第参拾壱話 狂気的愛情
牛の首を倒した後、雪緒は泣き疲れたように眠った。
もちろん、現代で眠っている間は平安に行っていたのだけれど、平安で起きても何も言う気になれなかった。ただ呆然と自分の母を手に掛けてしまったという感覚だけが頭の中を支配していた。
呆然とする雪緒を見て、晴明達は心底から心配をしたけれど、何も話さない雪緒から無理矢理に聞き出す事もせず、ただただ静観をしていた。晴明は心配そうに雪緒の側を離れる事はしなかったけれど。
そんな平安を終え、現代を迎えた。
気付けば土御門家の雪緒がお邪魔している部屋に寝かされており、室内には雪緒だけであった。
何もする気が起きなかったけれど、事の顛末を確認しないわけにはいかない。
雪緒は起き上がると、部屋を出る。
時間帯的に、食堂であれば誰かいるだろうかと思い、食堂へ向かう。
「あ、雪緒くん。起きたのね」
途中、仄と出くわす。
「ああ、お早う」
「お早う。朝食出来てるから。食堂に行きましょうか」
「ああ」
仄と一緒に、食堂へ向かう。
「あの後、どうなったんだ?」
雪緒が道中尋ねれば、仄は少しだけ言いづらそうにしながらも、口を開く。
「……町中に居た牛女は牛の首が消滅した事で沈黙したよ。怪異の性質が残ってるから、浄化が必要ではあるけどね」
「そうか」
「けど、牛の首の養分になってしまった人達は……」
「言わなくても良い。わかるから」
十中八九、死亡してしまっているだろう。牛の首の力として吸収された時点で、もはや助からない。餓えた者は、貪るのも早い。雪緒が牛の首を浄化した事で、怨霊になっていない事を祈るばかりだ。
雪緒は自分の手を睨む。
……この手で、いったい何人の人生を終わらせたんだ……。
幽霊になれば、もしかしたら……。なんて思ったけれど、幽霊を見れる人の方が稀で、放っておけば幽霊になった人が悪霊になってしまう。だから、雪緒が浄化をしたのは救いでもあるのだ。だからといって、そう簡単に割り切れるものでもないけれど。
「……あまり、自分を責めないでね」
「ああ」
頷くけれど、責めない訳にはいかない。きさらぎ駅の時も猿夢の時も、後悔はある。いつだって、後悔ばかりだ。
上の空で頷く雪緒に、仄はそれ以上は何も言えなかった。
食堂に着き、雪緒が朝食を食べている時は周囲の視線が引っ切りなしに雪緒に突き刺さる。仄には陰陽師として事の顛末を報告する義務がある。そして、他の陰陽師にはその事の顛末を知る必要がある。だから、今回の怪異が牛の首で、その牛の首となったのが雪緒の母親だった事も、他の陰陽師は知っているのだ。
まるで腫れ物を扱うかのような視線に雪緒は少しばかりうんざりする。
そんなふうに見るくらいな放っておいてくれよ……。
ご飯の味を味わう余裕も無いくらいに早く食べ、居心地の悪い食堂から逃げるように部屋へ戻る。
そして、私服に着替えて炎蔵の元へと向かい、帰宅する旨と、お世話になったお礼を言う。
炎蔵は心配そうに雪緒を見たけれど、雪緒に一人の時間が必要だと察し、何かあったらいつでも自分を頼りなさいと言って雪緒を見送った。
雪緒は炎蔵に頭を下げ、土御門邸を後にした。
家に帰ろうと土御門家を後にしたのに、雪緒の足が向かう先は自宅ではなく、件の商店街であった。
商店街は封鎖されており、立ち入り禁止となっていた。それもそうだ、昨日此処で激しい戦闘があったばかりなのだ。アスファルトはえぐれて溶けているし、お店も幾つかボロボロになってしまっている。
当たり前だけれど商店街前には楸の姿は無い。それどころか、幽霊一人いやしない。全て、牛の首の養分となったのだろう。
雪緒は商店街を後にし、別の場所に歩を進める。
昔楸とよく一緒に遊んだ公園。楸が毎日送り迎えをしてくれた幼稚園。楸と明乃と訪れたケーキ屋さん。楸との思い出の場所へと、自然とその足が向かっていた。
そこには当時の面影があり、思い出があり、けれど、そこにはもう楸はいない。この世界のどこにも、楸はいやしないのだ。
それが辛くて、胸が痛くて、苦しくて……。
一度目も、二度目も、あまりに唐突だった。唐突に、楸は雪緒の目の前から居なくなった。そして、二度目は考えうる限り最悪の方法で目の前から去ってしまった。
楸とよく遊んだ公園の長椅子に座り、雪緒は涙を流す。
叫び、喚き散らしたい衝動を必死に堪え、涙を流す。
泣いている雪緒に影が差す。誰かが、雪緒の前に立っている。
「大丈夫、陰陽師?」
声と、呼び方で分かる。
「……ああ、大丈夫だ」
「でも、泣いてるじゃん」
「大丈夫だって……」
「泣いてるんだから、大丈夫じゃないじゃん」
「大丈夫だよ……」
「でも……」
「大丈夫だって言ってるだろ!! いいから放っておいてくれよ!!」
みっともなく、声を荒げてしまう。
声を荒げた雪緒に、びくりと身を震わせる青子。けれど、青子は雪緒の隣に座ると、雪緒をそっと抱きしめた。
「あの、ごめんね……あたし、こんな事しか出来ないから」
震える雪緒の身体を、青子はめいっぱい抱きしめる。
もう何も怖くないように。雪緒を守るように、抱きしめる。
分かってる。こんな事じゃ雪緒の心に空いた穴は埋められない。他人では埋められない穴が、雪緒の心にはぽっかりと空いてしまっているのだ。
だから、せめてその穴を隠してあげたい。埋められなくても、覆ってあげたい。薄くても、軽くても、一時でもその心の穴を隠してあげたいのだ。
「放っておけないよ。陰陽師がこんなに泣いてるのに、放っておける訳無いよ」
ぎゅっと、雪緒を抱きしめる腕に力がこもる。
抱きしめて、気付く。
……ああ、陰陽師って本当はこんなに小さかったんだ。
背丈は当たり前だけれど雪緒の方が大きい。だから、これは背丈の話ではない。
雪緒は抱きしめられている現状を許容してしまっている。もしくは諦めている。抵抗する事も出来ない程にその胸に空虚が広がっているのか、誰かにこうして甘えたかったのか、そのどちらであっても関係ない。どちらであっても、雪緒の大きさを知るには十分だから。
雪緒には二度も救われた。前を歩く雪緒の背中は、とても頼りになって大きく見えた。けれど、同い年だし、友達だから、助けたいと思った。
違う。全然違った。助けたいと思ったじゃ駄目だったのだ。助けなくちゃいけなかったのだ。
だって、雪緒は力があるのに、こんなにも無力なのだ。目の前の人を助けるのに精一杯で、両手から零れて逝く者を拾えないくらいに、小さいのだ。
特殊な事情と特殊な力を手に入れてしまっただけの、少しだけ背伸びをしている子供なのだ。ちゃんと、助けてあげなくてはいけなかったのだ。
あの時感じた背中の大きさが、今は酷く小さく見える。
「ごめん、ごめんね……」
「なんで、お前が謝るんだよ……」
「だって……陰陽師を助けられなかったから……」
青子は涙を流す。
自分は今までこんなに小さな背中に頼っていたのかと。それを支えてあげられなかったのかと。事情を知ってるのに。失う事を怖がっていた事を知っていたのに。
「ごめんね……ごめんね……っ」
青子は泣きながら雪緒を抱きしめる。
「だから、なんでお前が……」
言いながらも、雪緒も涙を止められない。一度流れてしまった悲しみの涙は、そう簡単には止められない。たとえそれがみっともなくとも、同級生の女の子に見られていようと、止められないのだ。
今まで溜まりに溜まった楸を失った悲しみをせき止めていた物が無くなった。溜まりに溜まった悲しみが溢れてくる。
雪緒は悲しみが流れるまま泣いた。人目も憚らず、醜聞も気にせず。
しかし、誰も二人には注目しない。まるでそこに誰もいないように通り過ぎる。そんな不可思議な現象も、泣く事に精一杯な雪緒達には気付くよしもなかった。
何故、何故なのだ? 何故そこにいるのが自分ではない。そこにいるべきは自分だ。そこは私の場所なのだ。
そんな醜い嫉妬の感情が胸中に溢れ返る。
邪魔だ、退け売女! そこは貴様が居て良い場所ではない! そこは私の場所だ! 貴様程度が居ていい場所じゃない!
青子を呪い殺さんばかりの怨念。しかし、それはしない。出来ない。そうしてしまったら道筋が狂うから。未来が変わってしまうから。
けれど、しかし、ああなんと狂おしい。近くにいるのに、同じ場所にいるのに、顔を合わせる事も、言の葉を交わす事も、慰める事も抱きしめる事も頭を撫でる事も出来ないなんて!!
……けれど、ああ、それをしたいと思っているのはあの時から変わらない。あの時からずっと思っている。思い続けている。
その御髪に触れて優しく撫でてあげたい。その悲しみに満ちた顔を抱きしめたあげたい。真正面から抱きしめて、雪緒の体温を感じながら雪緒に体温を感じてほしい。
あの時は出来なかった。だから、今それをしてあげたい。雪緒に触れたい。抱きしめたい。ああ、ああ、自分だけのものにしたい。誰にも渡したくない。
狂おしい程の情念が渦巻く。
何時からだろう、こうも雪緒を思うようになったのは。何時からだろう、想いが常軌を逸し始めたのは。何時からだろう、雪緒に近付く誰も彼もが憎くてしょうがなくなったのは。
……始まりなど関係の無い事だ。今の私にとってこの感情が正義。この感情こそが私。
けれど、それにしたってあの女は邪魔だ。何故そこにいる? 何故雪緒を抱きしめている? 守れないくせに、弱いくせに、どうして隣に居ようとする? ああ、本当にむしゃくしゃする。本当に腹立たしい。今すぐ殺してその臓腑をぶちまけて畜生の餌にしてやりたい。
雪緒はお前のじゃない、私のだ。だから抱きしめるな。だから触るな。だから視界に入れるな。雪緒の意識の内に入り込むな。雪緒にお前を思考させるな。鬱陶しい売女め。存在すら目障りだ。お前がこれに載っていなかったらすぐにでも殺してやるのに。
青子に対する殺意が沸き上がる。
腹立たしげにしながらも、青子から悲しみにうちひしがれる雪緒に視線を移す。
ああ、ああ、可哀相に。しかし仕方の無い事だ。これに書かれている以上この道は避けられなかった。この結果は決まっていた。雪緒が悲しむのは私も望むべくところではない。雪緒には笑顔でいてほしい。そして、その笑顔を私に向けてほしい。けれど、仕方ないのだ。これは私と雪緒が逢うのに必要な手順なのだ。ああ、本当に済まない。けれど堪えてほしい。もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐで私達は逢える。
青子を見ていた時と違い、心の中から深い深い愛情が溢れ出てくる。青子に向ける殺意など比較にならないほどの情念が溢れる。
再び巡り会えたら何をしよう。今まで出来なかった事をしたい。してあげたい。存分に甘やかして、私しか見れないようにしたい。そのためには色々邪魔だ。あれもこれも邪魔だ。一番邪魔な者は大丈夫だ。すぐに消せる。その算段は整っている。大丈夫。私と貴方は一緒に居られる。
狂おしい程の愛情が沸き上がる。雪緒を見ているだけで、無限の愛が生まれる。無限の愛で心が満たされる。かつてないほど愛が溢れる。今すぐに雪緒が欲しくて堪らなくなる。
……しかしまだだ。まだその時ではない。至極惜しい事だけれど、今は見送ろう。今事を起こしてしまえば確実に私は負けてしまう。焦りは禁物だ。大丈夫、ずっと待っていたのだ。後少しくらい我慢できる。
「ああ、待っていて。もうすぐ、逢えるから」
言って、雪緒が落ち着いたのを見計らって人避けの結界を解除する。
全ては私のため、全ては貴方のため。待っていて、私達は直ぐに逢える。
最後に青子を一睨みし、雪緒には愛情の篭った眼差しを向けた。
幸か不幸か、二人はそれぞれ向けられた感情に気付く事はなかった。それに気付ける余裕も無かった。
影に潜む想いは姿を消す。
最後に笑うのは私。最後に幸せを掴むのは私。これは結果の見えた出来レース。さぁ、存分に踊り狂え。向かう先は私だけが知る終結だ。