第漆話 与えられた力
仄の家に泊まると分かって、寝る時はどうするのだろうと緊張した。
仄の家は大きく、屋敷と呼ぶに相応しい程の広さだった。
けれど、一つ屋根の下で寝ていると思うと、それを意識して緊張してしまうと思った。
が、現実はそんな程度では済まなかった。
正直に言おう。かなり緊張している。
なにせーー
「……」
「……」
ーー隣で炎蔵が寝ているのだ。緊張しない訳が無い。
布団に入り、電気が消え、暫くしてから思った。
どうしてこうなった!?
いや、仄の部屋で寝るとは思っていなかったけれど、それにしたってなんでクラスメイトの父親の部屋で一緒に寝なくてはいけないのか。
そもそも夫婦って寝室は一緒じゃないのか? 俺の家だと一緒だったぞ?
今の状況の事ばかりが頭に浮かび上がる。
そもそも客人って客間に通すものじゃ無いのか? え、土御門家ってそういう風習でも?
なんて、ありもしない風習についても考えてしまう。
仄や青子達の存在など忘れて緊張してしまっている雪緒。
因みに、青子と加代は仄の部屋で寝ている。
あれだけ反りが合わなそうな態度であった青子であったけれど、仄と一緒にお風呂に入った後はとても機嫌良さそうに仄と話をしていた。
お風呂で何があったのかは気になるけれど、それは女子の中の秘中の秘であることは、そういう事に疎い雪緒でも分かった。というか、お風呂での事など恥ずかしくて聞けようも無い。
仄に浴衣を借りた青子がにまぁっと笑った後に、雪緒をからかうように感想をたずねてきたけれど、雪緒はそんな青子を鼻で笑ってやった。
「なんでさ!?」
そう言って怒る青子に、雪緒は百年早えと言ってやった。
因みに、誰に答えても似たように返した。雪緒としては、彼女達よりも色っぽい少女を知っているからだ。
むろん、それは何時も平安で床を一緒にしている晴明の事なのだけれど、彼女の寝姿に比べれば三人の浴衣姿はなんと色とは無縁の事か。言ったら怒られそうなので言わないけれど。
ともあれ、三人の間の角質は無くなった、と思いたい。
けれど、仄が雪緒に対して抱いている微妙な忌避感は拭えていない。
彼女はいつも通り雪緒と接しようとしているけれど、それが何時もの自分を演じている事は見ていて分かった。
仄にとっての陰陽論と雪緒の考えは相容れないものだ。
そして、それは同時に雪緒と晴明との考え方が相容れない事と同義だ。けれど、雪緒は晴明の事を知った。知ったうえで、彼女の在り方を受け入れた。自分の中でちゃんと納得した。
しかし、雪緒と仄はまだ友人関係が浅い。その上、ほぼ毎日会うといっても、彼女は雪緒を避けるし、話をする時間も少ない。四六時中一緒にいる晴明とは訳が違うのだ。
こればかりは気長にやるしかない。仄が自分の中で納得する答えが出るまで、雪緒は待つつもりだ。まぁ、待った結果、相容れないとなれば、互いに離れていってしまうのだろうけれど。
悲しいけれど、それがお互い一番傷付かないのならその方が良い。
そんな事を考えて気を紛らわせていると、横で寝る炎蔵が不意に声をかけてきた。
「雪緒くん、起きているかい?」
「はい。目ぇパッチリです」
貴方のお陰でまったく寝れません、ええ。
なんて事は口には出さない。
けれど、雪緒が起きていると分かった炎蔵はそのまま続けた。
「実は、私も眠れないんだ。茶でも一杯どうだね?」
「……頂きます」
「うむ」
断るのも気が引けたので、雪緒は頷いた。
頷いた雪緒に、炎蔵も頷き、そのまま起き上がる。
「では、着いて来たまえ」
「はい」
雪緒も起き上がり、炎蔵の後に続く。
そして、屋敷の中を暫く歩くと、立派な日本庭園が見える縁側に腰を降ろした。
てっきり居間にでも行くと思っていた雪緒は多少面をくらうけれど、炎蔵の横に幾らか距離を空けて座った。よくよく考えてみれば、縁側でお茶を飲むのは何時もの事だ。
二人で並んで縁側に座り、暫くすると足音も無く二人の少し後ろに誰かが膝を付いた。
気配を感じていたので、驚きは無かった。
その者はお茶とお茶請けである団子を置くと、これまた音も無く去って行った。
炎蔵は湯呑みを手に取り、ずずっとお茶を啜る。
雪緒も湯呑みを手に取ってお茶を啜る。
春とは言え、少しだけ涼しい夜。温かいお茶が身体に染みる。
暫く、お茶を飲んで立派な日本庭園を眺めた。
隣からことっと湯呑みを置く音が聞こえてくる。
「君は、式鬼を使役しているのかい?」
唐突な質問。それが二人の間を満たすための話題だったのか、素直に気になっただけなのか。
ともあれ、答えないという失礼をする事はしない。答えられない質問でもないし。
「はい。使役、とは違いますけど」
「友人、なのだったな」
「……はい」
なんとなく、炎蔵がこの話題を出した理由を理解した。
おそらく、仄から聞いたのだろう。雪緒が、式鬼を守るべき対象だと、友人だと思っている事を。
ちらりと、炎蔵の顔を伺う。その顔は厳めしく、雪緒が今日見てきた炎蔵の常の表情のままであった。
「……仄に言われました。陰陽師に向いてないって」
「ああ。私も、そう言ったと聞かされた」
雪緒の、少しばかり試すような言葉に、炎蔵は素直に返した。
お互いが、お互いが気付いている事を知っていた。なら、話は早かった。
「まぁ、俺としては正直どうでも良いです。俺の護りたい者は変わらないですし」
それが雪緒の変わる事の無い本音だ。そして、変える事の無い本音でもある。
「それに、俺は陰陽師ではないです。陰陽師になるつもりもありません」
「では、君はなんだと言うんだ?」
「俺は、ただの高校生です。ただちょっと幽霊が見えて、人よりこっち方面に入り込んでしまった、ただの高校生です。それ以上にはなれません。それ以下になる事なら、何時だって出来るんでしょうけど」
ただの高校生以上になれないから、雪緒は高校生が抱えきれない事情を己の中で処理しきれない。
自責の念が強いから、今この町に怪異が溢れているのも自分のせいだと思ってしまう。例え、青子に先走った事で助かった命があると言われても、それでも現状は自分のせいなのだと思ってしまう。
重責に押し潰されそうになりながら、平静を装う。今も、胃がキリキリと痛んでいるけれど。
雪緒が完全に怪異と関わる事をやめて、七星剣を手放すのであれば、雪緒はただの高校生に戻れる。
けれど、雪緒は自分のしでかした事の後始末をしなければいけないし、晴明から与った者を無責任に手放す事はしない。雪緒が七星剣を手放すのは、この件が全て片付いてから、平安で晴明に直接返す。もちろん、盛大なお礼の言葉を添えてだ。
「多分、陰陽師は色々割り切らなきゃいけないんですよね? だから、式鬼も道具だと割り切らなくちゃいけない。大を生かす為の小の犠牲を許容しなくちゃいけない。だから、仄が式鬼を道具として使い切れって言った時、ちゃんと納得はしましたよ」
けれど、納得できるからといって、自分が許容できるかどうかはまた別の話だ。
「でも、俺は納得できても、そのやり方を許容できない。俺は、俺と知り合った人は、誰であれ護りたいんです」
雪緒は失うのが怖い。母である楸を目の前で亡くしてから、その恐怖は芽生えた。
「……例え、それが人ならざる者でも?」
「人か人じゃないかはあまり重要じゃないですよ。ようは、俺が自分に嘘を付くか付かないかですから」
護るか護らないか。ようは、それだけの問題である。
そして、自分に嘘を付いて苛立っていたのは記憶に新しい。危険だから、力が無いから、自分には関係無いから、そう言って拒んでいた。
自分に嘘を付いていた。
護りたいから護る。雪緒の動機は至極単純だ。
「だから、まぁ、仄と反りが合わなかったも、無理は無いかなと。前にも、似たような事で色んな人に怒られてますから」
晴明、冬、時雨。皆に同じように、怒られた。
「……そうだろうな。陰陽師として生きるなら、その考え方はあまりよくない」
厳めしい顔で雪緒の言葉を肯定する炎蔵。しかし、次の瞬間にはふっと優しげな笑みを浮かべた。
「だが、私は嫌いではない」
「え?」
思わず、炎蔵の方を見てしまう。
驚いた様子の雪緒に、炎蔵は笑う。
「私だって、できれば犠牲は少ない方が良いと思う。それが人であれ式鬼であれ、縁を結んだ者を誰が好き好んで死地に追いやれる」
言って、視線を庭にずらす炎蔵。
その顔は何処か懐かしむような色を見せている。
「私も、この道を生きて長い。人の死も、式鬼の死も多く見てきた。どれも、心を痛まずにはいられなかった」
嘘も偽りも無い。怪異と相対するという事は、そういう事なのだろう。殺し殺されが当たり前。雪緒だって、きさらぎ駅でそれを見たし、鬼主をその手にかけた。
「誰であれ、その者の心に残った者が死ぬのは、その者の素性など関係無く辛いものだ」
「……はい」
「むろん、私達のように思わぬ者もいるだろう。分家でも、成り上がり精神の強い者は、式鬼を強力な武器などとしか思っていない者もいる」
厳めしい面を更に厳めしくし、炎蔵は睨むように目を細める。
が、直ぐにふっと力を抜くと、眉間の皺をほぐした。
「仄は……あの子は、式鬼を道具だと思ってはいない。けれど、強くあろうとするあまり、安倍晴明のようになろうと振る舞ってしまう」
「晴明みたいに?」
「ああ。陰陽連の要は、筆頭五家だ。その中に土御門は入っていない。けれど、功績さえ上げれば、筆頭五家に入れる。あの子は、筆頭五家に入って、陰陽師の腰の重さを取っ払いたいんだ」
「そうなんですか……」
雪緒は、筆頭五家がどれ程の存在なのかは知らない。けれど、陰陽師を束ねる五家だ。その力は分家を上回るものだろう。
けれど、仄は間違えている。
晴明は、式鬼をただの道具と捉えてはいない。
自分が傷付くのが怖いから、彼等を使役し、ある種の冷酷さを持って使っているのだ。彼女は、決してただ冷酷に式鬼を使った訳ではない。
しかして、晴明の事を知らない仄は、そこを履き違えてしまっている。いや、言いぶりからして炎蔵も同じように捉えているのだろう。
それは間違った解釈です。そう言いたかったけれど、口には出せない。出せば、晴明との関係を話さなければいけなくなるから。
雪緒が黙っていると、炎蔵は言葉を続けた。
「……私が筆頭五家に入れる程の功績を上げられれば良いのだが、生憎と、私にそんな力は無い」
寂しそうに、悔しそうに、己の手を睨みつける炎蔵。
「私は、並以上にはなれた。けれど、特別にはなれなかった」
炎蔵の言う並以上がどれ程の基準なのかを雪緒は知らない。だから、炎蔵の苦悩も悔しさも雪緒は知らない。理解できない。
だから、簡単には頷けない。
雪緒は、炎蔵の次の言葉を待つ。
けれど、炎蔵は何時まで待っても言葉を口にしなかった。
睨み付けていた掌は閉じられ、炎蔵の視線は、また何処か別のところを見ていた。
夜の静寂が二人の間に訪れる。
少しだけ冷めてきたお茶を一口飲み、雪緒は言う。
「……並とか、並じゃないとか、俺には分からないですけど、炎蔵さんが皆に慕われていて尊敬されているのは、今日の姿を見てわかりました」
こう言ってなんだけれど、仄は分家頭首達に嘗められていたのに対して、炎蔵にはそんな素振りを見せる事はまったく無かった。
それだけで、炎蔵と言う男を証明するには十分だった。
「その……正直、俺自身尊敬されるような奴じゃ無いんで、色んな人の上に立って尊敬される炎蔵さんを、凄いと思いました」
「雪緒くん……」
「並とか、特別とか、炎蔵さんはそういうの抜きにしても、その……格好良いと思います」
誰かの上に立つ事が、誰かに頼られる事が、誰かを護るという事が、どれ程難しいか。どれ程重圧か。どれ程重責か。その一端を雪緒は見た。
分家を束ねる炎蔵さんのその背中には、雪緒が思う以上の人の命がのしかかっているはずだ。
そんな重責を背負いながらも仄の事を気にかける事の出来る炎蔵を、雪緒は素直に凄いと、格好良いと思った。
「……すみません、なんか、知ったような口きいて」
言った後に、自分が少し知ったかぶったような事を言ったのではと思い、思わず謝ってしまう。
が、謝る雪緒に反して、炎蔵は驚いたような顔をした後、朗らかに微笑んだ。
「いや、ありがとう。七星剣に選ばれた君にそう言ってもらえて、私も嬉しいよ」
「いえ、俺は……」
雪緒は七星剣に選ばれた訳ではない。
もし七星剣が勇者を選ぶ選定の剣のような、使用者を選ぶような代物だったなら、きっと雪緒は選ばれなかっただろう。
なにせ、雪緒はそんな大層な器では無いのだ。
雪緒は、自分が平凡である事をよく知っている。
平凡から少しだけ位置をずらして歩き、周りの人に後押しされた結果、きさらぎ駅を倒す事が出来たのだ。
雪緒は、決して特別でも何でもない。
雪緒は、ただただ贔屓され、助けられただけなのだ。
本当なら、雪緒は七星剣を手放すべきなのだ。そして、きさらぎ駅の事を忘れて、また平凡な生活に戻るべきなのだ。
そうすれば、史上初の七星剣の使い手はいなくなり、次代が即座に選ばれる事だろう。
雪緒よりも才能がある者は掃いて捨てるほど居る。その誰かなら、七星剣を上手く使ってくれるだろう。
けれど、そうしないのは、雪緒の意地だ。我が儘だ。
晴明から貰ったものを手放したくない。七星剣を手放したくないのは、七星剣が無ければ誰も護れないからだ。護れない事が、怖いからだ。
怯えた自分の手が、七星剣を離したがらないのだ。
炎蔵の言葉に、しかし、雪緒の本音を漏らしてしまえば、七星剣の返却を要求されそうで、雪緒は言葉を出せなかった。
七星剣は雪緒が貰った。それは譲るつもりは無い。晴明から、雪緒が托されたのだ。
けれど、その托された力は何時でも手放せるものなのだ。
「どうかしたのかい?」
「……いえ」
一瞬見せてしまった苦々しい顔をすぐさま取り繕う。
雪緒は、沈んだ内面を炎蔵に悟られないように、どうにか取り繕ってその場をしのいだ。しのぎきれたとは、思っていないけれど。