第弐拾陸話 変性、牛女
日の沈み始めた町を、土御門家目指して歩く。
行きの時の不安も緊張も無く、随分と肩の力が抜けている。
「うぅっ……良かったでありまするなぁ」
「まだ泣いてんのか?」
「うぅっ、申し訳ござりませぬ。某、普段はこうも涙脆くは無いのでありまするが、主殿の事となると、途端に……うぅっ」
ハンカチで涙を拭いながら、小梅は言う。
楸のところから帰りだした途端に泣きはじめたのだ。最初はぎょっとしたけれど、良かったでありまするなと言っているのを考えるに、楸と無事に会えた事を心から喜んでくれている事は直ぐに分かった。
しかし、ずっとハンカチを涙で濡らし続けているのを見ると、どうにも泣き過ぎな気もする。
「そんなに泣いてたら干からびちまうぞ?」
「ううっ、ぐすっ。……そうでありまするな。主殿が泣くのを堪えているというのに、某が泣いている訳にはいかないでありまするな」
「うっ……小梅、俺が泣いてたって誰にも言うなよ?」
「勿論でござりまする! 某、主殿の不名誉となるような事を言うつもりはござりませぬ!」
「いや、別に不名誉じゃないけどさ」
ただ、この歳になって母親に縋って泣いたとあっては恥ずかしいのだ。
雪緒の場合、事情が事情ゆえに仕方の無い事だけれど、それでも母親に縋って泣いたという事実はあまりにも恥ずかしく、しかもそれを小梅に見られていたとあれば恥ずかしさも増すというものだ。
まぁ、それを不名誉とは思わないけれど。
「……一応、姉さん達にも言わないとな」
「姉君殿も喜ぶでありまするな!」
「どうだろうな。姉さん達は見えないから、あまりぴんと来ないだろうし」
「ですが、他ならぬ主殿の言葉であれば信じましょう。主殿は、母君の事で詰まらぬ嘘はつかぬでありましょう?」
「まぁ、そうだが……」
詰まらない嘘など付けようはずが無い。誰もが苦しんで、悲しんでいるのだ。詰まらない嘘など付ける訳が無い。
「それに、一時的に幽霊を見る事なら出来るでありまする。晴明様に教えてもらっては?」
「そうだな」
平安に行ったら早速聞いてみよう。そう考えているとーー
「ーーっ!!」
ーー突如として怪異の気配が発生する。
この気配、牛女か……!!
「来い!」
人気の無い事を確認し、雪緒は即座に破敵剣を喚び出す。
「主殿! 主殿はまだ戦ってはいけませぬ!」
「言ってる場合か! 昨日よりも数が多いだろこれ!」
日に日に増えている牛女の気配。そして今日、その気配は初日の数を軽く凌駕していた。
廃工場の結界の収容も間に合わず、別の場所に結界を作ってそこで保護をしている。護身剣でずっと浄化の結界を張っているけれど、浄化が間に合わない程の牛女の数だ。正直、いつ手遅れになってもおかしくない状況だ。
「俺も出るぞ!」
「しかし主殿!」
「動けるんだから大丈夫だ! 小梅は早く家に戻れ!」
「ーーっ。承知致した。主殿、無理だけはいたしませぬよう!」
「分かってる! 散々道満に脅しつけられたからな!」
小梅は雪緒が引く気が無い事を悟ると、無駄な問答を止めて雪緒の言葉に従った。
小梅が見る限り、雪緒は決して戦えない状態ではない。休み、よく食べたからか、身体や魂の方は健常だ。しかし、それでも少しだけ万全には遠い。本当であればもう少しだけ休んでいて欲しいけれど、牛女の数が尋常じゃない。
何かあったときに、圧倒的力を誇る七星剣が現場に在った方が良い。
万全でなくても、健常であれば問題は無い。そう判断し、小梅は食い下がるのを止めた。
破敵剣を持ち、雪緒は屋根を伝って牛女の発生した場所まで急行する。
すでに他の陰陽師も出動しているのか、跳び回る影が幾つか見える。
雪緒は気配の少ない場所ではなく、怪異の気配が密集する場所へと向かう。細々したのは鈴音の下僕がなんとかしてくれる。それよりも、密集しており被害が大きくなりそうな場所へと急行するべきだ。
それに、そこへ向かう理由はもう一つある。
「……母さん……!!」
怪異の気配が密集する場所。そこは、楸の居る商店街前であったのだ。
もしかしたら、楸は……いや、そんな最悪の事態など考えるな。今は速く向かうのだ。
とんとんと屋根を蹴り、雪緒は商店街にたどり着く。
そこには、人の代わりに牛女が犇めきあっており、とてつもなく異様な光景を生み出していた。
地獄もかくやという光景の中、雪緒は楸の姿を捜す。
「ーーっ! 母さん!!」
牛頭の中に一つだけ在る人の頭。それは、紛れも無く楸のものであった。
雪緒は楸に駆け寄ろうとする……が、その足は途端に止まる。
佇む楸の隣。そこに、一人の男が並んだからだ。
「よぉ、祓い屋の坊主。鬼面の兄ちゃんは元気か?」
「お前、邪視か……」
にいぃっと邪悪に笑うサングラスの男。
「大正解。俺がお前らの言う邪視だよ。どうだ、結構良い男だろ?」
「ふざけるなよ。お前のせいで何人不幸になったと思ってやがる」
「あー? 何人かなー。ひーふーみー……ははあ、いちいち憶えちゃいねぇなぁ」
「お前……!!」
力み、紫電をほとばしらせる雪緒。
破敵剣からほとばしる紫電に、男は軽薄に口笛を吹く。
「こっわ。最近の子供は危ねぇもん持つなぁ」
「怪異に言われたくないんだよ」
「ははあっ! その通りだな!」
何が面白いのか、男はけらけらと笑う。
軽薄な男の姿が癪に障り、雪緒は苛立つ。
「……母さんから離れろ。それと、怪異にした人達を元に戻せ」
「注文の多い奴だなぁ。あんまりケチつけると嫌われるぜ?」
「いいから戻せよ!!」
「癇癪起こすなよ。これだから子供は嫌いなんだよなぁ」
はぁやれやれとわざとらしく肩を竦めて首を振る男。
男の動作一つ一つが雪緒の神経を逆なでさせる。雪緒の苛立ちが更に募る。
「はぁ、堪え性の無い奴。お前モテねぇだろ?」
「軽薄なお前よりはマシだよ」
「はっ、違ぇねぇ! 俺もモテねぇからな!」
要領を得ない男の会話。何かの時間稼ぎか、それとも元からこういう性格なのか。
そう考えた時、男の目がサングラスの奥で怪しく光る。
「お、考えてんなぁ。まぁ、俺の性格は元よりこんなんだよ。よく軽い奴って言われたなぁ……」
懐かしむように言う男。が、次の瞬間にはその回顧も消え去り、鋭い雰囲気で雪緒を見る。
「ま、そんな事はどうだって良いんだわ。面白いもん見せてやるよ。丁度今予定数に達したんだ」
「面白いもの……?」
唐突に雰囲気を変えた男に、雪緒は最大限の警戒をする。
男は警戒する雪緒を見て笑みを浮かべながら楸の肩に手を置く。
「母さんに触るな!!」
「おー怖っ! マザコン怖っ!」
大切な家族に触れられて憤る雪緒に対して、男はなおも軽薄な態度で返す。
「まぁ落ち着けよ。なぁ、なんでお前の母親が牛女になってないと思う?」
突然の問い掛け。しかし、男は雪緒の答えを待たずに続ける。
「これだけよ、牛女が居るだろ? なのにこの女だけ牛女になってねぇ。不思議だと思わねぇか?」
言われてみれば、確かにこれだけの牛女に囲まれながら、牛女ではなくただの幽霊で在り続けている楸は異様だ。
雪緒が多少思案顔になれば、男は笑みを深めて続ける。
「それに、なんでこいつは牛女に襲われない? こいつらは見境無いぞ? 人間だろうが霊だろうが襲う。ま、俺がそういうふうにしたんだけどな」
「やっぱり、呪いはお前が……」
やはり、変性の呪いをかけた者は目の前の男で間違いないらしい。しかし、何故そのような面倒な事を……。
「俺が呪いをかけている事に気付いていたようだが、なんで俺が牛女へ変性する呪いをかけていたかまでは分からなかったか? ま、そうだよな。普通分かんねぇよな」
くくっと楽しそうに笑う男。
「でもおかしいとは思ったろ? 邪視が牛女を作るなんてよ。そいつは正しいぜ。なにせ、俺だってどういう原理で出来てるかさっぱり分からないからな!」
「なんだと? じゃあなんで出来てる。偶然出来たとでも言う気か?」
「いんや? ある奴にやってもらった。話を持ち掛けたら即座に頷いてくれてなぁ」
「ある奴……」
そのある奴とやらが誰だかは分からないけれど、晴明の示唆する怪異の協力者である事は先ず間違いない。
こいつはある程度情報を持ってる。なんとかして聞き出さないと……。
「ああ、聞き出そうったって無駄だぜ? 俺も奴の姿ははっきり見えねぇし、それに数回会った程度だからな」
「数回会ってるなら充分だ。知ってる事を洗いざらい話してもらう」
「俺が知ってる事なんざたかが知れてるがな。まぁそこらへんはどうでも良いや。……あー、どこまで話したっけなぁ…………そうだ、なんでこの女が牛女に襲われないかって話だ」
言って、乱暴に楸の髪の毛を引っ掴み、俯きがちであった楸の頭を持ち上げる。
「ーーッ!! お前ぇ!!」
「落ち着けよ。今のこいつに感覚なんざ在りゃしねえよ」
「そういう問題じゃねぇんだよ!」
「きゃんきゃん吠えんなよ、面倒くせぇ」
至極面倒臭そうに耳の穴をほじる男。
そんな所作の一つ一つが雪緒を苛立たせるけれど、雪緒に楸を傷付けるという選択肢は無く、また、楸を傷付けずに助け出す手段も無い。理性でぎりぎり軽率な行動を押さえ付けている状態だ。
押し留まる雪緒に、男は言う。
「こいつは牛女にならない、牛女に襲われない。何故か? 答えは簡単だ」
言って、至極愉しそうに男は楸の頭を指で突く。
「こいつが、既に牛女だからだ」
「…………は?」
唐突に突き付けられた思いもよらない言葉に、雪緒は言葉を無くす。
呆然と楸を見る雪緒を男は嗤う。
「くくっ、まあそうなるよな? 分かるぜお前の気持ち。俺もそうだったからよ」
「な、にを言って……だって、母さんは普通に俺と……」
「喋ってたなぁ? 俺もびっくりだわ。まぁけど、事実だよ。こいつは牛女だ。しかもただの牛女じゃねぇ。俺と同じなんだよ」
俺と同じ。そう言われて、察せない程鈍い雪緒ではない。
しかし、察せるからといって、それを受け入れられる訳ではない。
雪緒はふるふると力無く首を振る。
「嘘だ……」
「嘘じゃねぇよ」
「違う……そんな訳……」
「違わねぇよ」
「母さんはーー」
言いかける雪緒。しかし、そんな雪緒の言葉を遮り、男は酷く愉しげに嗤って言う。
「てめぇの母ちゃんは怪異なんだよ! あのきさらぎ駅の生き残りのなぁ!!」
「嘘だぁぁぁぁぁぁああああああああああ!!」
男の声を掻き消すように雪緒は叫ぶ。
きさらぎ駅の生き残り。それは、言うなればこの町の本物の怪異ということ。
そんな、だって、怪異なら、俺は、母さんを……!!
「つまり、お前の倒すべき敵って事だなぁ」
「ーーっ!!」
倒すべき、敵……? 母さんが……?
動揺した目で、雪緒は楸を見る。
楸の目は暗く澱んでおり、表情は昼間に見たような明るさは無い。
「よーく見とけよ? お前の母ちゃんが化け物に戻るところを」
男は嗤い、サングラスを外す。
「うっ、ぐうっ……!!」
そして、徐に片目に指を突き立て、無理矢理に目と眼窩の間に減り込ませる。
「ぐっ、があああぁぁぁぁぁぁあああああッ!!」
雄叫びを上げ、煌々と怪しい光が揺らめく目玉を引き抜く。
「はっはぁっ!! 戻る時だぜ!! お前等の身体によぉ!!」
吠え、手に持った目玉を握り潰す。
直後、牛女達が震え出す。
そして、牛女達から怪異の気配が抜ける。
抜けた気配は何かを辿って楸に一直線に向かう。
怪異の気配が、楸の中に入り込む。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああッ!!」
絶叫を上げる楸。しかし、そんな楸に構う事無く、怪異の気配は楸の中に次々と入り込む。
その光景を見て、男は不適に笑う。
「こいつらとこの女は縁で繋がっててよ。そりゃあそうだよな。自らの力の源を保有していた女だ。縁で繋がれねぇ訳がねぇ」
「お前……お前母さんに何をした!!」
憤り、吠える雪緒。
そんな雪緒に笑いながら言う。
「良いねぇ、その表情。最っ高にそそるぜ。……何をしたかって? 簡単だよ。怪異の力をこの女に戻したのさ」
「力を、戻した……?」
「ああ。っと、そろそろ潮時だな。じゃあな、坊主」
「ーーっ! 待てッ!!」
唐突に踵を返した男に、雪緒は破敵剣から紫電を飛ばす。
が、男はそれをひらりと躱す。
「はっはぁっ! また会おうぜ、坊主!」
「待て! 待てよ!」
絶えず雷撃を放つけれど、悉く躱す男。
とうとう、完全に姿を眩ませた男に、雪緒は苛立ちを地面にぶつける。
「くそぉッ!!」
追いかけられなかった。追いかけて楸から完全に目を逸らす事が出来なかった。
男に逃げられた今、雪緒は絶叫を上げ続ける楸を呆然と見る事しか出来ない。
「雪緒くん、これはいったい!!」
そこで、ようやっと雪緒の元までやってきた時雨や仄達。
しかし、雪緒は何も答える事が出来なかった。
目の前で、楸は徐々に徐々に怪異へと変性していった。
雪緒の目から、涙が零れた。