第弐拾壱話 臆病
「雪緒さん、買い出し手伝ってくださいますか?」
冬のその一言で、雪緒の買い出しが決まった。
普段、冬は買い出しを一人で行っている。といっても、殆ど園女に任せて、冬はあまり行かないけれど。
しかして、荷物持ちの必要も無ければ、道案内も質の良い野菜の見分け方も知らない雪緒だ。一緒に連れていく必要が全くない。
にも関わらず、冬は雪緒に買い出しに一緒に来てくれと言う。
つまり、外で話がしたいという事だろう。
朝餉を終えて、何時もならのんびりした時間になるはずが、今は気まずい沈黙が支配していた。なので、冬の提案は渡りに舟であった。
雪緒は二つ返事で了承し、冬と共に買い出しへと出掛けた。
冬が家の外へ雪緒を連れ出す事に、晴明は何も言わなかった。言わなかったという事は、容認するという事だろう。
行って来ると晴明に声をかけたけれど、晴明は何も言わなかった。
冬と二人並んで、京の都を歩く。
晴明と喧嘩をしたと言うのに、冬は特に怒ることも、雪緒を咎める事もしない。いつも通り、その綺麗な面に微笑を称えている。
「雪緒さんは、もう決心は出来ているんですか?」
冬が唐突にそうたずねる。
一瞬考えてしまうが、直ぐに先程の話の事だと気付く。
「はい」
「晴明様から、行き来の方法を聞き出せなくても?」
「はい」
おそらく、もう時間が無い。
行方不明になって何日経つのかは分からないけれど、見知らぬ土地で、何も食料が無い可能性を考えれば、そう長くはもたないだろう。
迷いの無い返答をする雪緒に、冬は少し考えるような仕種をする。
「……きさらぎ駅への出入りの方法は皆目見当も付きませんが、安全に出る方法ならお教え出来ます」
「本当ですか!?」
「はい。ただ、雪緒さんに一つおたずねします」
「なんですか?」
真剣な眼差しを雪緒に向ける冬。しかし、その眼差しの中には、どこか雪緒を責めるような色も含まれていた。
「その方は、どうしても助けなくてはいけない方なのですか?」
冬の声は酷く冷めきっていた。雪緒を嫌っているからでも、憎いからでも無い。ただ、必要の無い者を切り捨てるような、そんな冷徹さが冬の言葉に冷気を含める。
見たことの無い冬の表情に、思わず息を飲む。
「私は、雪緒さんを少なからず気に入っております。晴明様なんて、雪緒さんを友人のように思っております。だからこそ、晴明様は雪緒さんをお叱りになられ、雪緒さんが消えたときは酷く取り乱したのです」
白藻に都に送ってもらった直後に見た晴明の様子が思い出される。
肩で息をし、乱暴に雪緒の手を引っ張り、怒りをあらわにして雪緒の頬を叩いた。始めて見た晴明の取り乱した姿。
「晴明様が感情をあらわにする姿も、久しく見ていませんでした。ですが、雪緒さんと言い合いになられたり、何気ない会話をしている時は、久方振りに晴明様の表情を見る事が出来ました」
冬が、嬉しそうに言う。
けれど、雪緒には想像が出来ない。
呆れた顔。怒った顔。焦った顔。初日に見せた、優しい笑顔。
雪緒が見てきた晴明は表情豊かで、感情的であった。
「私は、晴明様が喜んでいる事が一番嬉しい。けれど、雪緒さんの意思も尊重したいです。けれど、聞けば知り合いだと言うではありませんか」
剣呑な視線が雪緒を貫く。
「その知り合いは、雪緒さんがどうしても助けなくてはいけないのですか? 晴明様を不安にさせてまで、助けなくてはいけない人なのですか? 貴方を気にかけ、心を痛める晴明様より大切な人なのですか?」
冬は言っている。晴明と千鶴を秤にかけろと。その上で、どちらが大切かどうか決めろと。
そんな事、秤にかけるまでもない事だ。
「どちらも大切です」
「そんな中途半端な答えで納得するとでも?」
冬の剣呑さが増す。
そんな冬に、真正面から向き合う。
冬が言う通り中途半端な答えだ。甘さもあり、選ぶ事の出来ない優柔不断な者が言う答えだ。
けれど、雪緒はこんな答えしか持ち合わせていない。
「ごめん。俺の秤って、重量計なんだ」
釣り合いや、両方の皿の重さを計る事ができない。
雪緒の秤では総重量しか計れない。
どちらかを比べるなんて事ができない。
ただただ、責任が重くのしかかるだけだ。
「だから選べない。俺はあの時から、そう決めたんだ」
「人は選択を繰り返します。そんなやり方、何時か破綻しますよ? 晴明様も言っていましたが、関わるべき理由を求めている時点で、貴方はその程度だという事です。その程度でしか無い人間がそんな大層な道を選べるとでも?」
「誰も彼も助けたい訳じゃない。俺が助けたいのは俺の手が届く人達だけだ」
「その手が広がったら? 身の程も知らず、広げてしまったら? 頑張って手を伸ばせば伸ばす程、貴方の手には隙間が出来る。そこから誰もこぼれ落ちないなんて事、あるわけが無い」
「そんな度胸、あるわけ無いさ」
「度胸の問題ではありません! これで貴方がその知り合いを助けられたとして、その後はどうなります? その知り合いとやらは、同じ目に会えば浅ましくも貴方を頼ります! その知り合いがもしその時の事を誰かに漏らしたら? 貴方の知らない所で話は広がって、誰も彼もが貴方に助けを求めるでしょう! 貴方の度量も知らないで、貴方に解決出来ない無理難題を吹っかけるかもしれない! その時、貴方は断れるのですか? 無理でしょう? ただの知り合いを助けたいと豪語する貴方には! 知り合いですら無い誰かが行方不明と知って、何も出来ない自分に苛立っていた貴方には!」
声を荒げ、雪緒を叱るように、窘めるように言葉を紡ぐ冬。
けれど、その言葉は雪緒にだけに向けているものではないように思えた。いつかの誰かを責めるように、冬は言葉を紡ぐ。
「一度貴方が解決してしまえば、事は貴方の知らないところで勝手に進みます! 勝手に周りに話を進められ、勝手に外堀を埋められて! お前なら出来るといい加減な推量で無責任に責任を押し付けられる! こちらの気など知らないで、責任ばかりが積み上がる! その人が一人では何も出来ない事を誰も理解しないで、一人に押し付ける! その人の苦悩も恐怖も知らないで!」
そこまで聞いて、雪緒はようやく理解する。
冬が言っているのは、晴明の事だ。晴明が辿ってしまった道を止められなかった、自分に言っているのだ。あの時止められなかった自分を、責めているのだ。
そして、晴明と同じ道を辿るかもしれない雪緒を、心の底から案じているのだ。
事ここに至って、白藻の言葉に漸く納得する事が出来た。
『晴明さんは、怖いから、仕方が無い事と割り切るしかないのでしょうね』
晴明はずっと怖かったのだ。勝手に外堀を埋められて、自分の預かり知らぬ所で大役を押し付けられて。実力はあるのだろう。けれど、その実力に精神性が伴わなかった。
晴明は、|臆病(怖がり)なのだ。
なぜ晴明の家に多重に陳が敷かれているのか。都の守護の要である晴明を守るためだけではない。晴明自身が、怖かったのだ。安全な場所が、欲しかったのだ。
期待を裏切るのも怖い。誰かを失うのも怖い。何より、自分が損なわれるのが怖い。
その結果、晴明は戦いに式鬼を行使する。人在らざる者であれば、仕方が無いと割りきって。自分以外の、他の力ある誰かに頼むのだ。
漸く、得心が行った。
なら、なおさらだ。なおさら雪緒は行かねばならない。
「ありがとう、冬さん。心配してくれて」
自分を叱り、思い留めようとしてくれた冬にお礼を言う。
「でも、その話を聞いたらなおさら引き下がれない」
「な、何故です!?」
「晴明が一人でその道を行ったのなら、誰かが追わなきゃいけないだろ?」
「ーーっ」
「俺が追わなきゃ、晴明が一人ぼっちになっちまう」
誰も、この時代で、誰も晴明に寄り添えないと言うのなら、遠い未来の人ではあるが、雪緒が寄り添うしかない。寄り添える可能性がある、雪緒が寄り添うしかないのだ。
時代は違えど、雪緒は今平安に居て、晴明と共に在れるのだから。
雪緒が助けたい人の中には、晴明も入っているのだから。
「ありがとう冬さん。なおさら決心が固まったよ」
晴明と同じ境遇を辿るということは、雪緒が我知らず渦中に放り込まれる事と同義だ。それは、家族を心配させるかもしれない選択だけれど、雪緒には晴明を見捨てるという選択肢は無かった。
「……もう、私が何を言っても聞かないのですね?」
「ああ。元々、意思を変えるつもりは無かったからね」
冬は諦めたように一つ溜息を吐いた。
「元より、そんな気はしていましたけど、こうも頑固者だとは思いませんでした」
「俺は、冬さんがこうも感情的になるとは思わなかったよ」
からかうように言えば、冬は羞恥に頬を赤らめた。
「感情的にもなります。晴明様と雪緒さんには、幸せでいてほしいですから」
そう笑った冬の顔に先程までの険は無く、常のたおやかな笑みがそこにはあった。
冬にきさらぎ駅から安全に帰るための方法を教わり、買い出しを済ませて戻るも、晴明の機嫌は直っておらず、二人が帰ってきてもついっと視線を逸らした。
その態度は食事中も変わる事無く、寝入る前も変わる事が無かった。
少しだけ距離を開けて、二人は寝転ぶ。
「晴明、お前が何と言おうと、俺は明日から動くつもりだ」
声をかけても、晴明は返事をしない。
「お前に心配かける事もちゃんと分かってる。だから、今朝言った以上の危ない事はしないよ」
雪緒に背を向けて眠る晴明。その背中を見る。
「晴明が嫌だと言うなら、俺に何も教えなくて良い。手も、貸さなくて良い。そもそも、最初から晴明を宛てにしていた俺が間違ってた。自分の事なら、自分でどうにかしなくちゃな」
今思えば、晴明の力を借りる気満々のあの発言は、どう考えても失言だった。
「ごめんな。晴明の気持ち考えないで、勝手な事言っちまって」
精一杯の謝意を込めて謝る。
「……これは、俺の我が儘になるけど、次に俺がここに来たときは何時も通り迎えてくれると嬉しい。俺は、必ず帰って来るから。ごめんな、お休み」
最後まで返事が無かったので、雪緒は謝罪と就寝の挨拶だけすると、そのまま寝入った。
雪緒が寝入り、途端に音が無くなる。
二人の呼吸の音だけが聞こえて来る。
「のう……」
不意に、晴明が声をかける。
が、雪緒からの返事は無い。
晴明は起き上がり、雪緒を見る。
必然的に人から感じられる生命の反応は、しかし、隣で眠る雪緒からは感じ無い。
寝たのでは無い。雪緒は先の世へと戻ったのだ。
魂はそこには無いのに、呼吸を繰り返す雪緒の身体。
晴明は雪緒の側まで寄ると、その手を握る。
魂は無いのに、確かに温かい。
体温の低い晴明に、雪緒の体温は心地好い程温かかった。
いったいどんな原理なのか、脈もあれば呼吸もする。そして、多少の生理現象も残している。
その道に精通している晴明でさえも、計り知れない状態だ。
ともあれ、今ここに雪緒は居ない。
晴明は、それを認識すると、ゆっくりと口を開く。
「ここは、其方の居るべき場所では無い……」
けれど、雪緒が帰って来ると言ったとき、晴明は心底から歓喜してしまった。
いずれ終わる関係であるかもしれない程、不安定な状態だと知っていて。
「けれど、私は其方が平安に来てくれるだけで、嬉しい……」
今まで、園女以外の人に対しては思った事が無かった。
嬉しい。
そんな気持ちを、出会って日の浅い雪緒に思うとは思いもよらなかった。
理解者だとは口が裂けても言えない、けれど、友人だとは思っている。
口がよく回って、明るくて、自分の占いの力も頼らず、ただ側に居てお茶を呑んでくれる。意見のぶつかり合いもあり、気に入らない言動をすることもある。今日だって、力を貸してくれと頭を下げた。
最初は、またかと思った。またなのかと落胆し、激昂した。
けれど、違った。
知恵を貸してくれと、雪緒は言った。真摯に頭を下げた。今までに無い真剣さがあった。裏表など、見受けられなかった。
少しだけ乱れている雪緒の髪を、そっと指で整える。
力も無いのに、知恵も無いのに、雪緒は自ら危険に飛び込むと言う。
それが、晴明には理解できなかった。
晴明には卓越した才能と力がある。けれど、力とは反して、心は弱かった。年相応にすら達しない、臆病な少女であった。
大人ぶって冷静を演じてはいるけれど、内心は何時だって怯えている。
多重に陳を敷いた家から出るのも怖い。常に心許せる誰かが居ないと落ち着かない。
だというのに、あの日は一人で家を出た。
式鬼召喚に失敗した日。陳に乱れが生じた日。雪緒と始めて出会った日。
何故自分が一人で家を出たのか分からない。本当は家を出るのも怖いのに、一人で脅威が待ち受けているかもしれない場所に向かった。
その時の心中は分からない。けれど、会いに行かねばと、そう思ったのだ。
そして、雪緒に出会った。
「私は、お前に会うために……」
生きてきたのだろうか?
そんな事を思ってしまう程、雪緒という存在をあっさりと受け入れられた。
喧嘩もして、言い合いもして、苛立ったりもするのに、嫌いになれない。
「私にとって、お前はなんなのだろうな……」
眠る雪緒に問い掛けるも、安らかな吐息だけが、返答であった。