第弐拾話 我欲で我が儘
時雨に案内され、雪緒は皇后崎の元へと向かう。
二人がたどり着いたのは、『皇后崎』と書かれた標札が門柱に埋め込まれている一軒家だ。どうやら、皇后崎は家から一歩も出ていないらしい。
「……」
皇后崎の家に乗り込もうと雪緒が一歩踏み出す。が、その肩を時雨が掴む。
「彼女の視線は危険だ。それでも、行くのかい?」
「ああ。会って話さないと何も分からないからな」
「護身剣が無くても?」
「最悪の場合は喚び出す。それに、皇后崎先輩が外に出てくるとも思えない」
邪視の制御が出来ない事を恐れる皇后崎だ。その制御が出来なくなってしまっては、部屋の外に出ようとは思わないだろう。それが、死に至らしめる視線ならば、尚更。
「とりあえず、行ってみる」
「……分かった。けど、僕も着いていく。良いね?」
「そいつは心強い」
言いながら、雪緒は皇后崎の家に足を踏み入れる。
玄関の鍵は開いていて、家の中にすんなりと侵入する事が出来た。
家の中は明かりが点いておらず、真っ暗だった。けれど、全く見えない訳でもない。雪緒は慎重な足取りで家の中を進む。申し訳ないと思うけれど、何かあったときのために土足だ。
此処に来る途中で分かっていた事だが、皇后崎家からは怪異の気配がした。そして、それは二階に上がるにつれて濃くなっていく。
一番怪異の気配が強い部屋。恐らく、この部屋の中に皇后崎は居るのだろう。
雪緒はこんこんと扉を叩く。
「皇后崎先輩。道明寺です。勝手にお邪魔してすいません」
一応、断りと謝罪を入れる。しかし、室内から反応は無い。
「先輩、大丈夫ですか?」
声をかける。けれど、返事は無い。
雪緒は部屋の扉に手をかける。
「待った。入るのは止めた方がいい。隔てる物が何も無くなるのはまずい」
「じゃあお面貸してくれ。気休めにはなるだろ」
「…………それでも、目を見てしまったら危ないんだけどね」
言いながらも、雪緒がこれ以上言ってもきかない事を理解しているのか、懐からもう一つお面を取り出して雪緒に渡す。
雪緒は黙ってそれを受け取り、顔に付ける。
そして、皇后崎の部屋に入る。
部屋の中。ベッドの上に大きな布の塊がある。それが単に布の塊ではなく、皇后崎が包まっている事は明白だ。
「……先輩、大丈夫ですか?」
近付き、声をかける。
「………………った……」
「なんです?」
布の向こうから声が聞こえてくる。雪緒は耳を澄ませて聞く。
「……貴方の、言った通りだった」
力無く、それだけ言う皇后崎。少しだけ、布団が開ける。
開けた布団の隙間から見えたのは、白目を向いて息絶えている犬の頭だった。
「……貴方の、言う通りだった……。私、またなくしちゃった……」
皇后崎が被っていた布団を退かす。
雪緒は皇后崎と視線を合わせないようにしながらも、視界の端に皇后崎の姿を捉えるだけで肝が冷え、冷や汗が全身から流れる。
赤黒く変色した右目から血の涙を流す皇后崎。その目は虚で、何かを見ているのに何も写してはいなかった。
「……ねぇ、私、どうすれば良かったのかな……? こんな目を持って、皆から嫌われて、怖がられて……家族からも、見放されて……」
どうすれば良いなんて、雪緒は言えない。雪緒はそんな状況に陥った事は無い。だから、雪緒が何を言っても気休めだ。ただの言葉にしか過ぎない。
「……一歩踏み出してって言ったよね? 踏み出してたよ、私。踏み出したから、皆の目を見るのも怖いのに前髪も切って、頑張って目を合わせるようにして、笑顔だって作って、たくさん話せるように頑張って…………なのに……なのに……」
皇后崎の目が、雪緒の被った仮面を捉える。
皇后崎が意思を持って雪緒を視た事により、雪緒が感じる威圧感が増す。同時に、悪寒が止まらなくなる。
「……一歩踏み出して、これ……?」
「ーーっ」
言いながら、皇后崎は腕に抱えたミミを持ち上げる。雪緒に見えるように。雪緒に見せるように。
「……こんな事になるなら、頑張るんじゃなかった……。ミミを失うくらいなら……ずっとあのままでいれば良かった……」
怪異の気配が膨れ上がる。皇后崎の右目が赤く光る。
「……こんなに怖い思いをしなくちゃいけないなら……私、もう生きていたく無いよ……」
右目から、黒い靄が溢れる。
段々と怪異に近付いて行っているのが分かる。これ以上怪異化の進行が進んでしまえば、護身剣でもどうしようも無い。
焦る、けれど、雪緒に皇后崎を救う手だては無い。
時雨が刀の柄に手を添えるのが分かる。時雨も焦っている。けれど、限界まで雪緒に任せてくれるようで、まだ手を出す様子は無い。
……皇后崎は、ずっと頑張っていた。邪視を制御できるようになってから今まで、皇后崎は皇后崎なりに過去と決別しようと頑張っていたのだ。
それを、俺は……!!
何が一歩踏み出せだ。皇后崎は自分よりも何歩も前に進んでるじゃないか。偉そうに。自分は、何様のつもりだったんだ。
雪緒は皇后崎に何一つ言える事が無い。皇后崎を立ち直らせる言葉も、方法も、知らない。そんなものを、持ち合わせてもいない。
「……先輩。俺は、先輩にかける言葉がありません」
不幸に優劣など無い。当人がどれだけその出来事に重きを置くかで変わるから。けれど、現時点で雪緒は自分はまだましな方だと思ってしまっている。
同調できない。同情できない。温かい言葉をかけることも出来ない。愛情を注ぐことだって出来ない。
それは、雪緒の役目ではない。
「……先輩は辛いかもしれない。この子を失って、邪視という怪異を抱えて」
雪緒は、息絶えるミミの頭を優しく撫でる。
皇后崎はミミを撫でる雪緒の手を拒絶したりはしない。
「生きていたくないって思いは、先輩の本心なんでしょう。そう思ってしまうのは、仕方ないと思います」
自分ばかりが不幸になるなら、この生に意味は無い。不幸のまま生きるのであれば、それは死んでいると同じなのだから。
不幸を歩み続ける事は、どれほどの苦痛を伴うのだろう。生を投げうつ事を思わせる程の苦痛では、あるのだろう。
だから、雪緒がこれから言う事はただの我欲だ。我が儘だ。酷い、独りよがりだ。
「けど、俺は先輩を助けます。何があっても、助けます。死なせはしません」
雪緒は、誰かが死ぬのを許容できない。ましてや、不幸のどん底にありながら生を投げうつ皇后崎を、見捨てる事など出来ない。
ああ、分かってる。それが酷い独りよがりだという事は。
けど、悲しいじゃないか。このまま死ぬのは。腹が立つじゃないか。このまま好き勝手にされるのは。
呪いに翻弄されて、怪異に弄ばれて……心底、腹が立つじゃないか。
「先輩の目は、俺が絶対に治します。いや、俺だけじゃない。陰陽師だって手伝わせます。妖にだって力を借ります。先輩をこのまま、独りにはしません」
これは、雪緒のただの決意だ。だから、出会ったばかりの雪緒の言葉は皇后崎には響かない。ただ、目の前でなにやら宣っているだけだ。
ゆえに、皇后崎の怪異化は止まらない。徐々に、進んで行っている。
皇后崎が怪異になるにつれて焦る時雨を余所に、雪緒は覚悟を決める。
晴明は言った。呪いだろうが怪異だろうが、護身剣の力を使えばどうとでもなる、と。
しかしそれは雪緒が使いこなせればの話だ。使いこなせないから猿夢の呪いにもかかったし、邪視の呪いもその身に受けた。
だから、これは賭けだ。
頼む。力を貸してくれ。
手元に無い護身剣に祈り、雪緒は仮面を外した。
「ーーなっ!?」
唐突に仮面を外した雪緒に驚きを隠せない時雨。
時雨が止めに入る前に、雪緒は皇后崎の目を見る。
「ーーっ!?」
途端、今まで感じた事の無い程の怖気が走る。言いようの無い不安、恐怖、自責、その他、凡そ負の感情と呼ばれる類いの感情が雪緒の中で増幅し、荒れ狂う。
吐き気がする。自然と涙が溢れる。
怖い、怖い怖い怖い怖い。
肌は粟立ち、背筋は凍り、胃の中が気持ち悪いくらいに掻き乱される。
けれど、歯を食いしばる。
死なない。死んでない。なら、七星剣は雪緒の手元に無くとも、その力を貸してくれているということだ。
怖い。心底怖い。極自然に死にたいと思ってしまう。
でも、堪えられない程じゃない。
雪緒は、皇后崎の目をしっかり、正面から見据える。
「せ、先輩……俺は、大丈夫です。俺は、先輩の目を見れます」
怪異へと変貌しつつある皇后崎の視線は、目が合っただけで死に至る程の力を持っている。それは、ミミが死んだ事で皇后崎も理解している。
けれど、雪緒は死なない。皇后崎と目を合わせても死なない。
脂汗をかき、顔面蒼白なのに、雪緒は死なない。
今にも震え出しそうな腕を強く握りしめ、雪緒は堪えている。
率直に、思った。
「…………なんで、私のために、そこまで……」
会って間もない。仲が良いとは言えない関係。なのに、何故……。
「……言ったでしょう? これは、俺の我欲です。俺が先輩に死んでほしくないだけです……それに、嫌じゃないですか」
弱々しい顔。けれど、その顔は何処までも強がって、何処までも怒った表情をする。
「……こんなに引っ掻き回されて、それを受け入れて……そんなの、ただの泣き寝入りだ。……先輩がそれで良いとしても、俺はそれを受け入れられません」
怪異に良いように弄ばれて、それで諦められる程雪緒の意思は軟弱ではない。それに、雪緒が諦めてしまえば、雪緒に期待をしてくれている人達を裏切る事になる。
雪緒は、晴明を裏切れない。
「俺は……俺だけは絶対に折れません。最後の最後まで、怪異と戦い続けます」
誰かが自分が犠牲になる事を受け入れても、雪緒は諦めない。
「先輩が、どんなに生きる事を諦めても、俺は先輩を助けます。例えそれが、先輩の意思に反する事でも」
邪視の力が残ったまま皇后崎を生かすという事は、皇后崎にとっては辛い選択になるだろう。けれど、それでも雪緒は皇后崎を助ける。決してほったらかしにもしない。邪視の対策も見つけ出す。
目の前の不幸に打ちのめされている人を、絶対に見捨てない。
雪緒は、左手を皇后崎に伸ばす。
護身剣が手元に無くとも力を発揮できているのであれば、浄化の力もある程度は使えるだろう。
力が弱くたっていい。時間がかかっても良い。怪異化だけは、なんとしても止めてみせる。
伸ばした左手が、皇后崎の右目を覆うように触れる。
「ーーっ」
皇后崎が痛みに堪えるように表情を歪める。
「先輩。少し、我慢してください」
言って、雪緒は浄化の力を行使する事を意識する。
「う、く……あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
直後、皇后崎が叫ぶ。
怪異を祓うべく行使される護身剣の力の影響だ。怪異と同化し始めている皇后崎にも、痛みを伴っているのだ。
邪視は牛女とは違う。けれど、同じ怪異だ。その上、なりかけの状態。であれば、祓えない道理は無い。
いや、祓ってみせる。これ以上人の人生を弄ばれてたまるか。これ以上人の命を弄ばれてたまるか。
「……くっ……!」
邪視を直視した事によって消耗しているために、護身剣の力を行使するのも辛い。けれど、辛いのは何時もの事だ。
叫び、雪緒の手を引き剥がそうと皇后崎が雪緒の腕を掴む。尋常じゃない膂力。腕が折れそうだ。
「ぐっ……!」
けれど、雪緒は手を引かない。
破敵剣を離し、右手で皇后崎を引き寄せる。
なり振りなんて構ってられない。皇后崎を抱き寄せるようにして、雪緒は邪視を祓うために力を使う。
けれど、邪視も必死にその力を増幅させる。
「……ふっ……ざけんな!! この人の人生に手前は必要ねぇんだよ!!」
普通に生きる事を望む者に怪異など必要無い。それは、邪視なんてものを持ってしまった皇后崎にしても同じ事だ。
「もう手前の出る幕は無ぇんだ!! 分かったらとっとと……」
懇親の力を込める。
「……失せろ!!」
皇后崎が一際大きな悲鳴を上げる。そして、力無く四肢を垂らして雪緒の方へと倒れ込む。
怪異の気配が引いていく。
……祓えた、のか……?
心中にそんな疑問を抱きながらも、雪緒も最早限界。皇后崎を抱き抱えたまま、床に倒れ込む。
しかし、時雨はそんな雪緒達を倒れぬように抱き抱えたりはしない。それどころか、皇后崎の部屋に時雨の姿は無かった。
静かな部屋。その中で、満身創痍の雪緒と皇后崎は意識を失った。