第弐拾漆話 七星剣
昨日順番を間違えてしまったので、上げ直しです。ここから連投します。
時雨を式鬼とする。それはつまり、人であった時雨を使役するという事に他ならない。
「いや、ダメだ。それは、人としてしちゃいけない気がする……」
時雨の言葉を理解すると同時に、雪緒は時雨の提案を否定する。
「同じ人だったからかい? 気にすることは無いよ。確かに、陰陽師としては是とはされない行為だけれど、互いの同意がある場合は別だ。この場合、僕は了承している」
「そういう事じゃない! 人が人を従えるって、なんか、違うだろ……」
「違うね。僕は最早人じゃない。化生と変わり無いんだ。それに、死後も生前も人が人を従えるのは変わらない」
「全然違うだろうが! 組織として人に従うのと、ただ一個人に従うのは全然違う! 少なくとも、俺はあんたを式鬼にしてまで従えたいだなんて思わない!」
雪緒としても、式鬼を従えているという気持ちはある。そういうものだと理解している。
しかし、小梅が自分よりも下だなんて思ってはいない。妹のように、家族のように思っている。
真剣な顔で首を振る雪緒に、時雨は真剣な、そして、どこか咎めるような目を向ける。
「甘い、甘いよ雪緒くん。それで陰陽師が勤まると思っているのかい?」
「生憎だが、俺は陰陽師じゃない。陰陽師の勤めなんて関係ない」
「じゃあそれでもいい。けど、君はこの状況をどうするつもりだ? あれは嫌だこれは嫌だ。嫌々首を振っていれば事態は好転するのかい? しないだろう? その結果の今だろう?」
「だからって何でもして言い訳じゃない。結果が好転しないからって、俺は俺の信念を曲げたりはしない」
「折れなきゃいけない時もある。僕は、折れなかった。その結果僕は死んだ。信念を曲げてでも目的を達成しなくてはいけない時もある」
自分を曲げなかったから死に至った。
その言葉は決して嘘では無いのだろう。時雨が、口先だけでそんな事を言うような人物には思えない。
けれど、それをしてしまえばどうなるかなんて、考えなくても分かる。
「信念を曲げた先に、俺の求めた俺はいない。なら、俺は絶対に曲げない」
折れることは簡単だ。けれど、折れないことは、耐えることは、妥協しないことは、簡単じゃない。
「俺はあんたを式鬼にはしない」
曲げることの無い、偽り無い思い。
時雨は、そんな雪緒に言い募ろうとして、即座に背後を振り返る。
「全員避けろ!!」
果たして、その声に反応できたのは、その言葉を言った時雨と、反射的に身体が動いた雪緒だけであった。
時雨が千鶴と玖珂を庇いながら飛びすさり、雪緒が上善寺を押し飛ばす。
直後、雪緒を衝撃が襲う。
痛みを感じる間も無く雪緒の身体は弾き飛ばされ、ホームセンターのガラスを突き破り、店内の棚を幾つも薙ぎ倒す。
「ど……道明寺……!」
押し飛ばされた上善寺は、腰を抜かしながら雪緒が飛ばされた方を見た。
崩れた棚。散乱したガラス。濛々と立ち込める埃。
まるで、自動車が店内にブレーキもかけずに衝突したような惨状に、上善寺の血の気が引いていく。
「ど、道明寺……」
ふらふらと、覚束ない足取りで立ち上がり、雪緒の元へ歩く。
「青子ちゃん、伏せるんだ!」
「え?」
振り向きざま、足に力が入らずに膝からくずおれる。けれど、それが結果的に功を奏した。
くずおれ、尻餅を付いた上善寺の頭上を、何かが通過した。
背後で、けたたましい轟音が鳴り響く。
上善寺は、頭上にあるものを仰ぎ見る。
それはまるで触手のような見た目で、ぬらぬらと怪しい湿り気を帯びていた。
しかし、それだけではない。
触手にはびっしりと、何かの文字が刻まれていた。草書のような字体で、何かがびっしりと刻み込まれていた。
それが何かは分からない。けれど、見るだけで背筋が凍る程の悍ましさを感じる事はできた。
不意に、触手が蠢く。
触手の皮下から何かが表皮を押し上げるような、そんな動き。
やがて、その押し上げている何かが、皮下で形を作る。
それを見た瞬間、上善寺の呼吸が一瞬止まる。
それは、人の顔をしていた。
目や鼻、口が辛うじて分かる程度。けれど、それだけで充分だった。
触手の皮下で、顔が喋る。
「た……ゥけぇ、で……」
音なんて聞こえないはずなのに、耳にたどたどしい言葉が聞こえてきた。
ーー助けて。
皮下の顔は、上善寺にそう言ったのだ。
しかし、上善寺にとって、それは恐怖でしかなかった。
「いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絹を裂くような絶叫を上げる。
あまりの恐怖に涙を流し、上善寺は雪緒の元に駆け出した。
店内に走る上善寺を見て、時雨は心中で舌打ちしながらも、素早く千鶴と玖珂に指示を出す。
「二人も店内に戻って! 全員で協力して、出来るだけ強力なバリケードを作って!!」
「あ、あ……」
「何、あれ……」
しかし、二人とも放心状態に陥ってしまっている。
それも無理からぬ事ではあるのだけれど、時雨としては心中でする舌打ちが増えるだけであった。
二人は、とある一点を見て放心してしまっている。
そこには、ナニカが居た。
そのナニカは、人の形を多少なりとも残しながらも、けれど、人の形を逸脱していた。
全身を埋め尽くす呪言。不揃いな長さの腕が九本。上下逆さまの顔。
そんな異形が顎をがちがちと、まるで威嚇するように鳴らしながら三人を見ていた。
目の前の存在が、時雨の言っていた障害。
この、きさらぎ駅という世界を構築する陳を一身に刻み込んだ存在。
仮称ーー鬼主。
鬼主は、虚ろな瞳を時雨に向けると、不気味に顎を鳴らして笑った。
「お早う」
何時もよりぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
瞼を上げ、声の主を見れば、見慣れた晴明の姿がそこにあった。
「晴明……お早う」
「うむ。して、終わったのか?」
「何が……?」
「きさらぎ駅だ」
言われ、ぼやけていた頭が途端に冴え渡る。
そうだ。自分は何かに吹き飛ばされて気絶したのだ。まだ、終わっていないのだ。
それを認識すると、勢い良く起き上がり、雪緒は晴明に詰め寄る。
「晴明、今すぐ俺を眠らせてくれ!」
「……その様子では、まだ何も終わっておらぬのだな」
「ああ、終わっちゃいない! 多分、元の身体は気絶してる! 今すぐ起きなきゃ皆が危ないんだ!」
「皆? 知り合いを助けるだけでは無かったのか?」
「小言もお叱りも後で聞く! 頼む、今は一秒でも早く戻らないといけないんだ!」
雪緒を気絶させた脅威は、未だに過ぎ去ってはいない。あの場所に、留まっている。
あの背筋が粟立つような怖気が走る気配は、あの場に居た者でどうこう出来る次元を超えている。
だからこそ、早急に戻って逃げなくてはいけないのだ。
「落ち着かぬか。こちらで其方が眠ったとて、向こうの身体が起きぬのであれば意味が無い。今は落ち着いて、私に状況を言うてみよ」
「そんな場合じゃないんだ! 頼む、どうにかできないか!? このままじゃーー」
「落ち着かぬか馬鹿者!!」
怒声と共に、額に衝撃が走る。
「いっつ……!」
額を抑える雪緒を見て、晴明は雪緒の額に振り下ろした扇をぽんぽんと掌に打ち付ける。
「ここで眠うても意味が無いと言うたであろう。であれば、戻ったさいに何が出来るか。それを考えるのが先決だ。落ち着いて、状況を言うてみるがいい」
安心させるように、できるだけ優しい口調で言う晴明。
そんな晴明の言葉を聞いて、幾らか冷静さを取り戻すと同時に、どうしようもない無力感が押し寄せて来る。
晴明の言が本当であれば、雪緒が今ここで騒いだとしても意味が無い。であれば、晴明の言う通りに話してみる他無い。
晴明の真ん前に座り直し、雪緒は覇気も焦りも無い声で言う。
「行って、帰ってくるだけのはずだった。でも、無理だった……」
「不測の事態が起きたのだな?」
「ああ。行方不明者が集団で固まってた。その中には、子供も居た……」
俯き、懺悔するように言う。
「俺は、見捨てる事を選んだ。見捨てて、助けようと思った五人だけで逃げようと思ったんだ。でも、二人が拒んで、言い合ってる内にナニカに襲われた」
「何か、か……察するに、きさらぎ駅の中に妖が居た、という事だな?」
「ああ。それも、一体だけじゃない。何体もだ。それが、きさらぎ駅の中に居た人達のなれの果てだって、知り合いは言ってた」
「なれの果て……やはり、ただの結界では無いか」
「黄泉と似てるとも言ってた」
「とすれば、黄泉戸喫のようなものか。黄泉の住人になり果てたという事だな」
聞けば聞くほど、晴明の表情は険しくなっていく。
「……正直、予想以上だった。俺が思ってる以上に、きさらぎ駅はやばいところだった」
怪異の渦中があれ程酷いものだとは思っていなかった。
ただ、知らない土地で行方不明になった千鶴を連れ戻す。そんな事しか考えていなかった。なれの果ても、行方不明者の数も、考えていなかった。
「何もかも足りていなかったのに……馬鹿だな、俺。意気込みや気合いでどうにかなる訳でも無いのに……」
それを、雪緒は知っていたはずだ。少なくとも、二年前に。
先程の焦りが無くなり、変わりに自責が浮かび上がる。
大見得を切ってきさらぎ駅に行くと言ったのに、結果はこれだ。近付いて来ている何かに気付くことも出来ずに、上善寺を、皆を守りきる事も出来ずに早々に脱落している。
あの時、時雨を式鬼にしていれば変わったのだろうか? 戦える者が一人でも居れば、変わったのだろうか?
そんな事を思うも、しかし、仕方がないからと割りきって時雨を式鬼にする事は、どうしても出来なかった。
意気消沈し、うなだれる雪緒の頭に晴明が恐る恐る手を乗せて、ゆっくりと優しく撫でる。
「何も、足りておらぬ訳ではあるまいよ」
「……いいんだ、晴明。無理に慰めなくったって……。俺には何も足りてない……」
「無理に、では無い。私も、其方が眠った後に考えた。……其方と私は、同類なのだな」
「同類……?」
「ああ」
頷き、少しの躊躇いを見せた後、晴明は言う。
「……私は、臆病者だ。戦うのが怖い。他人が怖い。死ぬのが怖い。傷付くのが怖い。外に出るのが怖い」
それは、紛れも無く晴明の本音だ。
偽り無く語られる晴明の本音に、雪緒は視線を晴明に向ける。
「切っ掛けがあった訳ではない。生来、私は至極臆病だ。何をするにも怖くて堪らない」
それは対人関係においても例外ではない。視線が鋭いのは、不機嫌そうに見えるのは、恐怖を内側に内包しているからだ。
「私は、私が損なわれるのが怖い。其方は、私が思うに、誰かが損なわれるのがひどく恐ろしいのだろう?」
「……ああ、その通りだ」
晴明の問い掛けに、雪緒は正直に答える。
そして、今まで隠していた過去を打ち明ける。雪緒が誰かが損なわれるのを嫌がる切っ掛けとなった話を。
家族以外は知らない、雪緒の心の傷の話しだ。
「俺の母さんは、もういない。事故に遭って、死んだんだ」
車に轢かれて亡くなった楸。今でも、その最後の瞬間を鮮明に思い出せる。
「母さんは、俺の目の前で死んだんだ」
楸は、雪緒の目の前で車に轢かれた。
買い物に行った帰り、荷物が重くて少しだけ歩くのが遅れた雪緒を、数歩先を歩きながら笑って急かした楸を、なんの脈絡も無く車が轢いていった。
雪緒は、楸が轢かれる数秒前に車に気付いていた。けれど、声も出せず、身体も動かなかった。
迫り来る恐怖を前に、雪緒は何も出来なかったのだ。
その事を、雪緒は後悔している。
あの時動いていれば。あの時声をかけていれば。あの時、あの時あの時あの時ーーーー!
そんな後悔ばかりが、雪緒に付いて回っていた。
「母さんが死ぬ直前、俺は何も出来なかった……俺は、母さんを見殺しにしたんだ……」
心の奥底でずっと思っていた事を口にした。
繁治に否定され、明乃に慰められたけれど、雪緒はずっとそう思い続けていた。
「……誰かが傷付くのがずっと怖い。考えただけでも、おかしくなりそうなんだ……」
だから、助けたいと思ってしまった。分不相応にも、何かしたいと思ってしまったのだ。
本当は、あそこで出会った人達を見捨てるのも嫌だ。でも、選ばなきゃいけなかった。方々に迷惑をかけて、それで自分の我が儘を通せるとは思っていない。だからこそ、雪緒は助けられるだけ助けようとしたのだ。
手に余る、自分には無理だと言い聞かせて。
けれど、諦めが付かなくて、時雨の提案に乗ろうとしていた。晴明に、危ない事はしないと約束をしていながら。
結局、中途半端なのだ。
冬に大見得を切っておきながら、雪緒の心は揺れ動いている。
「……でも、俺には実力が無い。本当に、何も無いんだ……」
それでも、浅ましくも思ってしまう。助けたい、と。
それがどれ程傲慢な考えなのかは理解している。分不相応なのかも理解している。けれど、思ってしまうのだ。
「晴明の言った通り、俺は臆病だ。誰かが傷付くのが嫌だ。それが俺の知ってる奴ならなおさらなんだ……」
けれど、怖い癖に、人との関わりを持っていたいと思ってしまう。
自分でも思う。難儀であると。
弱音ばかりをこぼす雪緒に、晴明は頭を優しく撫でながら言う。
「其方は、何も持っておらぬ訳ではあるまいよ。少なくとも、私が持ち合わせておらぬ物を、すでに持っておる」
頭を撫でていた手を頬に添え、もう片方の手も同じようにする。そして、雪緒の顔を優しく包み込む。
「私には、未だに手に入れられぬ物を、其方は持っておる。そしてそれは、時にして何物にも代えがたい力になる。私は、それを知っておる」
「俺に、あるもの……」
考えるも、分からない。
だって、自分は晴明よりも劣っている。力も無い。知恵も無い。知識も無い。晴明に勝てるものなど、何も無い。
「あるわけない……お前以上の物なんて、俺はお持ち合わせてない……」
「いや、ある。良いか、よく聞け。其方が持っているもの、それは勇気だ」
勇気。至極真面目に、心底から晴明は言う。
勇気? 勇気なんてなんの意味がある。
「違う。俺のは無謀だ」
「いいや違う。私は、何時も必要な一歩を踏み出せぬ。しかし、其方は違う。助けようと、私の反対を押し切って一歩前に進んだのだ。それを私は無謀とは呼ばぬ」
真剣に、まるで口答えは許さないという風に、晴明は言う。
「確かに、勇気と無謀は違う。けれど、必要な時に一歩も踏み出さないのはただの臆病だ。其方の捜し人は見付かったのであろう?」
「あ、あぁ……」
「であれば、結果は伴った。しからばそれは無謀ではなく、勇気の成した事だ」
「それじゃあ結果論だ……」
「なんでも良い。其方が一歩踏み出した結果であるには変わり無いのだからな。私は、その一歩も踏み出せぬのだから」
晴明は、臆面も無く雪緒を肯定する。そのたびに、雪緒はそれを心中で否定する。けれどその否定はどこか弱々しい。
否定の言葉以上に、晴明の言葉が心に沁みるのだ。
「雪緒。其方の勇気を、私は否定しない。私に無い物を持つ其方を尊敬する。だから、私も決めた」
言って、視線をずらす晴明。
雪緒は晴明に顔を固定されているので、そちらを見ることが出来ない。けれど、そちらで誰かが動いてる事だけは、物音を聞いて分かった。
物音が近付いて来る。
「晴明様、お持ちしました」
ようやっと雪緒の視界に入って来たのは、桐の箱を持った冬であった。
横長の桐の箱を冬が開ける。
晴明が雪緒の顔から手を離し、冬から桐の箱を受け取る。
離れてしまった晴明の温もりを惜しく思いながらも、雪緒は桐の箱の中身を覗く。
「これは……?」
「七星剣だ。まぁ、私が作った贋作ではあるがな」
桐の箱の中に入っていたのは、二振りの直刀。
「雪緒、手を出すがよい」
「あ、あぁ……」
頷き、手を出せば、晴明は躊躇うことなく、いつの間にか手にしていた刃物で雪緒の指先を切り付ける。
「いっ……! ……切るなら切るって言ってくれよ」
「切ったぞ」
「次からは切る前に頼むよ、本当に……」
いつかもこんな会話をしたなと思いながら、雪緒は晴明のなすがままにされる。
直刀を一振り持ち上げ、血の滲む雪緒の指に押し付ける。そして、雪緒の指を使って刀身に文字を書いていく。
何が書かれているのかは分からない。けれど、良くないものではなさそうだ。
一振りを書き終わると、もう一振りにも同じように書く。
「私は、平安より動けぬ。時を超える事は、出来ぬゆえな」
静かに、若干の口惜しさを感じさせる声音で言う。
「また、其方の時代まで生きる事は叶わぬ。定命ゆえ、いつかは必ず死ぬ」
文字を描かれた七星剣。その二振りを、雪緒に差し出す。
「けれど、これは違う。時を超え、其方の時代までありつく事が可能だ」
雪緒は他愛もない話の中に、過去から現代まで残った物の話をしたことがあった。他愛もない、ただの世間話程度の話だ。
それを、晴明は憶えていた。
「これは今日より其方の物だ。この剣は其方の力となり、其方を守る盾となる。其方が喚べば、何処であれ馳せ参じる」
差し出された剣を、雪緒は恐る恐る受け取る。
手にした剣は冷たく、けれど、何故だかよく手に馴染んだ。
「雪緒。これが私に出来る精一杯の助力だ」
途端、意識がぼんやりとし始める。
視界が歪み、意識が遠退いていく。
以前も感じた、現代に戻る兆候。
ぐらつく雪緒の身体を支えながら、晴明は言う。
「さあ、行って来い。其方がしたいように、皆を助けて来い。そして、帰って来たらーー」
遠退く意識の中、揺らめく視界の中、その表情だけは、しっかりと目に焼き付いた。
「ーーまた、何時ものように茶でも飲もう」
言って、たおやかな笑みを浮かべる晴明。
その笑みを脳裏に焼き付け、雪緒の意識は途切れた。
眠りに付いた雪緒は身体から力が抜け落ち、不安定なまま倒れそうになる。
それを誘導して、晴明は雪緒の頭を自身の膝の上に優しく置く。
「宜しいのですか?」
「良い。あれは私には無用の長物。物置で埃を被るより、雪緒に使われた方が有意義であろう」
とはいえ、使われるのは遥か先の未来。その間、埃を被る事には変わり無いけれど。
しかし、冬の質問はまた別の事柄へ向けられたものであったらしく、被りを振ってから再度、今度は明瞭に問う。
「七星剣の事ではありません。宜しかったのですか? 逃げろと言わないで。初めはそのつもりでしたでしょう?」
言われ、晴明は冬に視線を向ける。
が、何も言わず、視線を膝に頭を乗せる雪緒に戻す。
「それに、七星剣にしたってそうです。あれを渡すと言うことは、戦うのを容認するようなものですよ? 戦う力を得た雪緒さんは、晴明様と同じ道を辿るかもしれないのですよ?」
「……やもしれぬな」
晴明は雪緒の頭を撫でる。
「だがな。此奴の顔を見ては、何もせぬという事が、どうしてか出来なかった……」
焦り、取り乱し、落胆し、自責し、後悔を吐露する。
そんな雪緒を見て、晴明は内心、酷く落ち着かなかった。
「であれば、十二天将とまでは言いませんが、他の式鬼を貸し与えればよかったのでは? 交わした契約の方が、七星剣を遺すよりも確実でしょうに」
十二天将。安倍晴明が従える最強の式鬼達。
その一人でも貸し与えれば、大抵の事はどうとでもなる。それ程までの力を持った十二の式鬼。
「それを、此奴は望まぬ。それに、聞きたいと思うた」
「何をです?」
「此奴が全てを終わらせた、その事変のあらましを」
「雪緒さんが死んでしまわれれば、あらましを聞く云々の話では無いでしょう?」
死ぬかもしれない。その考えが無いわけではない。
けれど、晴明はそんな焦りを見せることも無く、淡々と言う。
「何故かな。私は、雪緒が帰って来ぬ事を疑えぬのだ。常の如く、雪緒が目を覚まし、私がお早うと言えば、雪緒がお早うと返してくれる。そんな当たり前が、明日も続くように思えるのだ」
「……占ったのですか?」
「いや? しかし、占わずも分かるよ。何故だかは、知らぬがな」
笑って言う晴明。そんな晴明を見て、冬は思う。
それは、雪緒を信じているという事ではないのだろうか、と。
しかし、それも何か違うような気がしてならない。だからこそ、その思いを口には出さなかった。
冬は思った事とは別の事を口にする。
「雪緒さんが居る生活が、もう当たり前になったんですね」
からかうように言えば、晴明は一度冬を見てから、すっと目を逸らした。
照れてる。
心中で、冬は笑う。
かく言う冬も、雪緒が居る生活が当たり前になってきてはいるけれど。
「そうさな。居なくなれば、ちと寂しいやもしれん……」
誰に聞かせるでもなく、晴明は小さく言葉をこぼす。
けれど、人外の聴覚を持つ冬には、当たり前のようにその呟きは聞こえている。
普段よりも素直な晴明に、ふふっと、思わず笑ってしまう。
晴明は笑われていることを気にも止めずに言う。
「それに、もしやとも思うのだ。もしや雪緒は、私が持てなかった、勇気なのではないかと」
普段は外に出もしないのに、雪緒に会うときは外に出られた。雪緒の衣服等を買い揃える時も、外に出られた。雪緒が居なくなって、戻ってきた時に慌てて迎えに行けた。
それを勇気と呼べるのかどうかは分からないけれど、外に踏み出せた事には変わりない。
「なら、その勇気を、私は信じてみたいと思った」
自分が踏み出せた|勇気(雪緒)を、信じたかった。
「だから、必ず帰って来るのだぞ、雪緒」
そう言って、雪緒の頬を優しく撫でた。