第弍拾弍話 終局、猿夢
痛い。痛い痛い痛い。
身体が痛い。とてつもなく酷い激痛に襲われている。
痛みが身体を蝕む。皮下を虫がはいずり回り、血管をミミズがのたうち回っているような、そんな痛み。
未だかつて経験した事も無い激痛に、夢幻主は情けなくも涙を流して喚く。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い!! なんだこれ! なんなんだよこれはぁっ!?」
身体の痛みに耐えながらも、雪緒と時雨から距離を取る夢幻主。
「ちくしょう! あいつ何しやがった!? なんでこんなに痛いんだよちくしょう!!」
痛い痛いと喚きながら、夢幻主は今まで居た部屋を後にする。
この場から逃げるのだ。一刻も早く、この壊れかかった世界から。
仮にも自分の世界だ。この世界があとどれくらいもつのかくらいは分かる。そして、この世界に空いた穴の場所だって分かる。
外側から無理矢理開けられた穴で、最初こそ自分の世界に穴を開けられた事に怒り心頭だったけれど、今となってはとても好都合だ。
世界の主導権はもはや本物のきさらぎ駅に奪われているので、世界の出入りは自由に出来ない。そのため、この世界にぽっかりと空いた穴は夢幻主が逃げ出すには丁度良い脱出口なのだ。
徐々に様変わりしていく塔を降りる。
夢世界から出たら自分はただの幽体に成り下がるけれど、致し方無い。
夢幻主の力は夢の中でしか作用しない。それが伝承だからだ。多少の逸脱は出来るけれど、伝承から大きく逸脱する事はできないのだ。
しかして、いったん何処かに身を隠すくらいは出来る。今まで通り一人一人殺して回って、力が戻るまで待とう。
なに、時間は十分にある。もう同じような失敗はしない。次はもっと強固な世界を創ってみせる。きさらぎ駅に依存しない、大きく、強い世界を。
そうだ、その世界にあのいけ好かない奴を招き入れて殺そう。思わせぶりな事を言って自分を見捨てた奴を許してなんてやるものか。土下座して許しを乞っても許してやるものか。惨めに、むごたらしく殺してやる。
あいつらもそうだ。あの子供共も一緒に殺してやる。妖も人間も、他の怪異も、全部全部殺してやる。
そんな事を思いながら、夢幻主は痛む身体を引きずって歩く。
そうして、塔の出口である扉を開いた。
「……は?」
けれど、そこは塔の外ではなかった。
「よう、お帰り」
扉を開けた夢幻主に、雪緒が声をかける。
待て、なんだ、おかしい。確かに僕は外に出たはずだ。塔を下に降りて行ったはずだ。なのに、なのに何故元の部屋に戻ってきている?
訳が分からず混乱する夢幻主。
そう、夢幻主は自分が元々居た部屋から出たにも関わらず、自分が元居た部屋に戻ってきてしまったのだ。
ちゃんと下に降りたはずなのに。ちゃんと外に出るための扉を開けたはずなのに。
「ははっ、愉快愉快」
夢幻主が混乱していると、楽しそうに笑うしわがれた老人の声が聞こえてきた。
混乱する夢幻主だけではなく、雪緒と時雨にも聞こえてきた。
夢幻主と時雨は今の声が誰であったのかは分からない。しかし、雪緒には分かった。夢を見ていた時に会った老人だと、理解できた。
あの老人がいったい誰であったのか、そして何者であったのかは分からない。けれど、老人の口ぶりや外に逃げるために出て行った夢幻主が今目の前に居る事を考えるに、夢幻主は老人にとっても不都合な存在なのだろう事は分かった。
かといって、老人が雪緒達の味方である保証も無い。ただただ利害が一致しただけなのかもしれない。けれど、今はそれで良い。目の前に夢幻主が居て、邪魔者が何も居ないという事実が重要だ。
雪緒達が小人共を一掃した直後に現れた夢幻主は、先程聞こえてきた老人の声に酷く取り乱しながらも、雪緒達を見る。
「後はお前だけだ」
七星剣を夢幻主に向ける。いつでも、雷撃を放てる。
夢幻主は状況を理解すると、奥歯を噛み締めて怒りに顔を歪める。
「……どいつも、僕を馬鹿にしやがって!!」
「人を馬鹿にしてんのはどっちだよ」
夢幻主の身勝手な物言いに、雪緒は怒りを覚えながら乱暴に言葉を返す。
雪緒は忘れない。夢幻主が青子達を酷い言葉で馬鹿にした事を。
「うるせぇ!! ガキが偉そうに!!」
「どっちがガキだよ。お前が最初からそんなんだったかどうかは知らねぇよ。けど、今のお前が間違ってる事だけは俺にも分かる。他人を馬鹿にして、下に見て……そんな奴に、誰かが正当な評価をしてくれると思ってんのか?」
「黙れ!! お前に僕の何が分かる!? 僕の事を知らないガキが、偉そうに僕に説教くれてんじゃねぇぞ!!」
「そのガキでも分かる事が、なんでお前には分からねぇんだよ!!」
確かに、他人から期待されないというのはつらい。他人と比較されるのだってつらい。それがましてや血を分けた兄弟と比較されたのでは、何処に居たって逃げ場なんて無くなってしまうのだろう。外も、家も、何処でも比較される。それは、辛い事だと思う。
けれど、だからといってやって良い事と悪い事の線引きを誤って良い理由にはならない。
ぐれるのも仕方が無い。捻くれるのだって仕方が無い。けれど、だからといって誰かに迷惑をかけて良い理由にはならない。ましてや人を殺しても良い理由なんかにはなり得ない。
「人を殺しちゃいけないって、なんで分かんねぇんだよ……!!」
「人の倫理も道徳も、怪異である僕には関係無いんだよ!! 僕は怪異猿夢!! 人を殺して喰うのが猿夢なんだよ!!」
苛立ったように吠える夢幻主ーーではなく、ただの怪異に成り下がった猿夢。
「夢は僕の世界! 僕が法則! 僕が絶対だ!! 逆らう奴らを粛清してやるのが僕の仕事なんだよ!!」
吠える猿夢。そんな猿夢を無視して、時雨は雪緒に言う。
「雪緒くん、無駄だよ。彼はもう怪異に成り下がった。元の人の意思はあっても、あれはもう人じゃない。あれは、正真正銘怪異だよ」
「……ああ、分かってる。今、分かった」
時雨の言葉に、雪緒は頷く。
人の意思があるのであれば、どうにか出来るのではと思った。怪異から戻せなくとも、人として罪を償わせる事が出来るのではないか、そう思った。
けれど、雪緒のそんな願望は叶わないらしい。
「やるよ、時雨。あいつは見逃せない」
「分かった。じゃあ、斬るよ」
直後、時雨の姿がぶれ、数瞬後に猿夢の背後に時雨の姿が現れる。そして、キンと少し高い音が聞こえて来る。
「…………え?」
猿夢のそんな声が聞こえて来る。そして、間もなくして猿夢の身体が霧のように霧散した。
「時雨、なんで……」
そして、事態を理解できていなかったのは雪緒も同じであった。
時雨が猿夢を倒せた道理は分かる。猿夢は道満の呪い返しによって殆ど満身創痍であり、雪緒の雷撃の一つで方が着く状態であった。
だから、時雨の斬撃一つで消滅したのは理解が出来る。
けれど、そうじゃない。雪緒が疑問に思っているのは、なんで雪緒に任せずに時雨が行動を起こしたのかだ。
普段の時雨であれば、勝ちを譲るのとは違うけれど、雪緒の意思を尊重する。これは雪緒の後始末であり、雪緒が終わらせなければいけない事だ。だから、最後は雪緒に任せてくれると思っていた。
勝ちに固執する訳じゃない。人を喰らう怪異が倒されたのは雪緒にも喜ばしい事だ。しかし、時雨の今の行動には何処か有無を言わさぬようなものがあった。
だからこそ口を出た問い。
その問いに、時雨は答える。
「こればっかりは、君に押し付ける訳にはいかないからね」
抽象的な言葉。しかし、雪緒も、時雨がぼかした言葉の意味を理解できない程間抜けではないと思っている。
「だからって、それをお前がする必要はーー」
「あるよ。これは僕の仕事だ。」
雪緒の言葉を遮り、断言する時雨。
「だけど」
「問答は後にしようか。世界の主が消えたから、此処の融合も早い。急ごう」
時雨はそう言って、雪緒を先導するように前に出る。
「……分かった」
雪緒は頷き、時雨の後を追う。
時雨が雪緒にさせたくなかった事、それは人殺しだ。
猿夢は怪異ではあるものの、人という側面がある以上、雪緒は人を殺してしまったと思うだろう。実際には、猿夢の元の人格の者は一度死んでいるし、怪異と融合して変質してしまっている。けれど、妖にも優しい雪緒は、果たしてそれを死人だと、人だと割りきれるだろうか?
断言しよう。無理だ。
雪緒は確実に猿夢を殺してしまった事を引きずる。そして、その責を背負おうとするだろう。
雪緒に人殺しの業を背負わせる訳にはいかない。そういう汚れ仕事はただの高校生であった雪緒では無く、そういう事もしていた自分がやるべきだ。
汚れ仕事は自分だけが請け負えばいい。雪緒には、なるべくそういう事はしてほしくはない。
自分が居る内は、そういった事からも雪緒を護る。それが、時雨の思いであった。
しかし、それを語るような事はしない。語ってしまえば、雪緒は必ず反対するから。だから、この考えを口にする事は無い。
さて、どう言い訳をしようか。
そんな事を考えながら、時雨は雪緒を出口まで誘導した。
雪緒達は誰に邪魔される事も無く、無事に夢世界の外に出る事が出来た。
外の適当な場所の屋上に降り立つ。
上空に見える穴は未だに夢世界に続いており、夢世界の景色が見える。
「ご無事のお戻り嬉しく思います」
戻ってきた雪緒の傍に傅き、凍花が言う。
「青子と加代は?」
「無事、家まで送り届けました。意識を取り戻し、体調の確認もしましたが、問題ありませんでした」
「そうか。ありがとうな」
「滅相もありません! それが私の勤めでございますので」
恭しく頭を下げる凍花。
「主様。夢世界に居る人間の避難も完了いたしましたぁ。予想以上に多かったですが、なんとか戻せましたよぉ」
鈴音が少しだけ疲れた様子で言う。
「猿夢、後で一気に食べようとでもしていたのですかねぇ? 死人は二、三人程度でしたよぉ」
「そうか……」
それでも、二、三人は死んだのだ。助けられた方が圧倒的に多いとは言え、手放しに喜べない。
「雪緒くん。この規模での怪異絡みでこの被害者数は断然少ない方だよ。それに、君の手からこぼれる命もある。それは、もう分かっているだろう?」
「……分かってるよ。俺は万能じゃない。誰かの力が無いと何も出来ない」
それは、雪緒が一番分かっている事だ。けれど、それを納得出来るかどうかは別である。
理解はしている、けれど、誰かが死んでしまった事を「はい、そうですか」と流すのも違う。
「でも、護れなかった事を理解するのも必要だと、俺は思う。勿論、皆が助かった事は素直に嬉しいけどさ」
「うん。それで良いと思う。謙虚になれって訳じゃないけど、被害者に見向きもしないよりはずっと良い」
「だが、それを背負いすぎるな。被害を未然に防げなかった俺達にも責はある」
黒曜がどこか優しい口調で言う。その隣には、何故だか仄が立っていた。
「お疲れ様、雪緒くん」
「ああ。でも、なんで仄が?」
「なんでって、雪緒くん忘れてない? 私、陰陽師なんだけど?」
ジトッとした目で雪緒を見る仄。
「いや、それは忘れてないけど……」
「あのね、雪緒くんにばかり負担をかける訳にはいかないでしょう? だから、私達もあの世界で被害者の保護をしてたの」
「そうなのか……」
猿夢の相手に必死で気付かなかったけれど、どうやら仄を含め、他の陰陽師も夢世界の中で被害者達の保護にあたっていたらしい。
「ありがとな、仄。お陰で大勢助かった」
「お礼を言われる筋合いは無いよ。これは元々私達の仕事だし。それに、お礼を言うのはこっちの方。また雪緒くんに任せっきりにしちゃったね……」
「任せっきりと言うか、俺の方から首を突っ込んだんだけどな」
「それでも、だよ。私達の使命を君に任せてしまった事には変わり無い。ごめんなさい。それと、ありがとう」
そう言って、頭を下げる仄。
雪緒は、同級生に頭を下げられるという状況に、思わず慌てふためいてしまう。
「そう思うなら、次はしっかり仕事をしておくれよ。僕の主を、あまり煩わせないでくれ」
しかし、慌てる雪緒とは対照的に、時雨は冷たい声音で仄に言い放つ。
「時雨、そんな言い方!」
「雪緒くん、彼等が有能であれば、君が危険を冒す必要は全く無かったんだよ? こういう事は本来君が関わらなくてもいい事なんだ」
「何度も言ってるが、これは俺の後始末だ。それに、怪異に関わる事を決めたのは俺だ。危険どうこうをとやかく言うつもりはねぇよ」
「その後始末をする発端を作ったのは? 彼等の怠慢が原因だろう? 彼等が有能であれば、君がこちら側に足を踏み入れる必要は無かったんだ」
「それはもうたらればだ。過ぎちまった事は仕方無いだろ。俺だって、俺より力があるのに俺よりも行動が遅かった事については腹にすえかねてる。でも、それを言ったって事態は何も変わらない。ただ禍根を残すだけだ」
きさらぎ駅の際に彼等の対応が遅かった事を許すつもりは無い。自分より力があり、仲間がいるのに、ずっと足踏みをしていた彼等を素直に許せる訳も無い。けれど、それを言ってしまえば彼等との間に蟠りを作る事になる。そうなってしまえば、雪緒と彼等で連携をとる事は出来なくなる。
「時雨、これは俺が決めた事だ。それに、今回は仄達も駆け付けてくれた。俺はこの結果を、俺一人で出せたものだとは思ってないよ」
百鬼夜行や陰陽師達の手助けあっての結果だと思っている。その思いに偽りは無い。雪緒が眠らされた時、時雨が周りの敵を倒してくれていなかったら、雪緒はその時点で死んでいた。雪緒は、色んな場面で彼等に助けられた。
「けれど、君が最前線に出る必要はーー」
なおも言い募ろうとする時雨。けれど、その言葉を途中で遮られる。
「全く。男連中はどうしてこう面倒臭いんでしょうねぇ?」
言いながら、鈴音が糸で時雨の口元を塞ぐ。といっても、仮面越しなので、時雨は喋る気になれば喋る事が出来る。そうしないのは時雨を止めている者が鈴音だけでは無いからだ。
「良いですか、新参者。主様の命は絶対。そして、主様のご意向こそ、我等百鬼夜行の意向。百鬼夜行の末尾を歩くのであれば、それくらい弁えなさい」
凍花が鋭い視線を時雨に向けて、その手を首筋に添えて言う。時雨の首に霜が張り付き、凍花の手からは冷気が溢れる。
「主が良しとしている事を俺達がとやかく言うものではない」
「貴方がそれを言うんですかぁ?」
「ああ」
「いけしゃあしゃあと……だからわたし、貴方が嫌いなんですよぉ」
黒曜を不機嫌そうに見る鈴音。一見隙だらけに見えるけれど、一瞬たりとも気を抜かず、意識は時雨に向いている。
「お前等、乱暴は止せ。鈴音、糸を剥がせ。凍花も落ち着け」
「はぁい」
「御意」
雪緒の言葉に二人は頷き、凍花は手を引っ込め、鈴音は糸を剥がす。その際、ガムテープを勢い良く剥がすような乱暴さで剥がしたので、仮面が一瞬浮いてから時雨の顔に勢い良く叩き付けられる。
時雨が顔と首筋をさすりながら雪緒に言う。
「君、こんな危険な妖といったいいつ出会ったのさ」
「ずっと前に出会ったみたいだぜ」
平安に出会っているとの事だけれど、雪緒はまだ平安で彼等に出会っていない。だから、雪緒は彼等との出会いを知らないので、その出会いを語る事は出来ない。
「それはそうと、時雨。今度お前の身にあった話をちゃんと聞かせてくれ。何も知らないんじゃ、何も判断出来ないからな」
時雨が陰陽師を毛嫌いしているのは明白で、それが生前の事と何か係わり合いがある事も何と無く予想は着いている。
けれど、雪緒はその細部を知らない。知らなければなんとも言えない。
「……分かったよ。おりを見て、話をする」
「おう」
時雨が話をすると言い、雪緒はその言葉を信じて頷く。時雨の事だから約束を違えたりはしないだろう。
「さて、では帰りましょうかぁ。わたし、疲れましたぁ」
「ふん、だらしが無いですね。私はまだまだ余裕です」
「わたしは貴女みたいな野猿とは違うんですぅ」
「誰が野猿ですか! この|二面性女(猫かぶり)!」
「真面目処女には言われたく無いですぅ」
どうにも突っ込みづらい会話をする鈴音と凍花。
ぎゃーぎゃーと騒ぐ二人を尻目に、仄が雪緒に言う。
「雪緒くん、今度二人きりで話せるかな?」
「え、別に大丈夫だけど……」
「ありがとう。じゃあ、私も行くね。後処理しないと」
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。一番の功労者はゆっくり休んでて」
言って、仄はその場を後にした。
無理をして笑みを浮かべている様子の仄を見て、雪緒は一つ溜息を吐いて時雨を見る。
「言い過ぎだ。後で謝っておけよ?」
「その必要があればそうするよ」
「あいつだって色々抱えてるんだ。それに、まだ高校生だ。大人があんまり責めてやるなよ」
「君も高校生だろ? ……でも、まぁ、僕も少しだけ大人気なかったかもしれない。次からは少し自重するよ」
言い方から分かるけれど、陰陽師に対する毒舌を止める気が無い時雨に、雪緒は思わず溜息を吐く。
これは、早いうちに事情聞いておいた方が良いかもな……。
身内間で少しの問題を抱えながらも、ひとまず、猿夢はここ集結した。しかし、雪緒にはまだ一つ、問題が残っているけれど。