5《君に僕の本当はあげられない》
自宅の庭の楡の木の下に、ロゴスは中食の支度をさせた。
裕福な人間は一日に四度の食事をとる。その内の三度目が中食と呼ばれる。細かな縦の割れ目が皺だらけの農民の老人を思わせる楡の幹のそばにテーブルを置き、従姉とその弟と自分の三人で食事をとることにしたのだ。
昨夜パルティタをなだめて寝つかせたあと、ロゴスはそっとベッドを抜けだし、寝室の扉の外に立つ兵に命じて、別の場所で監禁されているオプトをこの屋敷に移すよう手配をさせた。使者を夜明けに出立させたが、結局オプトの到着は遅朝食の時間に間にあわず、遅朝食や晩餐と比べて、軽めの食事となる中食でもてなすことになった。
後見人の叔父が捕らえられて以来、三週間をほぼ室内に閉じ込められて過ごした二人のために、ロゴスの従者が屋外での食事を是非にと勧めたのだが、再会に気をとられる姉弟には、頭上に大きく枝を広げた楡の若葉は目に入らないようだった。
楡の花の時期は過ぎているが、花の美しい植物ではないのでそれは別に良い。そろそろ熟した枯れ色の小さな実が、これまた小さな翼で風に舞いながら落ち始める頃だった。
姉と同じ髪と目の色をした五歳のオプトは、姉を見るなり飛びつくようにその膝にのり、首にしがみついていた。
ロゴスはかたわらの席にいて、この屋敷の主人である自分を初対面で無視したその無邪気さに、あからさまに眉をひそめる。礼儀を知らない子供がロゴスは嫌いだ。千切ったパンをワインスープに放りながらいきどおる。
姉と弟が互いに夢中になっている間、ロゴスはパンをテーブルの向こうの地面へ放った。従姉たちの様子を監視してもいるが、愉快な興味がわくものではない。若草の上にスープの滴を滴らせて落ちたそれを、二匹の犬たちが我先にと鼻を突きだしてとりあう様子が、暇を持て余すロゴスをささやかに楽しませた。
マナーとしては、テーブルの下で待つ犬たちには食べ残しを与えるのが正式であるが、食べ物は自分が口にする前に犬たちに与えるのがロゴスの習慣となっている。
ふと気がつくと、スープの染みが散る白いテーブルクロスの上には、自分の分の食べ物が残り少ない。犬のためにパンやスープを用意させたわけではないので、自分の口にもつまんで運んだ。亡くなった兄は身分に相応しい優雅で巧みな指使いだったが、ロゴスは指を使った食事作法が苦手だ。暗殺容疑者たちに注意を向けて手元を雑にしていると、汁気を吸ったパンが口の端だの顎だのにぶつかった。
二人は食事には手をつけず、弟が狭い部屋に閉じ込められた不満とお気に入りの女の召使いに会えなくなった不安を訴え、姉がそれにいちいち同意してうなずくという形でやりとりを続けている。弟にとってはこの姉がいつもの姉なのか、それとも幼すぎて相手の内面の人間性の変化に違和感を抱けないのか、ロゴスのようにパルティタをいぶかる様子はなかった。
ロゴスが皿を空にする頃、三週間分の鬱憤を吐きだして満足したのか、久しぶりの移動で疲れがでたのか、安心したようにオプトがパルティタの肩に小さな顔を埋めた。
幼児を身近にして生活をしたことのないロゴスが、どうあしらうのかと横目で眺めていたら、パルティタは小さな金色の頭にそっと手を置いた。本質的に自分と近いところがあるため子供好きとは思えないパルティタが、困ってとった行動かとも思ったが、弟に向けて伏せられた瞳にはいたわりの感情が滲んでいた。
あきれるほどやさしい光景だった。
ロゴスにオプトに対する好意など存在しないが、それでもパルティタがオプトを気にかけて接していると、胸をなで下ろす思いがする。やさしくされるオプトに、人にやさしくするパルティタに、ほっとする。
自分の身を守るために行ってきた情報収集や情報操作、あるいは交渉の過程で、対象や自分のつく嘘に慣れて鈍ったロゴスの心が、罪人が罪人であるだけでない、身勝手な人間が身勝手なだけでない光景を見たいのかもしれなかった。
ささやかな願いを当てはめるには、この二人が負う罪は重すぎたが。
パルティタの弟へ向けるまなざしに聖母のごとき深い慈しみがこもっていた。十数年しか生きていない少女の瞳に、そんな感情が宿るなど不自然な事実だ。
やはり、嘘なのだろう?
ロゴスの瞳はパルティタを見据えて虚ろになっていく。嘘だから、それほどまでに善人然としていられるのだろう?
他者をゆったりと抱く体勢や、頭をなでるやわらかな動作が、欠片ほどの戸惑いも嫌悪もないのだと伝えてきても。弟でなくともすがりつきたくなるような清らかな人間が君で、不自然な事実が崇高な真実でも。
美しい嘘を吐く彼女の近くで、醜いものがはっきりとしていく。
ロゴスの目が細められる。
君を前に感じる痛みも含めて、パルティタ、僕は君のことが好きです。君から与えられる緊張感は楽しい。この僕が油断できない優秀さは得がたい。
後見人である叔父の企みを理由に、五歳児を裁くことはロゴスにもできない。だがその五歳児が存在する限り、パルティタは弟を自分の分身として王位を目指すだろう。記憶の一部の喪失が嘘なら、ロゴスが見逃した途端にたちまちに。喪失が真実なら、新しい記憶を積み重ねるうちにやがて元の自分に戻って、そのあとに。そうして今度はもっと慎重に、可能な限り、何度でも挑戦するだろう。
君は自分をとりまく世界の様相に怒っている。そうして、自分を踏みつけた世界に勝つことを望んでいるのだ。
あるいは僕の知らない、世界に踏みつけられる前の君が、いまの君なのかもしれない。
けれども君に僕の本当はあげられない。
聡明で負けん気の強い自慢の従姉。独りで優秀な君を僕がいまさら救えるとは思わない。救えると信じていないのに、聖者の真似事をするつもりはない。僕は君を裏切る理由を集める。
眠ったらしいオプトの背をなでるパルティタが、ロゴスの視線に気づいて、気をつかわせたことを詫びるように笑う。続いて、とんとん、と指で顎を指し示す。ロゴスは袖をひきよせて口もとの汚れを拭う。気を許したパルティタの表情が、昨夜のロゴスの欺瞞をあざやかにする。
新緑の楡の木の下で、遠巻きに従者と兵に囲まれて顔をあわせている君と僕。不意に既視感を覚えた。四年前のリトモマキアのゲーム盤を挟んでの実に他愛のない子供同士のやりとりの記憶がロゴスに蘇った。
「再勝負をしてあげても良いけど、どうせならなにか賭けない?」
「持ち物でも賭けますか」
「つまらないわ。もっと真剣になれるようなものがいい。たとえばあなたが勝てたなら……、私があなたの
お嫁さんになるとか」
「……それでは勝つ気がなくなります」
「生意気ね。だったら私が勝ったときには、あなたに私のお婿さんになってもらうから」
「……なぜ逆になるのですか」
ロゴスは笑った。乾いた笑い声が立て続けに自分の口から漏れた。
大きな音ではなかったが、和やかな場にそぐわぬ歪みのある笑い方に、パルティタが眠る弟を気づかって咎めるような視線をちらりと向けた。ロゴスは気に留めない。
なるほど、あれをそうだと云うのなら、確かに自分とパルティタは互いに了承した婚約関係にある。パルティタは嘘をついたわけではない。だが……記憶の喪失があるにしろ、ないにしろ、重みのない事実を自分の身を守るために土壇場で最大限に利用したに過ぎない。
あいもかわらず、強かな従姉。
ロゴスは常に思ってきた。あのときはたまたまリトモマキアだっただけで、それがチェスだったとしても、トランプだったとしても、彼女は頭を使うゲームなら、なんだって得意だった気がする。
パルティタが偽りの仮面を外すように、この人間関係はゲームなのよ、と笑ったら似合う気がした。いまもまだ、僕と彼女はゲームの中にいる。
ロゴスの笑いはおさまり、穏やかな静寂が訪れた。パルティタが理由を問うような怪訝な顔をしていたが、ロゴスが答えないので自分で気持ちにけりをつけて、眠ったオプトに視線を落とした。
「そろそろ食事をとりませんか」
ロゴスがパルティタに声をかける。
ややあって、静かな声でパルティタが尋ねた。
「叔父さまはどんな処刑方法になるのかしら……あまり苦しまない方法だと、いいのだけれど……」
あなたのお父上と同じですよ。彼に死を望まれたロゴスは容赦なく答えた。しかしパルティタは皮肉を理解できずに哀しげに首をかしげた。
「……君が僕に話して聞かせたのですよ」
パルティタの美しい容貌に不安が刻まれていく。人格の変化に辻褄をあわせるための演出かもしれない、と思う。だが本当なら、気の毒に思う。
しかしそれでも……僕は君を裏切ります。
僕は王として生きることを決めたので、この先、躊躇しても、迷ったふりが苦しくても、君が泣き叫んだとしても、必ず君を裁きの場へひきだします。
すみません。
パルティタ……本当に、本当にすみません。
感情の僕が君を選び、理性の僕が君を見殺しにする。
―――世界が反転するように優しい光景が遠ざかった。
《終わり》