第弐拾参話 猿夢、終幕、壱
猿夢が終結し、雪緒は家に帰った。自身の身体に戻り、目を開ければ慣れた身体の感覚。ちゃんと身体に戻れた事に安堵しながらも、窓の外を見る。
窓から見える外の景色は、空がうっすらと白んできており、朝が近い事を雪緒に知らしめる。
時計を見て時刻を確認し、雪緒は溜息を吐く。
「完全に徹夜だな……」
少し眠りに付けていたとはいえ、睡眠時間としては十分ではない。けれど、今から寝てしまっては学校に遅刻してしまうだろう。今から寝て、いつも起きる時間に起きられる自信が無い。
身体に疲れは溜まっていないけれど、精神的に疲れが溜まっているので、正直今からでも眠ってしまいたい。
けれど、今寝てしまうのは怖い。眠って、晴明に逢えなかったら……そう思うと、眠るのが怖いのだ。
「……大丈夫だよな」
そう自分に言い聞かせる雪緒。
大丈夫。術者はあの晴明だ。晴明なら、きっとなんとかしてくれる。
「よし。ちょっと早いけど、朝御飯作っちまうか」
じっとしていると眠ってしまいそうになる。
雪緒はベッドから降りると、リビングへと向かった。
リビングの扉の前まで来ると、何やらリビングから物音が聞こえて来る。
一瞬警戒するけれど、扉越しに感じる気配が知っているものの気配だったため、雪緒は警戒を解いて扉を開ける。
「主殿。お疲れ様でござりまする!」
「ああ、ありがとう、小梅」
可愛らしい猫がデフォルメされたエプロンを着た小梅が、キッチンで朝御飯を作っていた。
子供のような見た目からは想像も出来ない程の華麗な手捌きで包丁やフライパンを扱う小梅。どうやら、雪緒が手伝う必要は無いようだ。
「主殿、珈琲にござりまする」
雪緒がソファに座ると、いったん料理の手を止めて小梅が珈琲の入ったマグカップをテーブルの上に置いた。
「ありがとな」
お礼を言い、珈琲を飲む。
小梅は雪緒が珈琲を飲む時の砂糖やミルクの量を心得ているので、改めて雪緒に量を問う事はしない。
丁度良い、自身の口に馴染む味わい。
小梅は、雪緒の前に珈琲を置くと直ぐにキッチンに引っ込んで朝御飯の支度に戻った。
「して、主殿。百鬼夜行の面々は上手く動きましたか?」
「ああ。皆がいなかったら、どうなってたか分からない」
「それは重畳。主殿の足手まといになるようであれば、もう一度鍛え直すつもりでしたが……手間が省けて何よりでありまする」
完全に上からな物言いだけれど、屋上で凍花と鈴音が小梅に従っている姿を見れば、小梅の物言いにも納得が出来る。いや、資格情報的違和感は大きいけれど。
「ありがとな、小梅。お前の判断でずいぶん助かったよ」
「なんの! 某、主殿の一の僕なれば、この程度の事は当たり前にござりまする!」
言いながら、しかし、雪緒に褒められたのが嬉しいのか、嬉しそうに胸を張る小梅。
そんな可愛らしい小梅の仕種に、雪緒は笑みをこぼす。
「お前が俺の式鬼で良かったよ。凄く頼もしい」
「そ、そんな! 勿体ないお言葉! 某こそ、主殿の式鬼となれて嬉しいばかりでありまする!」
「そう言って貰えると、俺も嬉しい。お前には苦労かけてばかりだからな」
平安でも現代でも。
言わずとも小梅には伝わり、小梅は笑みを浮かべて言う。
「苦労だなどと思った事はござりませぬ。あちらでも、こちらでも、某は毎日幸せに暮らしておりまする」
「そうか……なら、良かった」
「はい。良き毎日にございます」
屈託無く、小梅は言う。
珈琲を飲みながら、しばらく小梅と談笑を楽しんだ。
小梅と話しをしていると、不安な心が少しだけ紛らわせた気がした。
いつも通り登校の時間となり、雪緒は明乃と学校へ向かう。
「あんた、昨日何かあったの?」
歩き始めてすぐ、開口一番に明乃が問う。
「何かって?」
「惚けないでよ。何かって言ったら一つに決まってるじゃない」
少しだけ怒ったように言う明乃に、雪緒はすっとぼけたら怒られるんだろうなと思いながら素直に話す。
「あったよ。でももう大丈夫。ちゃんと終わらせたから」
「大丈夫って……あんたねぇ……!」
少しだけ語気を強め、けれど、直ぐに溜息一つする明乃。
「あんた、こっちの身にもなってよ……毎回毎回、心配ばっかりかけて。こっちの心臓もたないっての」
「それは、ごめん……」
明乃の言葉に、雪緒は素直に謝る。明乃の文句ももっともだし、逆の立場でも雪緒は同じ事を言うだろうから。
「……父さんにも、ちゃんと謝っておきなさいよ。めっちゃ心配してたんだから」
「ああ」
黒曜に雪緒の元へ行くように言ったのは繁治だ。という事は、繁治は何かが起こっていた事を察していたという事になる。雪緒が危ない目に遭っているのを知っていたからこそ、今朝雪緒の様子を見て違和感を覚えて問い詰めた明乃よりも、その心配は長かっただろうし、大きかったはずだ。
けれど、だからと言って明乃が心配していなかったと言う訳ではない。
「……雪緒、一つ約束して」
「何を?」
「ちゃんと自分が関わってる事について、逐一私達に報告すること。じゃないとこっちが気が気じゃないんだから」
確かに、雪緒が何をしているのか分からないと明乃や繁治は際限無く雪緒を心配するはめになる。誰であれ、そんなに心配していては疲れてしまう。
「分かった。ちゃんと報告するよ」
「ん、よろしい」
明乃は頷き、少しだけ表情から険が取れる。自分の中で妥協点を見付けたのだろう。
険の取れた明乃と話しをしながら、学校に向かった。途中、明乃の友達が合流し、以前のようにからかわれはしたけれど、おおむね平和に登校できた。
教室に着き扉を開ければ青子が即座に気付き駆け寄って来る。
「陰陽師~~~~~~~~!!」
飛び掛かってきた青子をさっとかわして、雪緒は加代と仄に挨拶をする。
「おはよう、二人とも」
「おはよう」
「おはよう雪緒くん。今朝は眠そうだね。あの後ちゃんと眠れたの?」
加代が心配そうにたずねれば、雪緒は苦笑しながら言う。
「いや、寝てない。寝たら寝坊しちまいそうだったからさ」
「そうなんだ……。体調悪かったりしたら言ってね? すぐ保健室連れてくから」
「ありがと。てか、俺よりも仄は大丈夫なのか?」
「私は慣れてるから。けど、やっぱりちょっと眠いけどね」
雪緒が仄にたずねれば、仄も苦笑しながら言う。
和やかに話し始める三人。けれど、一人だけ和やかな雰囲気とは程遠い青子が戻って来る。
「陰陽師!」
「なんだよアホ子」
「昨日の夜、あたしの部屋に来たって本当なの!?」
「へ……? あっ」
一瞬なんの事か分からなかったけれど、思い出せばすぐにでも青子の言っている事に思い至る。そして、それを誰が告げたのかにも思い至る。
しかし、そんな事よりも今は弁解が大切だ。
「あ、いや、行ったは行ったが、それには止むを得ぬ事情があってだな」
「女子の部屋に無断で入るのは何があってもダメ! あたし昨日服脱ぎっぱなしにしちゃったんだから!」
「急いでたからそこまで見てねぇって! それと、もうちょい声を抑えろ! 周りの視線がすっごく痛い!」
女子の部屋に無断で入る、という言葉が聞こえてきた辺りで楽しくお喋りをしていた女子達の目線が鋭くなり、雪緒の事をまるでゴミでも見るような目で見てくる。
因みに、仄と加代の視線も鋭くなっている。間近で睨まれている分、他の女子の視線よりも痛い。
しかして、雪緒のそんな心境など青子には知ったことではなく、雪緒に向けて更に言い募る。
「それに! なんでメッセ返してくれなかったの! あたし超心配したんだから!」
「あ、そうそう。ウチもメッセ送ったのに、無読は酷くない?」
「え、マジで?」
言われ、初めてスマホを見る雪緒。確認すれば、確かに雪緒のスマホに二人からメッセージが届いていた。
「ごめん。確認してなかった」
二人が無事だと分かり、雪緒は一人で安堵してしまっていたのだ。二人が自分を心配している事を忘れ、メッセージが来ているかもしれない事を考えていなかった。
「確認してよ! めっちゃ心配したんだからね!?」
「悪かったって。次から気をつけるよ」
「もう! 次はちゃんと確認してよね」
雪緒が素直に謝れば、一応は矛を納める青子。
「まだ青子の部屋に居た件が終わってないんだけどー?」
しかし、そこで加代が蒸し返す。
「あ、そうだった! なんであたしの部屋に来たの!? あたし寝るからすっぴんだったんだけど!!」
「せっかく丸く収まったと思ったのに! 青子、それについては後で説明する! だからもうちょい声抑えて……!!」
切実にお願いをする雪緒だったけれど、青子はまったく聞いてくれず、恥ずかしかった、部屋が汚かった、来るなら来るって言ってほしいなど言い募る。
結果、雪緒は女子達から針の筵にされた。青子の言及はホームルームが始まるまでされ、その間、女子だけではなく、女子の部屋に入ったと知った男子達からの視線も痛かった。
半日針の筵で過ごした雪緒は、ようやっと訪れた昼休みに思わず溜息を吐いてしまった。
「お疲れ、雪緒くん」
「おー……」
「ふふっ、元気無いね」
「今日半日視線が痛かったからな……」
言いながら、突っ伏した身体を起こしてお弁当を広げる。
隣から机がくっつけられ、いつも通り四人でお昼を食べる。
「そういえば、まだお礼言ってなかったね。雪緒くん、昨日は助けてくれてありがとう」
周りに聞こえないように、少しだけ声量を抑えてお礼を言う加代。
「あ、そうだった! ごめん陰陽師。あたしの事ばっかり言って。昨日助けてくれて、本当にありがと!」
青子は声量など気にせずに言う。
青子の助けてくれてという言葉に反応して、幾人かが雪緒達に視線を向けるも、すぐに自分達のお喋りに戻っていった。
周囲の反応が小さくて安堵しながら、雪緒は言葉を返す。
「いや、今回は俺の不始末だ。だから、俺がお前達を助けるのは当たり前だ。むしろ、悪かった。危険な事に巻き込んで」
「昨日も言ったけど、初めての事だから失敗だってあるよ。あたし達のために戦ってくれてる陰陽師を責めたりなんて絶対しない。だから、もう謝らないで」
青子が少しだけ悲しそうにして言う。
青子は雪緒に助けられた。助けてくれた雪緒が、自分で助けた青子達に謝っているのを見ると、申し訳なく思うし、なんだか悲しくなる。
「悪い……」
「謝らないでってば」
「……おう」
頷く雪緒。けれど、自分に非があるとは思っているので、少し不承不承といった感じだ。
「そういえば、加代さん、例の件どうなったの?」
仄が少しだけ暗くなった空気を変えるために話題を変える。
仄がたずねれば、加代は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「うん。もう少しだけ様子見てくれるって。だから、転校はしないよ」
「ほんとっ!? やったー!」
加代の報告を聞き、急激に笑顔になった青子が、感極まって加代を抱きしめる。事情を知らぬ者からすればやや大袈裟にも思えるかもしれないけれど、事情を知っている雪緒達からしたら、安堵にほっと胸を撫で下ろせる様子である。
「良かったな、加代」
「うん。でも、一応条件があって……」
「条件?」
「うん。後一度でも怪異に巻き込まれたら、即引越し。これは譲れないって」
「まぁ、そうだよな……」
親としては、これが出来る限り最大限の譲歩だ。加代の事を信じるけれど、親としては子供安全が第一なのだ。
「未然に防げるように、こっちでも最大限注意するわ。それと、必要だったらもう一人貸す。青子も少しでも心配があるようだったら言ってくれ」
誰をと言わないのは、雪緒があまり公衆の面前で百鬼夜行と口にしたくないからだ。小梅のネーミングセンスに物申す訳ではないけれど、百鬼夜行は少しだけ言いづらいものがある。
「うん、分かった」
「りょうかーい!」
二人に正しく伝わったようで、こくりと頷く。
こうして、今回の騒動は幕を閉じた。前回同様、色々あったけれど被害を最小限に抑えて皆を護る事が出来た。
しかし、それで終わりだと雪緒は安堵できない。
猿夢に力を与えた存在を晴明は示唆していた。その者がなんであれ、良くない相手であることは間違い無いだろう。
一体誰なのか、そして何者なのか。怪異退治と同時に、これも調べていかなくてはいけない。
後で仄や炎蔵にも意見を聞こうと考えながら、雪緒は束の間の平穏を享受した。
まぁ、忘れてはいけない事が、一つだけ残されているけれど。