第拾伍話 考えても仕方が無い
今日は何時もより早く眠りについて平安に向かう。一刻も早く、晴明に事態を説明しないといけないからだ。
眠りにつき、平安に行く。
何時もの通り、目を閉じ再度開ければそこはもうすでに平安。
起き上がり隣を確認すれば、晴明はまだ寝ているらしく、布団を被った晴明の身体が上下に微かに動いている。
外を見やれば、まだ日は昇っておらず、薄らと東の空が白んできた程度だ。
「あら、もう起きたのですか?」
珍しいですねと言外に言ってくるのは、襖を開けてこちらを伺っている園女だ。
「おはようございます。ちょっと急用がありまして」
「そうなのですね。起こしますか?」
「いえ、大丈夫です」
雪緒が早く来すぎてしまったのだ。雪緒の事情に晴明を付き合わせるのは申し訳ない。
「ですか」
頷いて、園女は朝食の支度に戻った。
園女が戻れば、再度静かな時間が流れる。
「んぅ……」
呻き、晴明が寝返りをうつ。
晴明の顔がこちらを向く。
あどけない、少し大人びた少女の寝顔。
その寝顔に少しだけ心臓が跳ねる。
なんだか悪い事をしている気分になり、慌てて晴明の寝顔から視線を逸らす。
そうすれば、少しだけ開けた布団が目に入る。先程寝返りを打ったときに布団がずれてしまったのだろう。
夏に近付いてきているとはいえ、まだまだ明け方は冷える時期だ。風邪でもひかれてはたまらない。
雪緒は晴明を起こさないよう音を立てずに近付き、布団をかけ直すために布団に手をかける。
眠っている女子に近付くのは若干の……いや、多分に緊張する。しかし、これはやましい事ではない。晴明に風邪を引いてほしくないからだ。そう、言うなれば晴明の身を純粋に案じる真心だ。邪心など一切無い。煩悩などあるわけがない。
心中でそんな言い訳をしながら、雪緒は緊張した手つきで晴明の布団を上げる。
そして、音を立てずに元の場所に戻る。
布団をかけ直すだけなのに、とてつもなく緊張した。絶対に失敗できない任務をしている気分だった。
ふぅと息を吐き、そこで、はたと気付く。
そういえば、結界は……?
雪緒が平安に来た最初の夜、晴明は就寝時には結界を張っていた。そして、おそらく初日だけではない。暫くは、結界を張っていたはずだ。
何時から結界を張らなくなったのかは分からないけれど、それは雪緒を信用しているという事の表れであろう事は間違いない。
それを自覚すると、少しくすぐったいような、嬉しいような感覚に襲われる。
雪緒はその感覚を誤魔化すために布団を畳んで物置に持って行く。
布団を仕舞いに雪緒が部屋を出れば、寝ている晴明が背中を丸める。
寒い訳ではない。見やればその顔は見ているこちらが恥ずかしいくらいに真っ赤に染まっており、口元は感情の表しようが無いのか真一文字に閉じていた。目は薄らと開いており、うろうろと視線が泳いでいた。
そう、実を言うと晴明は起きていたのだ。
元より、晴明は誰かが近付けば起きてしまうような程寝付きが浅い。だから、雪緒が近付いてきた段階で意識は覚醒していた。
しかし、雪緒が手を伸ばして来ても目を薄ら以上に開ける事が出来ず、事が終わるまで待っていたのだ。
何故自分が起きていると言えなかったのかは分からない。けれど、雪緒が布団をかけ直してくれた時、少しの落胆があり、それを超える喜びがあった。
雪緒が布団をかけ直してくれた時、胸が無償に温かくなった。
それが嬉しくて、年下の男の子にそんな事をされたのが恥ずかしくて。そして、自分が感じた落胆の意味が分からなくて。
色んな感情がない交ぜになって処理が出来ない。
「知恵熱が出そうだ……」
ぽつりと、誰にともなく零すと、真っ赤になった顔を見られたくなくて頭まで布団を被った。
雪緒が戻ってきても、起き上がるのに暫くの時間を要した。
布団を片付けて戻ると晴明が布団の中に丸まっており、暫くして起きるやいなや雪緒を睨みつけるので、雪緒は何がなんだか分からずに困惑した。
どうかしたのか聞けばなんでもないと素っ気なく言うが、素っ気ない割には機嫌は良さそうだったので、本当に何がなんだか分からなかった。
雪緒一人だけ分からない、という話でもない。朝食を作っていた園女や姿を隠していた冬や小梅も分からない。晴明ただ一人分かっている状況だ。
だからこそ、皆は頭上に疑問符を浮かべているのだ。
とまぁ、そんな事もあったけれど、朝餉を食べ終え皆が落ち着いた頃。何時ものごとく道満がやってきて、少し遅れて秀郷がやってきた。
全員揃ったところで、雪緒は話を始めた。
変性した怪異が邪視ではなく牛女だった事。皇后崎は呪いについて知らなかった事。そして、怪異が蔓延るずっと前から呪われていると噂されていた事。
今日にあった事を全て話をした。
雪緒の話を聞いて、晴明と道満は顎に手を当てて考える。
「ふうむ……なるほどな。段々と分かってきたと思うておったところにこれか」
「難儀よな。きさらぎ駅や猿夢が可愛く見えるわ」
「牛女か……牛頭とはまた違うのか?」
「牛頭って?」
「地獄で死者を責める獄卒の事だ。牛頭鬼、牛頭羅刹とも言うな」
「対となる鬼に馬頭と言う鬼がおるな。こちらも、馬頭鬼、馬頭羅刹とも言うな。因みに、見た目は牛女と似たようなものだ。動物の頭に人の身体。まぁ、地獄の獄卒だけあって、牛女よりも格段に強いだろうけれどな」
「へぇ……」
晴明と道満の説明に納得して頷く雪緒。
俺が説明したかったのにとしょぼくれる秀郷。しかし、三人とも秀郷には構わず考える。
確かに、牛頭や馬頭と牛女の形態は似ていると言えるだろう。しかし、在る場所が違う。
牛頭と馬頭は地獄。牛女は現世に現れる。黄泉化していたきさらぎ駅の中では牛頭と馬頭が出てきてもおかしくはないけれど、雪緒の住んでいる町は普通の町だ。怪異が多いとは言え、ただの町なのだ。
それに、変性の呪いでは牛女にしかならない。牛男は一人も居なかった。牛頭よりも牛女である可能性の方が高い。
「ふむふむ、中々に難解だな」
しょぼくれていた秀郷はいつの間にか復活しており、晴明と道満を真似て顎に手を当てて考えている。が、様になっている二人とは違い、秀郷はまったく様になっておらず、むしろ違和感すら覚えるくらいだ。
この人普段考え事とかしてんのかな……。
なんて、若干失礼な事を考えてしまうのも致し方無いだろう。それ程までに秀郷の思案する仕草は似合っていなかったし、馴染んでいなかった。
「ふむ、分からぬな! よし雪緒! 俺達は稽古をしよう!」
唐突に言われ、思わず膝の上についていた肘を滑らせてしまう。
「唐突だな……」
「俺達がうんうん唸っても分からぬものは分からぬよ。それよりも、お前は剣を憶えた方が建設的だ。考えるのは二人に任せて、俺達は剣を振るおうじゃないか!」
確かに、秀郷の言う通りだ。雪緒は、自分では解決出来ないからこそ、晴明達に知恵を借りに来たのだ。雪緒が考えたところで答えが出ないのであれば、申し訳ないが考える事は二人に任せよう。
「……そうだな。秀郷さん。今日も稽古お願いします」
「応! ということで、俺達は庭で剣を振っておる!」
「分かった。雪緒、怪我だけはするなよ」
「晴明は俺のお母さんか。怪我については保証できない」
怪我を気にしながら秀郷と戦う事など出来ない。それ程までに雪緒と秀郷の力は隔絶しているのだ。
しかし、雪緒の答えが気に食わなかったのか、晴明が鋭い視線を雪緒に向ける。そして、圧のある声で雪緒に再度言う。
「怪我をするなよ?」
「……善処します」
「うむ、宜しい」
雪緒の答えに満足したのか、晴明は鷹揚に頷いてから思考に戻る。
秀郷が声を潜めて雪緒に言う。
「恐ろしいな。何時もああなのか?」
「恐ろしく優しいんだよ、晴明は」
秀郷にそう答え、雪緒はさっさか庭に出る。
秀郷もそうなのかと納得をして、草履に履き替えてから庭に出る。今日の秀郷は庭から屋内に上がってきたので、元より雪緒の稽古をするつもりだったのだろう。
庭に出て、冬から木刀を受け取れば、合図も無しに直ぐに打ち合う。お互いすでにやる気満々な上に臨戦体勢だ。
雪緒は以前言われた事を注意しつつ、二本の木刀で出来るだけ手数を増やして打ち込む。
しかし、連撃を意識して繰り出すも、その全てを秀郷は捌く。恐ろしく速い反応速度のうえに、雪緒の剣筋を読んだような動きで対応してくる。
「連撃を意識しすぎて攻撃が単調だぞ! もうちっと相手の隙を狙え!」
狙えっつっても……隙なんて無いだろうが……!!
心中で毒づきながら、雪緒は木刀を振るう。
剣の腕前では大人と赤子程の差がある二人。当然、隙を狙えと言われても、雪緒には秀郷の隙など見付けられないし、隙を作れるほどの技量だってまだ無い。
だから、雪緒はまだ秀郷の剣に反応するのが精一杯だ。
それだって、簡単の事ではないけれど。
必死に二刀を振って防ぎ、攻める。型なんてものは無い。
秀郷は二刀流などやったことも無い。だからこそ、型を教える事は出来ない。しかし、若干の剣筋の矯正などは出来る。
本当は、剣の振り方から教えた方が良いのだろう。雪緒の剣の振り方はが出鱈目である事は、剣を習得している者が見れば一目瞭然だろう。
剣筋が綺麗であれば深く相手を切る事が出来る。しかし、そこまでに至るまでにはどうしても時間が必要だ。それに、秀郷だってずっと雪緒に稽古を付けられる訳ではない。自分の治める領地に戻らなければいけない時がくる。
だから、剣筋の矯正はしない。剣を振る者が素人でも、七星剣はそれを補って余り在る程の業物だ。雪緒が二流三流の剣士でも問題無い。
問題なのは、雪緒が切り合いに慣れていない事だ。ずっと七星剣の能力ばかりに頼っていたために、雪緒は相手との切り合いが苦手だ。
相手の隙を付けない。自分で相手の隙を作れない。原因は多々あるだろうけれど、一番の原因は雪緒が七星剣に頼っている事だ。
今まではそれで良いかもしれない。けれど、これからはそうも行かなくなる。怪異と戦い続けるのであれば、技術も、知識も身につけていかなくてはいけない。
知識は、優秀な知識人が二人も居るので問題ないだろう。しかし、技量となれば教えられる者は多くない。
一番見込があって冬だ。一見優しげな女性の式鬼に見えるけれど、実力は秀郷に比肩するだろう。
が、恐らく教える事には向いていない。そして、それは晴明、道満にも言える事だ。
弟子を今までに一人だって取った事の無い晴明。一人気ままに呪術を追い求める道満。どちらも、誰かに物を教えるという事をしてこなかった。そして、なまじ力があるだけに、大抵の事は自分でなんとか乗り越えられてしまうのだ。
そういった手合いに、常人である雪緒の苦労は分からないし、雪緒がこれから苦労するであろう事など思いもよらないだろう。
晴明が雪緒に剣の修業をさせなかったのがその最たる例だ。晴明は、最終的にはどうにでもなると思っている。
だから、今この場で雪緒に剣を教えられるのは秀郷だけだ。
折角出会った好みだ。それに、同じ二振りの霊剣の使い手だ。何より、秀郷が雪緒を気に入った。
誰かを守るための剣。上を目指すでもなく、技を極めるでもなく、ただただ、誰かを守りたいがための剣。
そんな剣を、秀郷は嫌いではない。
自然と、笑みが浮かぶ。
「打ち込みが甘いぞ! そら、もっと打ち込んで来い!」
「分かってるよ!!」
声を上げながら、雪緒は必死に剣を振るう。
悪くない。昨日よりは、剣に切れがある。それに段々と見えてきているな。
少しずつ。本当に少しずつではあるけれど、剣の打ち込む精度が上がっている。
戦う毎に急激に成長しているわけではない。雪緒にそんな才能は無い。
必死に剣を振るって、身体で少しずつ憶えて、頭で少しずつ学んでいるだけだ。
雪緒は必死に打ち込み続ける。考えるよりも、打ち込むという事を身体に憶えさせるために。