1《他人に踏みにじられたことのある人間は他人を踏みにじることを躊躇しない》
リトモマキアという「数の戦い」を意味する盤上ゲームの名を聞いてロゴスが思い浮かべるのは、顔を覚えるのも面倒なほど数多く存在する従兄弟の一人、パルティタである。十五歳のロゴスより二つ年上になるパルティタは、リトモマキアが非常に強かったのだ。
六種類の石の駒を使って相手の駒を盤上から取り去っていくことを目指すそのゲームは、ロゴスが国王の二十二番目の孫として生まれた頃に西洋諸国で大流行した。数学の苦手な人間には敬遠されがちな難解なルールを持つ。
大勢の従兄弟たちの中にあってロゴスは、周囲の大人たちにあまり知られてはいないことだったが、リトモマキアが得意だった。聡い子供だったのだ。リトモマキアに限らず、知性を必要とするゲームで熟達した大人相手でも誰かに負けたことはなかった。
だから四年前、自分の屋敷に逗留した親類への接待のつもりで気軽にゲーム盤を挟んだとき、たった二つ年上の従姉に自分と同等の実力を見せつけられたのは、ロゴスにとって忘れられない衝撃だった。
新緑のまぶしい季節、自分の屋敷の庭での出来事だった。相手は陶器製の人形のように白い顔に、口にふくんだら甘く溶けてしまいそうな淡い金色の髪と、五月の空のような青い瞳の美少女だった。
さすが僕の従姉と云ったところか。ロゴスは内心の動揺を感心にすり替えることに必死だった。そうしなければプライドを守れない。十一歳の子供らしからぬ葛藤を抱え、平静を保つことに努めていると、それまで人の好さそうな顔を崩さなかったパルティタが、盤上の赤や黒や白に色を塗られた石の駒を見据えて、いつのまにか唇の端を薄くひき上げ、こちらと同じ純真らしからぬ気配を漂わせている。
ロゴスと目があうと、まるで男のように不敵な微笑を返した。
あらあなた、けっこうやるのね。
そんな尊大な言葉が似合うまなざしだった。
さきほどまでの甘く儚げな気配はどこへ霧散してしまったのか。互いの従者や警護の兵がほどよく距離をとって二人を囲んでいたというのに、唖然としているのは、向かいあって一瞬の表情を捉えたロゴスだけである。
単純にゲームに熟達していて、幼い心のままに自分の優勢をはしゃぐなら、なにも警戒するところはなかった。だが彼女の態度には、自分と共通するような本質が見え隠れする。すなわち深く澱みながら自身の高い能力を確信している不遜な本質である。
その日、ロゴスは五度対戦して、三度負けた。完全勝利を目指していくども再勝負を申し込むロゴスも執念深かったが、それに嫌な顔をせずつきあうパルティタも相当に粘り強い人間だった。
社交的な理由からロゴスに親切にしていたのかと云うと、そうではない。けっして自分から勝ちを譲らなかったパルティタは、一見そうは見えないのに、ロゴスに劣らず負けん気が強い人間だったのだ。
それまでよく知らない相手だったものが、半日の出来事で記憶に焼きつけられる。腹に一物を持った油断ならない従姉。それがロゴスが四年経ったいまもパルティタに抱く印象である。
将来に渡って慎重に注意を向けなければならない相手と心に留め置いた。
そのパルティタの後見人である叔父が、反逆罪で捕らえられた。三週間前のことである。
ロゴスが四ヵ月前に王位継承者と決まったので、それを暗殺して甥を代わりに王位継承者に据えようとしたのだ。
パルティタはどういうつもりでいたのだろう、と暗殺計画者たちの捕縛に向かう兵を選びながら、ロゴスは少し考えた。
君の両親はどんな風に亡くなったのか、と尋ねたとき、パルティタはなんでもないことのように答えた。
「……脅える子供をからかって、暗殺者たちは父親の生首を目の前に突きだしたの。母親のほうは部屋が暗くてよくわからなかったわ。弟が生まれた年のことよ」
五歳の弟の他に兄弟のいないパルティタ。子供とはつまり、自分のことなのだろう。
ああ、殺すね。それは殺すだろう、従弟くらい。弟を王位につけるためなら。
他人に踏みにじられたことのある人間は、踏まれた経験のない人間ほどには、他人を踏みにじることに躊躇を持たない。
パルティタにしろロゴスにしろ、従兄弟たちで両親が揃っている者は少ない。なにしろ、十一人存在したこの国の王の息子たちは王位継承権を争い、暗殺だの内乱だので、ほとんどが殺しあった後だった。従兄弟の数も、年長者から順にずいぶんと減っていた。その結果として、現国王の亡き第八王子の二番目の息子というロゴスが次代の王となることが決定したのだから。
亡き第四王子の一人娘になるパルティタは、両親が亡きあと、幼い弟と共に、母の弟にあたる叔父の元へ身をよせている。
ロゴスの兵がパルティタの叔父の屋敷に雪崩込んだとき、パルティタは自分に手を伸ばしてきた兵から逃れようと身をよじって、石の階段を転げ落ちた。兵の話では、命に別状はなかったものの、頭を打ちつけたショックで記憶の一部を欠落させたらしい。
目覚めた彼女は叔父の企みなど知らなかったと主張した上で、ロゴスの婚約者である自分が確かな証拠もなく罪人扱いを受けるのは無礼だと、激しい語調を兵に浴びせたと云う。それが事実であるならばと、扱いに困った兵がロゴスに事態を報告してきた。
誰が僕の婚約者だと?
彼女が風にも当たらぬようにして育てられた世間知らずな娘のように、後見人である叔父の企みを知らずにいたはずもない。記憶の喪失も、そもそも階段を落ちたことさえも、罪を逃れるための演技と思える。
直接問いただすつもりで自分の屋敷に連行させると、転落した際に捻挫したという右足をドレスの下でひきずって現れたパルティタは、泉のように澄んだ目を向けてロゴスにまず違和感を与えた。
四年ぶりの最悪な再会の第一声は、助けて、だった。
「ロゴス、私、なにも知らないのよ。……どうして叔父さまが捕らえられたのかもわからないの。弟はどうしているの。……ねえ、私たち婚約しているでしょう。お願い、助けて……」
淡い金色の髪も、五月の空のような青い瞳も、陶器製の人形のように整った顔立ちも、確かに記憶にある少女が成長した姿だ。目の前のすらりと背の高い少女が十七歳になるパルティタであることは疑いようがないのだが、この少女が、風にも当てぬようにして育てられた世間知らずな娘のように涙を浮かべて、崩れるようにロゴスの腕にとりすがる。
誰だこれは、と思った。