。吹雪に包まれ凍えながら死んでいこうとしているのは北国ばかりで、日本の西や南は実のところまだ生きているのだという夢物語だけが、このバスに乗り込むことをえらんだ人達のハイウェイを照らした。
「運転手は藤原です。安全運転で運行させて頂きます」
その言葉が、どれほど私の心に沁みたか言い表せない。
もうここには戻らないだろう。
どこへ行き着くのかも知らない。
そこに誰かがまだ生きているのかも知らない。
無謀でも、どうかこの旅が安全なものでありますように。遠くにあるはずの目的地まで辿り着けますように。
「狭い車内でございますが、目的地までおくつろぎ下さい」
その言葉が終わるや否や、バスは本格的に高速道路を走り始めた。途端に抗うことを一切許さないほどの眠気が私たちにのしかかる。一瞬にしてほとんどの人が眠りに落ちた。かく言う私も意識の大半を急速に奪われ、おやすみの準備なんてしてる暇がなかった。
それでも必死になって目を開いたのは、最後にひとつ、この旅路に祈りを捧げたかったからだ。もう運転手と乗務員役しか起きていないだろう車内を見回し、外に目を向ける。
もうずっと止まない吹雪が窓を打つ。夜の高速道はほとんど灯りがついておらず、時折切れかけた外灯が明滅しているだけだ。バスのライトだけが闇を切り裂いていく。
どうか私たちの命が尽きる前に、暖かな場所へ辿り着けますように。
このバスは、乗る者の命を燃料にして走る。走行中は少しずつ生命力を奪われていくため、私たちは少しでも存えるよう本能的な眠りに落ちる。
目覚めて休んで、生命力を補給して、また旅をして。
命が尽きるまで、走ることが出来る。
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時折見る夢は、私が中円寺サービスエリアに辿り着くまでの毎日のことばかりだ。圏外になったスマートフォンと何も映さなくなったテレビ、酷いノイズを垂れ流すラジオと一緒に生活していた頃のことは、思い出すだけで暗澹とした気持ちになる。
あらゆる情報が遮断されたのは、史上最強の大寒波が東北を襲った1ヶ月後だった。その頃から、街には人の形をした氷柱が乱立するようになる。もちろん人体が凍てついてしまうほどの気温であるはずもなく、原因は不明だった。ウイルスかもしれないし、夢かもしれなかった。でも、食料と水を求めて外へ出かけた家族は二度と帰ってこなかった。
初めは雪が怖くて部屋に引きこもった。情報が入ってこない恐怖はあったけれど、家族が帰宅しなかったあの日からは、外に出れば死ぬという確信を抱いていた。食料と水が尽きて死を覚悟し終えるまで、私は一歩たりとも家から出なかったのだ。
とうとう何もかも諦めて死ぬつもりで外へ出た私は、田城という若い男と出会う。彼は私の手を引いて、緊急避難のために造られたというバスの元へ連れて行ってくれた。
「噂によれば都市は全部ダメらしいが、逆に言えば人が密集して住む場所を避ければ氷漬けにはならなくて済むらしいんだ。つまり、安全なのは道だ」
大きな災害が起こった時は、全ての事柄が現実味を失っていく。普通の食事が特別になり、起こるわけがないと思うようなフィクションじみたことばかりが蔓延る。嘘、噂話が幅を利かせて、本当のことを手にするのは至難の業だ。
だから私も、出会ったばかりの男を信じたりしなかったはずだ。
「これも噂だが、各サービスエリアには国がばらまいた蓄えがあるらしい。少なくとも、凍るのを待って街に居座るよりかはマシだ」
「どうして蓄えなんて用意出来たんでしょう」
「さあ、誰に聞いたって分からないよ。唯一の情報源は噂だけなんだから、信じるよりほかないでしょ」
結局、信じないけど従った。田城に連れられて歩く街の氷は綺麗で、どれにも柔らかく重い雪が積もっていた。この中に家族がいるのだと思うけれど、こうなってしまってはもう見つけられないだろう。
「そう言えばさ、旧約聖書に似たような話があったよね。神様の言葉に逆らって後ろを振り返ったら塩の柱になっちゃったってのがさ」
彼は真っ直ぐ前だけを見ながら言う。
「ロトの妻?」
「そうそう、似てる気がするんだよね。これは天罰かもしれない」
そう言って、彼はへらへらと笑った。
あの日乗り込んだバスには、私と同じように生き延びて街に取り残された人達がまばらに座っていた。誰かが運転手に声をかける。「すぐに発車しろ。もう誰も来ない」
こんなバスは運転できない、と藤原は拒否した。やり取りを黙って聞いていた私はもちろん首を傾げる。
まさか、人の命を燃料にするなんて知らなかったのだ。
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エンジンが唸るような音で夢から醒めた。同じタイミングで目覚めた乗客たちのため息が車内に充満して、空気はかなり濁っている。
外は相変わらずの酷い吹雪だが、すこし明るい。昼間なのだろう、思ったよりも長い走行だったようだが体調は悪くなかった。
「お疲れ様でした。サービスエリアに到着致しましたので一時休憩と致します」
藤原の落ち着いた声が響くと同時にベルトが外れた。全身の筋肉が強ばっているくらいで酷い疲労は感じないあたり、このバスの燃費は思ったよりもいいのかもしれない。
乗客の何人かが真っ先に運転手の元へ行き、何やら相談を始めた。どのサービスエリアも物資が不足しているに違いなく、我々を受け入れてもらえるかは微妙なところだった。
結局、運転手の藤原と何名かの男性が連れ立ってバスを降りた。積み込める物資は限られているため、南へ向かう旅はこまめな補給と休憩が鍵になっている。
「……ねえねえ、上手くいくと思う?」
隣の席に座っていた男が大きく身を乗り出して話しかけてきた。私をこのバスまで連れてきてくれた張本人、田城だ。
「あわよくば物資も分けて欲しいよね。中円寺では満足に積み込めなかったから」
「難しいと思うけど」
「なんで?」
「私なら、いきなりやってきたバスにものを分けてあげられるほどの余裕は持てないし、なによりアテもないのに南に行くなんて無謀なことをする人達にあげられるものはないと思う」
「……うーん、まあそれもそうかあ」
納得したのか、田城はへらへら笑って席に座り直した。
しばらくして、バスを降りた人達が戻ってきた。物資の支援は難しいということ、休憩場所としての利用は受け入れること、休憩中の食料は分け与えるという条件が、私たちを一喜一憂させる。最良の結果ではないものの、破格ではあった。
「これ、かなり良い待遇だよね」
私がそう言うと、田城は楽しそうに肩を竦めた。
「まあまあなんじゃない」
私たちを迎え入れてくれたサービスエリアはそう大きくはなかったが、人でごった返していた。廊下にはダンボールが積み上げられ、その間を縫うようにして子供たちが走り回っている。やはり近くの都市から逃げてきた人々が主で、高速道を走って辿り着く者は少ないらしく、私たちはかなり珍しがられた。
「寒波が来て都市がダメになったばかりの頃は、よく自家用車でサービスエリアを転々とする人たちがいたんですけどね」
と語るのは、このサービスエリアに避難して随分経つ女性だ。熱いお茶を啜る私に、幼い子供をあやしながら微笑みかける。
「やっぱりどこかに居着かないとやっていけないでしょう? ここ最近は流れる人もいなくなってね……だからあなた達のバスが来た時は吃驚したの」
「私たちのこと、無謀だって思いますか?」
「——いいえ、だって仕方なかったんでしょ。詳しい事情は知らないけど、リスクが大きい選択をする時って、それなりに迫られて決断を下すと思うから」
未来なんて無いかもしれない子供を抱きながら、彼女は笑った。
「みんな一生懸命なんだからいいの。誰かのことを馬鹿にしたり出来ないから……あげられるものはないけど、せめてゆっくり休んでいってね」
お茶を飲み干して、私は食堂をあとにする。
サービスエリアには備蓄物資がある。ライフラインも生きている。 でも、誰かがこうなることを予知して準備を進めていたのなら、もっと沢山の人が生き延びられる対策は出来なかったのだろうか。もしも宇宙から日本を見たなら、都市より道の方が明るく見えるのだろうか。疑問は尽きない。
それでもこうして人々が肩を寄せあって避難所生活を送っているのを見ると、今の状況が幸運なものに見えてくるのだから不思議だ。生き延びたことは単なる不運だと思っていたけれど、少なくとも楽しそうに走り回る子供たちは、生きている今が楽しくて仕方ないのだろう。
施設内をふらふら歩き回っていると、廊下の先に田城の姿が見えた。私を見るなり駆け寄ってきて、カロリーバーを差し出した。
「はい、貰ってきたんだけど食べる? 昼ご飯まだでしょ。どうぞどうぞ、遠慮なく」
「田城さんのものじゃないのに……」
「手にした瞬間から俺のものだよ。はい、水もあるからね」
喉に詰まらないようにね、と言う。ありがたく受け取ってかじりつきながら、よく笑う彼の顔を眺めた。
「……田城さん、生きてるの楽しい?」
「え、なんで?」
「いつも笑ってるから。街で出会った時も笑ってたし、バスに乗る時も、中円寺に滞在した時も、今も笑ってる」
「そうかなあ。俺の愛想が良すぎるだけという説もある」
「へらへらすることしか出来ない、という説もある」
「それはかなり俺に辛辣だよ」
へへ、と気の抜けたように笑う。ほら、また笑った。
「……じゃ、こういう説はどう? 今までの人生めちゃくちゃ楽しくなくて、世界滅んじまえと思ってた。そしたら本当に滅びかけて大喜びしてるってのは」
それは、と答えかけて考える。本当かどうかは兎も角として、私も少しは共感できる内容だ。今までの人生は凹凸もなくて、劣等感に苛まれた私は部屋にこもりがちだった。今回は、そんな引きこもり気質が命を救ったわけだけど。
「それは、かなり悪役ぽいね。でもアリかな」
「つまり俺の人生これから始まる説ね。覚えといて」
そう囁いた田城は、やっぱりへらへら笑った。こんな人でも私の命の恩人なんだから、世界はどう転がるか分からない。
その日の夜は、数メートル先も見えないくらいの酷い吹雪になった。びょうびょう鳴る風の音が恐ろしくて、子供たちは早々に就寝した。私たちはといえば、ちょっとした休憩室と物置を貸し与えられ、ありがたく毛布を敷いて寝転んだ。風や雪が恐ろしいのは大人だって同じで、誰もが、どうなるか分からない明日と震える窓に身を縮ませている。
結局眠れるはずもなく、私は毛布を頭から被ったままするりと暗い廊下に出た。非常灯だけがぼんやり照らす施設内は、もうすっかり寝静まっているようだ。
寒さに震えながら歩き出すと、どこからが煙草の香りが漂ってくることに気付く。辿って歩けばすぐに犯人を見つけることが出来た。
「……藤原さん?」
「あ、どうも」
バスの運転手の藤原は、特に気にとめた様子もなく煙草をふかしながら私を見た。
「準備、出来てますよ」
「……え? 準備ってなんの?」
「田城さんから聞いてませんか」
あのへらへら男と会話したのは、昼ご飯を渡された時だけだ。
うーん、と気怠げに首を回した藤原は、煙草を壁に擦り付けると携帯用の灰皿に仕舞った。
「あと1時間後には出発です。くれぐれも気をつけて」
「は?」
「バレないようにお願いしますよ」
よく見てみれば、暗闇に浮かび上がった藤原はしっかりと制服を着込んでいる。今やどこにも雇用されていない元バスの運転手である彼にとってのプロとして最後の仕事が、この特殊なバスで都市から逃げることになったと聞いている。
「天候は優れませんが問題ありません。予定通り出発しますので、そのつもりで」
そう言い残して藤原は歩き去った。吹雪をかき消すほど大きくなった心音を気にしながら、私もぎこちない足取りで引き返す。
休憩室に戻ってみると、いつの間にか人が疎らに残るだけになっていた。みんなして動きが速すぎる。
慌ててほんの少ししかない荷物をまとめ、もう一度毛布を頭から被ってその下に隠すと部屋をあとにする。何事もないかのような静かな廊下に響く私の足音が五月蝿い。一瞬にして、強く吹く風が私の味方になった気さえした。
忍び足で廊下をあるいていると、もう明かりのついていない自販機の陰からぬっと人が現れた。
「ひっ……」
「出発の準備は終わった? 急いでバスに行かないとね」
「た、田城……何してるの」
「見ての通りでしょ」
そう言った彼は、抱えている大きなダンボールに視線を落とす。
「昼間、物資を分けてもらう時に備蓄庫の確認をしておいたんだよね。補給もできてラッキーでしょ」
「補給って……それ窃盗じゃない」
「手にした瞬間から俺のものだよ。さ、色々運ぶものあるから先に行くね。君は君の仕事をして」
「仕事?」
「時間稼ぎ。よろしく」
名演技頼んだ、とまた笑って、彼は素早く出口の方へ走っていった。追いかける間も問い詰める間もなく、後方から足音が響いてくる。ゆっくり辿るような足取りは、うちのバスに乗り込むメンバーではないだろう。
深呼吸をひとつして、風と雪の音に耳を澄ます。生き延びるためには多少の嘘が必要だ。
意を決して振り返ると、廊下の先に立っていたのは女性だった。昼間の食堂で話をした母親だ。
「あれ……どうしたの、こんな夜中に。眠れない?」
ええまあ、と曖昧な返事をしながら頭を回転させる。田城は時間稼ぎをしろと言った。出来る限り自然に会話を続けるべきだろう。
「風の音が五月蝿いせいか寝付けなくて。そちらこそどうしたんですか?」
「いやね、子供が夜泣きしちゃって……さっき寝てくれたんだけど目が冴えちゃったものだから」
大変ですね、と心のこもっていない感想が口から零れる。
「まあね、でも可愛い子供でしょう。やっぱり希望だから、つらくても頑張れるのよ」
「希望、ですか」
「私なんかは老い先短いし、こんな状況になったら諦めるくらいしかないんだけど、子供がいるともっといい環境にしたい、何とかしたいって思えるのよ。上手くいけば喜べるし、どうしようもなくなったら怒りも湧くし」
誰かのためなら必死になれるものね、と微笑んだ。それがとても綺麗で、私は惨めな気持ちにさえなる。私は私のために必死だ。
「あら、ごめんなさいね。こんな話をしてたら尚更寝付けなくなっちゃうよね。もう私も戻らないと」
「いや……なんだか素敵な話を聞けて嬉しいです」
そう言って、私はへらへらと笑った。
人生これから始まる説、と言う田城の言葉が脳裏にこびり付いている。そう、私だけの人生は今ここから始まっていく。自分を守るためだけ、自分がなんとか生き延びるためだけの旅路を前にして、咄嗟に出る笑顔はこの人のように美しくはなかった。
背中を向けて、真っ暗な廊下を自然な足取りでゆく。肌に染みるような寒さも雪も、疎ましいが憎んでいるわけでは無い。
外へ出ると吹雪は少し落ち着いていた。朝になって、私たちがいなくなっていることに気づいたらあの女性は驚くだろう。物資が減っていることを知ったら怒るのだろう。そんな感情のひとつひとつが美しい。
バスへの荷物の搬入は終わっていて、車内ではみんなが待っていた。慌てて席につくと、田城がまたしても身を乗り出す。
「お疲れ様ー。首尾は上々?」
「何もしてないけどね」
「いやいや、おかげで全然バレてないよ」
そんなことより、と私は少し語気を強める。
「どうして今夜のこと教えてくれなかったの? 出発するなんて知らなかった」
「演技下手そうだから、早めに教えたらどこかでボロ出すんじゃないかなーと思ったんだけど……俺の杞憂だったね。ごめん」
謝りながら笑っている彼を見て怒る気も失せた。似たような笑顔を返す私も私だ。
微かに震えていた車内にエンジン音が響いて、抑えめな藤原のアナウンスが響いた。
「それでは南へ向けて、安全運転で運行させて頂きます」
次に目覚めるのはいつなのか、どこなのかは分からない。だからこそ強い眠気に抗って、私はまたしても旅路に祈りを捧げる。
寒々としたサービスエリアの明かりが遠ざかっていく。
窓を打っていた雪の音が微かに重くなった。霞む視界に映る窓には溶けかけた粒がいくつも付着している。霙だ。南へ向かう私たちは、こんな僅かな雪の違いを希望の代わりにして進む。
微かにゆるんだ重たい雪の花が、凍りついたハイウェイを濡らしていった。それを蹴散らし、夜を切り裂いて、目的地もなく旅をするサウスライナーは、誰もが寝静まった深夜に出発する。
気休めの希望